若山牧水 【わかやま・ぼくすい】

歌人。本名、若山繁。明治18年8月24日〜昭和3年9月17日。宮崎県東臼杵群に生まれる。明治37年、早稲田大学高等予科に入学し、尾上柴舟に師事する。第一歌集「海の声」(明治41)、第二歌集「独り歌へる」(明治42)は発行部数も少なく、ほとんど反響を呼ばなかったが、この二集にその後の作品を加えた「別離」(明治43)により、一躍新進歌人としての地位を確立。初期には人妻との恋愛体験を軸に、青春の憧憬と不安を浪漫的にうたったが、中期には父の死による帰郷、経済的な行き詰まりを背景に、「死か芸術か」(大正1)、「みなかみ」(大正2)など、内面の暗部をうたう重苦しい歌が多くなる。後期には「くろ土」(大正10)、「山桜の歌」(大正12)など、旅、酒、自然の歌に焦燥感、寂寥感から徐々に清澄、円熟を加えていく。昭和3年9月17日、肝硬変により死去。享年43歳。代表作は「海の声」、「別離」、「路上」、「みなかみ」、「山桜の歌」など。

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著作目録

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回想録

 牧水君が山吹町の宿に居た頃がいちばん来往のはげしかつた時だつたと思ふ。私はやはり発句で、君は短歌だつたが、話はいつも創作についてはなし合ふことが多かつた。或る日、ひよつこり君が戸塚の私の宿へ尋ねて来て、いゝところを俺が見つけたから行かないかといつて誘ふので、一緒に出かけて行つてみると、其処は緩い傾斜の松林で、稚松の間に、穂をそゝけだつた芒が疎らにとび生えてゐて、秋日影が万遍なく林を照らしてゐた。からつとした青い空の下に、早稲田の田合村が遠く見渡せた。何でも目白台近傍の林の中だつたらうとおもふ。
 二人は若い日に酔ふてから、枯草の上へ寝そべつたり、又起きては話しながら歩いた。その時、君がうるはしい声をはりあげて唄ひつゞけた面影は今も深く私の印象にのこつて居る。「はるの雨降れる宵なりあたゝかう君にながるる我が涙かな」といふ歌は、自作のだつたか誰か人のだつたかしらぬが、しきりに繰り返してこの歌をうたつたことをおぼえて居る。そのくせ、私はその前夜友人等と終夜骨碑をたゝかはして、さんざ天どんやなんか喰ひちらかして胃ノ腑は悪るくするし、へと/\に疲れて居たので、睡くて/\幾度か枯草の上で、熟睡に落ちやうとしては揺り起こされたものだ。
飯田蛇笏「歳月ながるゝことの迅さ」
昭和3年12月



 先生には随分いろ/\な方面があつた。それをほんとうに理解して居る人はさう多くないやうに見える。甲の見た先生と乙の見た先生とがまるでちがふやうな場合すらあるが、それはいづれもまだその半面をよく見てゐないからだ。例へば先生が非常に暢気でだらしない人であつたやうに見てゐる人がある。なるほどそんなところもないではないが、しかし、その半面には非常に几帳面なところもあつた。私などそれを充分に承知してゐる筈でありながら、死後の種々な跡片付をやりながら先生がいかに几帳面であつたかに驚かされたほどである。それから先生の歌を見て言葉に対して甚しく無頓着であるなどと評する人があるが、どうして/\無頓着どころではない。写真版にして口絵に出しておいた歌のノートを見ればいくらかわかるだらうが、ある場合には一首の歌をつくるために大学ノートの一頁を真黒くしてしまふやうなことも珍しくなかつた。数年間にわたつて幾回となく作りかへた歌などもある。そんなにまで言葉に対しては苦心してをられた。
大悟法利雄「逸話一つ」
昭和3年12月



 若山君は短躯で、がつしりしてゐる。樸訥な日向人である。私が初めて早稲田の予料に入つた時、私は彼と知つた。何でも私が「明星」か「白百合」かを読むでゐると背後から差覗いてるヅングリムツクリの人があつた。それから色々話し出して見ると郷国は日向だと云つた、私も九州だと云つた。それから帰りに私の下宿へ行つてまた話した。これが二人の初対面であつたが、それから二人は親しくなつて、後には同じ下宿に半年ばかり居た。その頃私は射水と云つてゐた、そして彼は牧水、もう一人蘇水と云ふのがゐた、これが早稲田の三水だなぞと威張りくさつてはお互になまけてばかりゐた。大概教室から逃げ出しては雑司ヶ谷や落合や戸山ヶ原の秋色などを探して回つた。彼は独歩の「武蔵野」などに心酔してゐたので、小丘の落葉を藉いては、耳傾けたり、野末をゆく空車の音などを聴いて喜んでゐた。
 その頃まで私は痩せてひよろ/\してゐた。
 よつぽど経つて、私がもと「文庫」に歌を出してゐた白秋といふ男だと知ると、吃驚りして、貴方が白秋さんでしたかと云つた。毎日同じ下宿で始終騒いでゐながら、少しも知らなかつたのであつた。私も黙つてゐたのであつた。
 下宿では私の事を坊つちやんとか北さんとか云つてゐた。若山君は若さんであつた。若さんと云ふとさも華族の坊つちやんでもあるらしいが、御本体は矢つ張り田舎者の九州つぽうであつた。
北原白秋「どうでもしなはれ」
大正8年5月



 若山君位酒の好きな人はあるまい。彼こそ本統の酒仙であらう。酒に酔ふと、たわいもなく眠りこけて了ふが、朗々と得意の吟声をきかせる。歌の議論など真つ平と云ふ風である。而して傍から何かと議論でも吹つかけると――『どうでもしなはれ、わしや知らぬ。』とごろりと寝てお了ひになる。
 ともすると、非常に陰欝になつて、黙つてチビリチビリとやつてゐる。さう云ふ時は、妙にどす黒い重い感じである。
 若山君位また旅の好きな人もあるまい。フラリと行つてはフラリと帰つて来る。彼は全く旅に出なくてはならなくなつて旅に出る、それは酒を飲まずにはゐられなくて飲むのとおんなじである。酒の牧水、旅の牧水ほど牧水の真骨頂をあらはしたものはない。酒は彼を活気づけ、旅は彼を洗ひそゝぐ。
北原白秋、同上



 歌会の折など発生が採らるゝ歌が点数の少ない場合は屡だつた。殊に公開の場合にさうであつた。先生が歌について問題とされる事は第一に生きて居るか死んで居るかであつた。生気の有無であつた。一部からしつかりした巧な歌と見倣さるべきものを捨てゝ幼くとも生きてゐる歌を採られた。そんな点から先生は技巧を重んじない様に思はれる人があるがこれは誤である。成程荘重に感ぜられる様に云はうとか言葉の上の調子を張らせやうなどゝ少しもされなかつた。却つて用語は平易を尊び調子は自然なるものゝうちにありとせられた。即ち如何にしたら巧緻な作品が得らるゝかより如何にして詠歎が如実に表はせるかに苦心せられたのである。為に「歌ひ流す」と一部の人に見傲さるべきことを知つてやつて居られた。「近頃は見てわかる歌ばかり多く聞いていゝと思ふ歌が少ない」などゝ嘗て云はれたこともあつた。
 先生の御批評は理論的ではなかつた。清澄の御心から発する印象批評であつた。聞いて居て思はずうなづきたくなるものであつた。理論は結局本然のものに触れ得ない。先生の御批評は理論的と云ふよりも理論以上のものを持つて居たと云ふべきであらう。批評の御言葉も多く抽象的であつた。「淡いながら息をして居る」とか「乾いて居る」とか「口先ばかりで物を云つてゐる」とか云ふ風な言ひ方をよくせられた。
高橋希人「断片」
昭和3年12月



 電車は混んでゐた。
 牧水氏も僕も、吊皮につかまつてゐた。
 ふと見ると、坐席が一人分空いてゐる。立つてゐる誰もが、然し敢てその空席を占めようとはしないのだ。運転手台に近いところだつた、そこに乳呑児を負うた乞食のやうな中年のお内儀さんが掛けてゐる。癩病患者か梅毒患者か、と思はせるやうな腫物で顔も髪も塗れてゐるのだ。で、つまり誰もがその隣席へは腰をおろさうとしないのだといふことがわかつた。
 牧水は、然しその空席を見出すと、何の関心もない態度で腰をおろした。
      ×
 僕は相撲は見てゐられない。肉弾相打つと云つたやうな男性的な壮快味よりも、先づ残酷な、悲痛な気に襲はれるんだね。僕は一度国技館へ行つて、脳貧血を起してしまつたことがあるよ……と、牧水は或る時僕に話した。
戸川貞雄「「朴の花の記」後記」
昭和3年12月



 牧水は遂々酒に生命を奪はれた。――
 といふやうに考へることは、彼に対してあまりに粗雑過ぎる。彼は酒と融合同化してしまつたのだ。その「酒」は、舌にあまく、腸に泌みたに相違ないが、彼の長からぬ生涯を通じて思へば、あの芭蕉や西行の感じた人生の「寂しさ」が彼にとつては「酒」に象徴されてゐたのだ。(中略)
 彼が何歳から酒を愛しはじめたか、僕はそれをたしかに知らないが、早稲田の学園で偶然僕等が交遊をはじめた当時、すでに彼の酔興は僕等の評判にもなつてゐたのだから、二十年以上、彼は絶えず酒盃を離さなかつたことになる。酒量は月と共に、年と共に増して、連日二升三升にも及んだことがあるといふ。それが健康にさはらないはずはない。(中略)
 実際一日に三度三度、といふよりは、ぶつ通しに飲みつゞける日も多かつた。最後の病症だつた肝臓硬変症は全く酒のための原因によるもので、心臓も胃も腸も、むちやくちやになつてゐた。重体になつても、烈し酒の気をからだに切らせては却つていけないといふので、二合三合、病床で一日にのんでゐた。呼吸をひきとつたのは十七日の朝だが、その前日の朝も強ひて病床に起きなほつて、もう二合ばかり飲んだのだと、看護の人々は語つた。僕が、その十六日の午後二時ごろ、枕辺に坐つて、案外危篤などゝ思へなかつたのは今思ふと、顔の色もわるくなく頬のやつれも見えない理由が、朝酒のためだつたとは、あまり酒をのまぬ僕が、死んでからあとに気のついた事実なのだつた。「末期の水」にこはくのとろりとした酒をすゝつたといふことも、いかにも牧水らしい。本統に、以て瞑すべしといふべきだ。
土岐善麿「牧水追憶」
昭和3年12月



 沼津の家へはたつた一度お訪ねしたきりである。一昨年だつたか、比叡山からの帰りがけ、夜明けに汽車が沼津でとまつた時、ふと牧水氏の顔見たくなつたまゝに、途中下車してお訪ねした。邸宅はあの通り立派だつたが、しかし牧水氏の童顔と童心は昔と少しも変りがなかつた。それにあの四畳半だつたかの書斎はいにも牧水らしいものだつた。小さい囲炉裏の五徳には酒の土瓶がかゝつてゐて、徳利は畳の上にころがつてゐるし、書きくづしの原稿紙は室一面に散乱してゐるし、書生ツポの書斎と言つていゝか、酒仙の書斎と言つていゝか、ともかく恐ろしく雑然とした、しかし愉快な書斎だつた。はゝあ、こゝで真夜中にチビ/\と独酌の味をたのしみながら興にまかせて書くのだな、と僕は思つた。牧水氏はすぐに僕を朝の千本浜の散歩に誘つた。そして漁師から生きのいゝやつを一笊買ひ込んで帰ると、奥さんがそれを料理してくれる。やがて磨きあげた二階の廊下で、霧の徂徠する遠景を眺めながら酒。浪の音をきゝながら、いゝ加減いゝ気持に酔はされ、家の写真を貰ひ、牧水氏と奥さんに見送られながら、その日の夕方の汽車に乗つた。が、氏の玉をころがす朗吟も、あれが聴きをさめになつてしまつた。あの時貰つてきた写真と、『みなかみ紀行』一巻が、飛んだかたみになつてしまつた。僕は由来誰の顔にしろ、その笑顔が一番はつきりと印象に残るたちだが、牧水氏の笑顔ばかりは、とりわけて好きなものだつた。かうして思ひ浮べても、あの南国の顔は僕ににこ/\と笑ひかけてゐるやうな気がする。
中西悟堂「小さな思ひ出」
昭和3年12月



 かうした関係から、僕も次第に牧水氏と文通し、遂に創作社を訪ねて逢ふことにした。僕が訪ねた時、牧水氏は二階の汚ない部屋に案内され、酒など出して待遇されたが、当時僕は頭髪など縮らして大にハイカラぶつて居たので、田舎者ムキ出しの牧水氏には、いさゝか意外の苦手らしく、妙な顔して僕を不思議さうに眺めてゐた。僕の方でも、牧水氏の意外に田舎者であり、百姓然たる風貌に少しく面喰つた形であつたが、その中に話してみると、非常に親しみがある人物なので、すつかり打解けて懇意になつた。
 その後も幾度か、僕は牧水氏と一所になり、よく浅草公園の裏通りや、吉原の遊廓などを歩き廻つた。僕の驚いたことは牧水氏がよく人の腰を打つ癖のあることだつた。何とか言つては、「どうだね」と言つて僕の腰を叩く。それが如何にも百姓らしく、純朴な好人物を感じさせた。しかし僕の都会的な趣味性格と、牧水氏の田園的な野性とは、どこかで食ひちがふところがあるらしく、お互に好意と敬愛とを持ちながら、真に気心まで打ち解ける機会がなかつた。(中略)
 かうして牧水氏との友情は、さまで親密とは言へないながら、お互に深い敬愛と好情とを感じ合つて、割合に長く続いてゐた。僕はどうかして一度、牧水氏と思ひきり洒を飲み、倒れるところまでやつて見たいと考へてゐた。牧水氏の雅号が示す通り、その真に牧歌的な風貌を考へると、何となく物なつかしく、いつでも逢ひたいやうな親しみを感じてゐた。端的に言ふと、僕は実に牧水氏の人物が好きだつたのだ。また牧水氏の方でも、一種の苦手とは感じながら、何となく僕が好きであつたらしい。なぜならその後も、機会ある毎に僕を訪ねて、わざ/\前橋の家まで来てくれたから。
 これについて一度、どうしても牧水氏に気がすまず、僕の詑をしたいと思つてることがある。それは丁度、或る年の九月頃であつたが、僕が折あしく外出してゐるところへ、飄然と牧水氏が訪ねて来て、玄関へ取次ぎを乞はれたのである。僕の父が出て来てみると、見知らぬ薄汚たない風采をした、一見乞食坊主のやうに見える男が――と父は後に僕に話した――横柄にかまへて「朔太郎君は居ますか」と言つたので、てつきり何かの不良記者かゆすりの類と考へ、散歩中の不在を幸にして、すげなく追ひ帰してしまつたさうだ。後に父からそれを聞いて、僕は風采から想像し、或はその乞食坊主が牧水氏でないかと思つた。それで父に向ひ、その人の名を聞いたかと問ふたところ、聞いたと言ふ返事だつた。
「若山とは言はなかつたでせうか?」
「さう‥‥たしかさうだつた。」
 そこで僕は吃驚してしまつた。あの西行のやうな牧水氏が、遠いところから訪ねて来て追ひ帰され、孤影悄然として門を出て行く姿を考へ、名状できない寂しさと、気のすまない思ひで一杯になつた。そこで父に向つて言つた。
「何故止めておかなかつたのです。あの人が有名な若山牧水ですよ。」
「なに? あれが歌人の牧水か? あの有名な若山牧水だつたのか?」
 と言つて父もにわかに吃驚し、急に大騒ぎを始めたけれど、もはや牧水氏の行方はわからなかつた。
萩原朔太郎「追憶」
昭和3年12月



 何時であつたかよく覚えてゐないが、数年前の丁度今頃だつたと思ふ。郊外のとある家で二人で中学時代のことなどを話しあつた時のことである。彼れの容貌は少年時代と殆んどそつくりであるが、
「君はいつみても若いね」
と笑ひながら云ふと
「僕は永劫を信ずるからな」
平気で彼は斯く答へるのであつた、そして彼の広い額から身体全部にかけてその信念に充ち満ちてゐるかのやうに思はれた。これは彼としては冗談半分答へたつもりらしいが聴いてゐる自分には左様は思はれなかつた。これもいつであつたか覚えてゐないが或人の歌集を読みながら、
「君こんな歌を作つて自分で心苦しくはないだらうかね、眼前の事ばかし考へて時代の傾向に迎合する事ばかりやつてるんだ。愚劣だね――死んでから全集を編む時の悲哀が思ひやられるぢやないか、あゝ厭だ、厭だ」
と吾事のやうに長大息するのも度々聞いた事がある。
平賀春郊「俺は永劫を信ずるよ」
大正8年5月



 学校を出たのが四十一年、それから四五年の間、彼が結婚するまでは、若山君の放浪時代であつた。ひどく貧乏で、酒をたしなむことがます/\深くなり、中央新聞ややまと新聞の社会部につとめたが、それも半年とつゞかず、方々の下宿を転々してあるいた。泥酔して暴漢からなぐられて一晩象潟署の保護を受けたり、線路の上に臥て電車をとめたり、まだ明るいうち猿又一つになつて牛込見附のところの濠に飛び込んでお巡りさんに救はれたり、時々酒のうへでの奇行を演じて僕たちを驚かしたのはその頃である。
 かなり荒んだ生活であつたが、歌はたへず作つてゐた。彼の創作に対する執着はつねに僕を刺激した。彼はよく「おれはオール・オア・ナツシング主義だ」と云つた。それは学校で坪内さんから講義を聴いたイプセンのブランドの言葉だ。全部か無一物か――これは、よほど強い人でなければ云へない言葉だ。いつか喜志子さんが何かの雑誌で、良人に対する感想の中でこの言葉をひいてをられるのを見たが、この言葉は、生涯を通じて彼の生活の信条となつたらしい。それから又、彼はこんなことを云つた。「君、新聞に活力素といふ売薬の広告が出てゐるだらう。僕は近頃すこし活力素が足りないやうだ。」兎に角その当時の若山君はその全生命を傾けて生の享楽と創作に一身をさゝげてゐる感があつた。
福永渙「若山牧水を憶ふ」
昭和3年12月



 私は牧水君とは、早稲田時代の親友でした。教室では毎日毎時間、おなじ机に、席をならべてゐました。学生としては二人とも怠けもので、好きな科目の時間でなければ、出席しません。中等教員の免状を下げてもらうのには、いろ/\イヤな科目の面白くない講義をも殊勝らしくきいて、丹念に筆記しなければならなかつたが、それが嫌いで/\、殆んどでたことはなかつた。学校の事務所の方でも見るに見かねたものか、そんなことでは、免状はもらへないぞと警告してきたが、二人とも、入りませんと、きつぱり辞退したのをおぼえてゐます。
 かうしてイヤな科目の時間をすツぽぬかして、何をしてゐたかといふと、大ていは学校からほど近いあたりの武蔵野をそゞろあるいたり、半日も草の上にゴロ寝して、春さきのポカ/\と温くなつたころの、淡くたなびく空の雲をみあげながらぼんやりと若き日の夢にふけつたりしたのです。
藤田進一郎「もの足らぬ心」
昭和3年12月



 併し入社後の僕等の成績は――僕も、恐らくは若山君も、あんまり薫しくはなかつたらしかつた。少くも、小野瀬氏を満足せしめた永代君の如何にも新聞記者らしいスマートさからみると、僕等はまるで板について居らなかつた。それで、若山君も僕も、初めは社会部の外交といふことであつたが、僕は二三ヶ月で家庭部へ廻されて、主として翻訳などをやらされることゝなり、若山君は社会部に止つてゐたが、外交記者の腕を振ふ突発事件などはあんまり手がけなかつたやうに覚えてゐる。(中略)
 一度、若山君と僕とが一組になつて、幾らかの探訪費を貰つて、両国の川開きに雑観をとりにやらされたことがあつた。何でも、川の向ふ側とこちら側へ二人づつ出されたので、若山君と僕とは向ふ側の組であつた。それで二人は橋を境に上流と下流に手別けをして警戒する筈であつたが、いゝかげん二人してそこらをぶらついて社へ帰つて来た。両国橋を渡る時に、『これはえらい人だ。橋を渡るにどの位かゝるか、時間を取つてみませうよ。』と若山君は云つて、時間を計つたりした。
 それから若山君はよく今でいふフイチユア・ストーリー式のものを書いてゐた。そしてそれが非常にうまかつた。当時の社会部長は堀紫山氏であつたが、若山君の此の種の文章には感心して居られたやうであつた。何でも『電車哲学』などゝ題して、外濠電車の納涼気分を書いたものなどがあつた。軽い諷刺とユーモアに富んだ名文であつたやうに記憶する。
光用穆「中央新聞時代」
昭和3年12月



 九月十七日。
 お見舞ひ下さつた方々もその夜は一睡もされなかつた。暁方四時頃であつたらうか、「北原は来たか?」ときく、お見えにならぬと云へば「俺を圧迫しに来るぢやあるまいな、この病人ぢやどうにも仕方がない」と云つて笑つてゐた。
「母さん一杯くれ」といふ。飲んでから「どれこれでいゝ気持に一睡りするとしようかな」と枕元の時計を手にとつて見て「今四時二十七分と、もう一時間すると夜が明けるな。それをたのしみに一ねむりするとしよう」と云つてすこし目を瞑つたかと思ふとまた開いて大勢の人の顔を眺め、「皆どうしてそんなにいつまでも俺を見てゐるのだ、俺はゆうべ酔ぱらつて何かしくじりでもしたといふのか?」と苦笑の表情をした。
 午前の一時頃から呼吸が困難になつたので酸素の吸入を始めたが目を覚しては光る漏斗形の吸入器を、「これは何だ、何のためにかうしておくのか」とたづねる。「呼吸がお苦しくならないやうにしてお上げ申すのです」と先生が仰有ると、「さうですか」と云ふ。そのうちにまた何だとたづねる。そんなことを何遍もくりかへして夜明に及んだ。六時半ころ一度冷汗が流れてもはや絶望と思はれたのにまた意識が明瞭になり、既に四肢は冷たく硬ばつて自由もろくにきかぬ手に紙をとつて痰を拭きとりなどしたので意外に思つてゐたが、やがて再び冷汗が流れ今度はつひに目も見えず耳もきこえず呼吸さへ漸次に細り全くの臨終に陥つて仕まつた。「御臨終でございます」と先生の仰有るのを合図に、私はせめてもの心やりにとコツプに一つぱいのお酒をとりよせて唇をしめして上げ、次に子供たちにそれをならはせ、順次居並んでゐる人達にお願ひ申して全くの名残を惜しんだ。恰も蝋燭の火が名残なく燃えつきて最後の煙がありなしにたゞよつてゐるやうに、静かな静寂な臨終であつた。時に午前七時五十八分。実に文字どうりの永への眠りに入つたのである。
若山喜志子「病床に侍して」
昭和3年12月

明治44年 年代未詳 昭和3年


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