山高帽子 (冒頭部分)
内田百閨^初出「中央公論」(昭和4・6)
私は厠から出て来て、書斎の机の前に坐った。何も変はった事はないのに、何だか落ちつかなかった。開け放った窓の外に、夕方の近い曇った空がかぶさってゐた。大きな棗の枝に薄赤い実がなってゐる。私はその実の数を数へながら、何となく頻りにそはそはした。今出て来た厠の中に、何人かがゐる様な気がした。何人かが私を待ってゐるらしく思はれた。
家の中には私の外に、誰もゐなかった。みんな買物や使ひに出たきり、まだ帰って来なかった。近所の家から、何の物音も聞こえなかった。日暮れが近いのに辺りは静まり返ってゐて、ただ遠くの方で、不揃ひに敲く法華の太鼓の音が聞こえるばかりであった。私は淋しい様な、どこかが食ひ違った様な気持で、頻りに厠の中を気にした。
その時、窓の外の、庇を支へた柱を、家の猫が逆に爪を入れながら、がりがりと音をたてて下りて来た。さうして私の向かってゐる窓の敷居に飛び下りて、こちらを見た。私がぢっとその顔を見てゐると、猫は暫らくそこに起ったまま、私を見返して、それから、何か解らないけれども、意味のあるらしい表情をして、さうしてふと目を外らすと、そのまま開け放してある入口の方に行った。私はその後姿を見て、いやな、気持になった。
(続きは書店または図書館にて...)
近現代日本文学史年表