上田敏 【うえだ・びん】

評論家、外国文学者、詩人。柳村の号も用いる。明治7年10月30日〜大正5年7月9日。東京築地に生まれる。明治22年、第一高等中学校に入学。明治25年から同人雑誌に訳詩などを発表しはじめる。明治27年、東京帝大文科大学英文科に入学。指導教官のラフカディオ=ハーンに、その英語力を絶賛される。明治34年、評論集「最近海外文学」、「文芸論集」を刊行し、海外の文芸思潮を広く紹介。明治36年、東大英文科の講師となる。明治38年、訳詩集「海潮音」を刊行。欧州の象徴派詩人を多く収録し、蒲原有明、北原白秋をはじめ、日本の詩壇に多大な影響を与えた。明治41年、新設の京大文科大学講師となり、外国文学研究者としての本格的活動がはじまる。明治43年、精神的自叙伝ともいうべき小説「うづまき」を発表。大正5年7月9日、尿毒症により死去。享年41歳。代表作は「最近海外文学」、「みをつくし」、「文芸論集」、「海潮音」、「うづまき」など。

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著作目録

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回想録

 上田先生の偉大なところは、実に scholar-critic の立場においてであった。先生の詩にたいする理解の深さについては先生から離れて行った菊池寛も十分に認めているところであり、矢野峯人氏などは、最上の讃辞をもって詩並に講義のすばらしかったことを称えている。英文学を講ずる大学教授として、文学の本当にわかるという人は、そうザラにはない。今日もその人少なきを私は憂えているのであるが、先生の講義はたしかに正しい理解、真の鑑賞に達したものであった。しかもその視野の広大なことは驚嘆に値いした。英文学者で源氏物語を翫味熟読し、伊曾保物語を考証し、江戸時代の文学を味読し得るものが、他に幾人を数え得るか。雅楽がわかり、歌舞伎がわかり、長唄清元等の俗曲がわかり、しかも西洋音楽に対しても、ディレッタンティとして最高の知識を持つということは先生を措いて容易に求め難いところである。
石田幸太郎「上田敏の観賞眼」
昭和34年7月



上田先生の晩年は、決して幸福なものではなかった。第一は教えて居た学生が、全く先生を失望させて居た。文学を本当にやろうなど云う学生や、また詩を愛好するような学生は一人もなかった。皆学士号を貰ったら、中学の先生になろうと思って居たのだから。従って上田先生は新入生がある度に『此中で詩をやる人は誰です』と訊いて居たが、それに対してハキ/\答えるものは殆ど一人もなかった。で上田先生は文科の教授として誠に、し甲斐のない講義を続けて居られたと想像される。
 その上、文壇に於ける先生の位置も小説「渦巻」を「国民」に出されてから後は、決して得意なものではなかった。明治三十年代には欧洲文芸輸入のパイロットとして、文壇に於て華々しく活躍して居られたのだが、自然主義勃興以来は、段々不遇の位置に退かれたように思う。自然主義の勃興の為に、先生の信奉せられたクラッシズムの芸術などは、文壇に於て少しも顧みられなくなり、又自然主義の興起と共に生じた小説万能の傾向は、その反響として詩壇を衰微せしめた。それやこれやで、クラッシズムの芸術を讃美し、詩壇の擁護者であった上田博士の位置が段々不遇なものになったのも自然の勢であった。「明星」の廃刊も、博士を淋しくした一の原因であろう。晩年の博士は、こうして段々文壇から離れてしまった。自分は、教室で博士が自然主義の攻撃をするのを聴く事は一寸淋しい事であった。
菊池寛「晩年の上田敏博士」
大正7年6月



 柳村(敏)は『文学界』以来余香深く雅致高き流麗の文章を以て、夙に泰西の芸文を論じ、新声を伝へ、紹介之を努めて倦まなかつた。このうら若くして沈静した詩魂めでたき学匠の存在は新日本の騒壇の為めにどれだけの潤沢と光芒とを与へたか知れぬ。(中略)
『海潮音』の名訳であることは衆口の一致するところである。彼の彫心縷骨の訳述は寧ろ創作の苦業であつた。(まこと)に異邦詩文の美を和語の雅醇に移し、限りなき韻律と色彩の薫りを紙上に燻きこめた偉業は前代にも見ず、大正昭和を通じても絶えて後を継ぐものは現れぬ。近代詩壇の母はまさしくこの人である。
「巻中収むる所の詩五十七章、詩家二十九人、伊太利亜に三人、英吉利に四人、独逸に七人、プロンスに一人、而して仏蘭西には十四人の多きに達し、曩の高踏派と今の象徴派とに属する者其大部を占む。」とある『海潮音』のその訳詩の影響は時の大家をはじめ、新進の詩人の間に凄まじい陶酔と魅惑とを誘つた。
北原白秋「明治大正詩史概観」
昭和4年4月



 いかにも上田先生は三高の先生ではなかった。けれど、大学より三高が好きだった。吾々がいた頃、学校へ来て講演をされたこともあった。そのなかで、ロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」の話をされた。この頃でこそ翻訳がいくつも出て決して珍らしくはないが、五十余年前、実に忘れてしまう程昔のことなのである。「この小説は主人公がまだあか児の時から描き出して、あか児が教会堂にひびき渡るオルガンの音をきいて夢見心地になるところから始ります」と、話されて、是非読んでみよとすすめられた。その時ルナァルの「博物誌」の話もされたと覚えているが、岸田国士がそれを訳したのは余程たってからのことだった。それ程先生はいつも世に先んじていた。
 それから話がどんな風に進んだか今はもう覚えていないが、「パリの街を歩いていてピアノの音をふと耳にすると、東京で裏町の露路からもれて来る清元の三味線を聞くような気がします」というような事になって、「そういう日本の情緒を味わおうとすれは、どうしても豆絞りの手拭でも肩にかけて投げ節のひとつも唄ってみないと駄目なように、西洋のオペラなどの味を充分知るには、ちょっとこう」とチョッキの脇あけに親指をかけて見せて、「こんな格好をして、ラ・ドンナ・ユ・モビレてな、今見て来たオペラのひと節を思わず口にしながら歩くようでないと、味はでません。夜ふけてパリの街を歩いていると、よくそんな姿を見かけました。ちょっと気障ですが、なにかまやァしません。やってみることです」と、話された。いかに西洋、殊にフランス好きで、いきな先生だったろう。
木島平治郎「上田敏先生のこと」
昭和41年



私は早々帰宅して約束の時間を待ち、入浴の上、紺飛白の着物に袴をつけて先生の門を叩いた。郵便箱にはΕΠΙΣΤΟΛΗと記されてあり、呼鈴の下には Poussez S.V.P と書いてあつた。
 しとやかな女中に案内せられて階段を上りつめたところに、源氏物語と肉太に書いた日本風の本箱があり、それから廊下に沿ふて壁の中ほどまで、ぎつしりと洋書の詰つた本棚がある。その前を通つて障子を開けたところが先生の書斎兼応接室であつた。多分八畳敷であつたと思ふ。真中より少し右へ寄つたところに紫壇の机、そのむかふに硯などを置く為の小机があり、それと並んで小さな回転式本棚があり、そこには講義用のノウト・ブツクや辞書の類が入れてあつた。机かけ、座蒲団などは当時の私には立派なものであるやうに思はれた。小机の上にマジョリカ焼のやうな筆皿があり、文鎮にはカルティエ・ラタンで買つて来られたといふ古い書物に鼠をあしらつた銅製のものを用ゐてゐられた。筆皿の方は夏目漱石氏と清水を散歩せられた時に記念の為に買つたのだと言つてゐられた。本箱は部屋に入ると直ぐ右手の壁に一つと、正面右寄りの角の所に一つあり、後者の上にメディチ協会複製のボッティチエルリの「春」の画が渋い額縁に入れてかけられてあつた。左の方、次の部屋との隔てになつてゐる長押に尾崎紅葉から先生にあてた手紙を額にしたものがかかつてゐたが、これにはたしか英訳のヱルテルを借用したいといふ意味のことが書いてあつた。尚、先生のお坐りになるところの直ぐ後に、ワニスを塗つた箱を二つ重ねたやうな質素な本棚があつて、その中にはいつも大学図書館のしるしのついたフレイザアの“Golden Bough”が入つて居り、その上には、一時レオナルドの作と伝へられた、ベアトリチエ・デステの美しい半身像の小さな複製が置いてあつたことを記憶する。
 私はこれらの事を、又この他の細かい事を――例へば部星に入つた所にある本箱の上の段には“Temple Classics”があり、中の段には“Biblot”と“Biblioteque Elzevirienne”が揃つて居り、下の段には英吉利で人から譲り受けられた自家用特製の詩集が四五冊あつたといふ事などを――二十年後の今日、目の前に見るやうに思ひ浮べる。私の生涯を通してこの部屋の中にあつたもの位印象の深かつたものはなく、又、尊敬と親愛の情を以て眺めたものはなかつたのである。
竹友藻風「上田敏先生」
昭和8年5月



上田先生は荷風氏よりも尚先輩であつたから、一層近づき難いやうな気味合ひがあつて、生前わづかに両三度しかお目にかかつてゐないのである。そしてその両三度も、明治四十四年の四月から六月まで、京都に遊んでゐた間のことであつた。当時先生は京都の帝大を教へてをられ、岡崎辺に住んで居られた。私はもちろん一人でお宅を訪問する勇気はなかつたが、たまたま長田幹彦君も京都にをつて、先生をよく知つてゐる大学生か新聞記者かが二人を連れて行つてくれたのである。それが岡崎のどの辺であつたか今では見当もつかないが、門口の呼鈴に「これを押して下さい」と云ふ意味が仏蘭西語で書いてあつたのを記憶してゐる。新しい家で、ちやうど私たちが案内された客間の天井に工夫が電燈を取りつけてゐる最中であつたから、或ひは外からその時分に転居して来られたのであらう。当時長田氏は二十四歳、私は二十五歳の青年で、敬慕してゐる先生の前へは出たものの、殆んど何一つ此方から話しかけはしなかつた。ただ先生一人が巧妙な話術でいろいろな話をして下さるのを、畏まつて聞いてゐた。(中略)
此の訪問の後間もなく、今度は先生の方から私達唯二人だけを南禅寺の瓢亭へ呼んで下すつた。くり返して云ふが、大学のプロフエツサアたる人が、年はも行かぬ新進作家をそれまでに遇して下すつたのは、余程の好意でなければならない。私たちは云ふ迄もなく感激した。が、感激するほどなほ臆病に固くならざるを得なかつた。微醺を帯びられた先生は、その言葉にも熱情が加はつて、二人の将来を訓戒し、激励して下すつたが、はかばかしい応酬さへも出来ずにしまつた私たちを、定めし不満にも歯がゆくも感ぜられたことであらう。私は今に先生に済まなく思つてゐるけれども、しかし当時の私たちとしてはあれ以上の態度は取れなかつたのも無理がないのである。
谷崎潤一郎「敏先生のおもひで」
昭和3年5月



 上田敏氏は、鴎外漁史につゞいて、海外の文芸を最も多く日本の文壇に鼓吹した一人だ。才のある、気のきいた、上品な、所謂幽麗典雅の文を書く人で、高く時流の上に超越するといふ風があつた。
 樗牛に比べると、純文芸の方では、無論この人が上だ。樗牛は通俗ではあるが、また熱には富んではゐるが、決して敏氏ほど深く外国文芸に通じてゐなかつた。
 しかし上田君はよく気障だと言はれた。いやにすます奴だと言はれた。それは例の貴族的なところが招いた世評であらう。しかし上田君にも、学者生活、学校生活がその持つた本当の芸術を出させずに終らせたやうなところがある。惜しいと思ふ。(中略)
 上田君はゾラが嫌ひであつた。ナチユラリズムの中では、かれはゾラよりもドオデヱを選んだ。モウパツサンも賞めてはゐたが、それはその芸術的な明るいところを取つたので、深い内部までは入つて行かなかつた。ロシアの文芸などでも暗い方面よりは、何方かと言へば、明るい方面を好んだ。飽まで『輓近派』で、『清新派』であつた。
 つまり深い暗いところに入つて行くことを余り好まず、又たとへ深い暗いものでも、一度芸術といふ貴族的の衣を着せたものでなければ、上田君にはぴつたりと合はないやうなところがあつた。これが上田君の三十八九年後に起つた自然主義運動に慊らなかつたところであらうと思ふ。
田山花袋「東京の三十年」
大正6年6月



その後で敏は私に
「お前は一ツ橋だから英語はわかるだらうが第二外国語は何んだ」と聞く。「独逸語だ」と言うと「独逸語は駄目だ。お前は何故独逸語なんだ。フランス語を勉強せよ」と言う。私は「文学をやる為に一ツ橋に入つたのではない」と言うと敏は「詩をやるならフランス語をしなくては、お前は独逸語をやつているのなら、一寸骨は折れてもフランス語をやれ」と言う。「ベルレーヌはお前はわかるだらうが、ボードレールはわからぬだらう。ボードレールの詩は難解だ。ボードレールは理屈を言ふ。それに対しベルレーヌの詩は情緒一点張りである」
と二人を比較した上で敏は言葉を続けた。
「詩といふ点で言へはべルレーヌとボードレールこの両方を合せるとこれでいい詩が生まれる。最近英語でこの二つを混ぜた人が出て来た。それがバトラー、イエイツだ。これを勉強せよ」と言っていた。
服部嘉修「敏と森川葵村」
昭和54年12月



 今から思つて惜しいのは、色々な都合もあつたでせうが、京都へ行つたことです。自分でも余程淋しかつたのではないかと思ひます。吾々は田舎者ですから、何処でもさほどの違ひはありませんが、上田君の様に、父祖伝来の東京人が、京都へ行つて、長く暮すのは、色々な趣味の上から、何だか、ひどく外の土地へ行つたと云ふ感じが強かつたらうと思はれます。若い時分に、まだ大学の時代や、卒業して早々の頃には旅行をしない方でした。田舎は嫌ひだと云つて、余り出掛けませんでした。少し自分の趣味の上の負け惜みもあつたでせうが、兎に角嫌ひだと云つてゐました。其処から考へても、京都行きは随分嫌だつたらうと察します。それからどうも一寸彼方の人と趣味も調子も違ふから、上田君の様な人は、京都の文科にはえら過ぎたかも知れません。従つて学生等が、一寸上田君の面白いところを認め得なかつたのかとも思はれます。謂はゞ上田君の様な洗練された気取つた趣味は、上方の人には、どんなものでせうか。その感じが徹底しなかつたかと、どうもさう思はれます。
馬場孤蝶「上田敏君」
大正5年7月



 先生のフランス語については、さきに研究会のことを語つた折に一寸触れたが、私はやがて、先生がフランス語を語られるのを聴くことの機会に接した。今から思へば、それは私のフランス語を試さうといふ意味のものであつたかも知れない。ある日先生は、私を伴つて、高台寺のあたりに住んでゐたフランス貴族といふ一人の老人を訪問された。そして私は、目のあたり先生の語られるフランス語を耳にした。それは如何にも正しい、よく選ばれた語彙の上に組み立てられ、しかも日本語の場合と同じく、程よい機智に飾られてゐた。私は後に、アンドレ・ベルソールが日本訪問の後に著した『新しき日本』を手にするや、たまたま京都で先生を訪れ、先生とフランス語で語り、そのフランス語を評して「流暢ではないが、洗煉された正しい語法を通じて、深い教養のしめされたフランス語」とあるのを読んだ。
(中略)
 夏休みになつて、私が東京へ帰らうといふしばらく前のことだつた。三條の青年会館でたしかピヤノ・リサイタルのあつたときかと思ふ、おくれて行つて入口近くに立つて聴いてゐたとき、うしろから軽く肩をたたかれて、振り返つてみると、それが先生だつた。「今夜これから東京へ帰ります。」と言ひながら立つたままで一二曲を聴いて、そのまま気軽におもての方に姿を消された。
 私が先生の温容に接したのはこれをもつて最後とする。東京へ帰られて間もなく、尿毒症の発作が先生を奪つた。午前中、森鴎外先生を訪れようとお宅を出られるしばらくの前、ピヤノを弾いて居られたときの出来事だつた。二階の室の机の上には、フローベールの『聖アントワーヌの誘惑』が、その朝読みさしのページもそのまま、たつた一冊置かれてゐた。
山内義雄「晩年の上田敏先生」
昭和22年12月



 先生、御生前にこの事を申上げる機会を持ちませなんだけれども、先生がまだ大学生時代に「読売新聞」で募集した坪内先生の「桐一葉」の批評に御当選になつて、大学服の先生のお写真と共に其御批評が新聞に出ました時、十八歳ばかりの田舎娘であつたわたくしの直覚は、文壇で第二の鴎外先生となられるのは屹度この若々しい大学生の方であらうと感じました。それ以来わたくしは雑誌「文学界」に由つて先生のラフワヱル前派其他の御紹介を読み、また雑誌「帝国文学」に由つて先生の「細心精緻の学風」を御奨励になつた文章や、其他、後に「文芸論集」と「みをつくし」とにお収めになつたいろいろの御論文と御創作とを拝見して、常に人知れず尊敬の情を懐きながら、わたくしの蒙を啓いて頂いて居りました。
 先生、早くから斯様な御感化を蔭ながら先生に受けて居りましたわたくしが、後にわたくしの第一歌集「みだれ髪」を出しました時、何人よりも先に先生がわたくしの存在をお認め下さいまして、雑誌「明星」の上で御厚意に満ちた御批評を公にして頂きましたことは、その想ひがけない過分の光栄にわたくしの胸がどんなに激しく鼓動しましたことでせう。過褒溢美の御批評とは知りながら、新しい詩壇が内はまだ混沌として居り、外は多数の保守主義者から嘲笑の材料となつて居た時に、先生の御推賞がどれだけわたくしに自信と勇気とをお与へ下すつたか知れません。わたくしは其時からわたくし自身の自重すべきことを一層覚悟いたしました。さうして、わたくしの一切の作物は拙劣ながらも、常に公には先づ先生の御覧に供へ得るやうにと云ふことを今日まで心掛けて居りました。
与謝野晶子「故文学博士上田敏先生」
大正5年8月

東京帝大時代 明治44年 大正4年



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