石川啄木 【いしかわ・たくぼく】
歌人、詩人、評論家。本名、石川一(はじめ)。明治19年2月20日〜明治45年4月13日。岩手県南岩手郡日戸村に生まれる。明治35年、盛岡中学校を退学。翌年より雑誌「明星」などに詩の発表をはじめ、明治38年、浪漫主義的作風の詩集「あこがれ」を刊行。以後は小説家を志し、職を転々としながら「雲は天才である」(明治39)などを執筆したが、文壇では認められなかった。明治42年、東京朝日新聞社の校正係として就職し、翌年に第一歌集「一握の砂」を刊行。流離と貧困の生活に根ざした、深い哀傷と諧謔をうたい、新進歌人としての地位を確立。また、同年に起こった大逆事件を契機として、社会主義思想に接近。評論「時代閉塞の現状」(明治43)や、詩稿ノート「呼子と口笛」(明治44)などを執筆した。明治45年4月13日、肺結核により死去。享年26歳。代表作は「一握の砂」、「悲しき玩具」、「呼子と口笛」、「食ふべき詩」、「時代閉塞の現状」など。
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著作目録
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エッセイ・その他 : 発表年順
回想録
彼の死の一年前、私は思ひがけなく浅草のルナアパアクの園庭で彼と邂逅した事があつた。彼は私を見てやアと顔をかゞやかした。而も固く握手しながら口疾に二人はしやべつた。
これは彼の歌にもある。
二人はメリー・ゴ・ラウンドに乗つた。彼は前の木馬に跨がつた。私は後に跨つて、楽隊が囃し立てると廻り初めた。幾回か廻るうちに彼はふと後ろの私を振り向いて叫んだ。「北原君、何か面白いことはないかなア。」
私は笑ひ出した。「さう来るだらうと思つたよ。」
彼は私とまた顔見合せて声をあげて笑つた。
これより先、私は彼がその頃誰の顔を見ても「何かおもしろいことは無いかなア。」と云ふのが癖になつてゐるときいてゐたので、その日も遇つたそもそもから今に云ふか云ふかと思つて待ち構へてゐたのである。
(中略)帰りは上野まで夜の街を歩いた。啄木は云つた。「君の歌がほんとうなんだよ、真正面から君は行つてゐる。僕は裏道から行くんだ、羨ましいが仕方がない。」全く彼は気が急くらしかつた。それから次ぎ次ぎとテロリストの話が出た。私はそれにも驚かされた。
彼が病気になつたのはその後であつた。
北原白秋「石川啄木について」
大正12年9月
一体石川君は、以前は綺麗な散文や感情的な随筆はあったが、議論になると、結論が大飛躍をしがちで、寧ろ、その大飛躍を興味の中心とさえした。真の結論はどうでもよい風があって、故意に見せかけの三段論法の下から人の思いもよらない突飛な、而も刺すような皮肉な滑稽な結論を導出して一座をあっと言わして喜んだりした。(究屈な席や、女子供を交えた座などでは、殊にそんな方へ脱線して僅かにその欝勃を遣る道を見出していた。それ故大先輩や婦女子の人だちの中には石川君を、よく笑う面白い事を言う人ぐらいにしか思っていない人が沢山ある。)理解力の明透を恵まれた詩人的直覚が、直ちに或結論を掴むことが早かったが、ともすれは、その直観した結論をまず持っていて、あとから論理的な着物をおっかぶせようと急ぐことがあったから、私にも屡々その論理の欠陥が見出せた。
金田一京助「晩年の石川啄木」
昭和2年1月
新学期が始まつて、私が学校へ行つて帰つて来た日であつた。石川君が私の室へ来て、こんなことを云つた。
「けふ、外へ出て、どこと云ふ当もなく、滅茶苦茶に歩いてる内に、伝通院の方から春日町へ下りるあの大きな坂の丁度中途のあたりでしたよ。屎! と思つて、後から来る電車の前を、一と思ひに線路へ跳び込んだものですよ。するとね、車掌が突拍子も無い大声を出しやあがつて「馬鹿!」大喝一声すると同時に、ベルを滅茶苦茶に、チリヽヽヽンとやつたもんで、吃驚して、覚えず――ありや本能的ですね――跳び出したんですよ。殆んど裾をちぎる様に車台が僕をかすつて飛んで行きましたよ。僕うつかりすると死んでゐた所でしたねえ!」始終、一緒に居て、石川君の苦しい心境を知り尽してゐた私も、それを聞いてはギクリとした。
金田一京助「菊坂町時代の思出から」
昭和7年9月
東京へ出るともう、十八才の啄木は、与謝野夫婦を始め、新詩社の同人達と心安くなり、間もなく、尾崎行雄、上田敏、森鴎外、姉崎嘲風と渡りをつけたのである。その素早さは、生涯名士などといふ煙つ度いものを訪問するのを嫌つた私などの想像の出来ることでは無い。
併しこれは、啄木の旺盛な好奇心のせゐでもあつたが、同時に、いろ/\の人物、わけても当時一流と思はれて居た人達に接して、何物かを掴まうとした努力の現はれであり、一面には自分といふものを、それ等名士の前に据へて、名士に対する、自分の反影を試さうといふ、太い野心の現はれであつたと思ふ、啄木はさう言つた細からぬ胆つ玉の持主でもあつたのである。
だが、その当時の名士は、悉く啄木を引見したわけでは無く、十中八九の名士は、啄木を玄関払にしたことは事実で、私の小文「面会謝絶」にはその一端を伝へて居る。たま/\啄木の漏した口吻から私はその隠れた事情を知つたに過ぎない。
野村胡堂「石川啄木」
昭和26年12月
村の子どもたちはいつも「一さアん」と長くひっぱって呼びにきた。兄は「オーイ」とこましゃくれた返事をしながら、いそいそでてゆくのが常であった。私はときどきその男の子の声をまねて、いたずらに「一さアん」と呼んだものだ。兄は例によって「オーイ」といそいそとでてくるが、それが私だとわかるとカンカンに怒ってすぐ石をぶっつける。私は私でまた、兄のおでこの高くでているのをからかいながら「雨が降っても傘いらず、転んでも鼻うたず」とはやしながら逃げまわったものである。
また、お寺の一人息子としていばっていた兄は、私が「にいさん」と呼ぶのに、どうしても「おにいさん」と呼べといってきかなかった。ところが私はまた絶対に「お」をつけようとしない。小さい見栄坊の兄と、男の子のような頑固な私とはこうしていつも対立していたが、おでこの高いむっくりしたほおに、そのころはまだ珍しかった革のカバンを肩にかけて、指先にくるくる紐をまきつけながら寺道を帰ってくる美少年の兄、短い小倉の縞の袴に軽快な紺絣の筒袖姿の兄、その思い出は懐かしい渋民村の自然とともに忘れることができない。そして私は、いつでも兄のおさがりの木綿の着物を着た男の子そっくりの少女であった。
近年啄木を読む人は、この時代の村の貴族として、わがままに、何不自由なく育った兄を忘れている。なるほど後には流浪のなかに四散した石川家ではあるが、兄のなかにあった貴族的なものが、どこで育てられたかは正しく見ておいていただきたいと思う。
三浦光子「幼き日の兄啄木」
昭和39年10月
それから啄木君は、しばしば東京へ来るようになった。盛岡中学からストライキを起した為めに放校されていた。東京へ来ると金田一京助君の下宿にお世話になったり、私達の千駄ヶ谷の宅に泊って居た。啄木君が経済的に窮迫していることは気が付いていたが、何分一箇月六円の家賃の家に住んで其頃四人の子供を抱え、収入と云えば寄せあつめて参拾円に満たなかった私達は、どうしても君の急を救うことが出来なかった。夏の夜に啄木君は私の宅で赤ん坊の枕蚊帳を二つ合せて着て寝ている始末であった。併し私達も貧乏を今日ほど苦痛にしなかったし、啄木君も其れを不思議なほど顔に出さず「武士は食はねど」何とかというように、悠揚たる態度を持して少しもさもしい風が無かった。決して泣き言を云わず、常に白い鬼歯を出して静かに微笑みながら落ちついて品好く話す人であった。詩人だけに興奮し易く、物事に感激して語る時にしばしば涙ぐむ啄木君を見た。想像力が豊かであったので、君の話が何処まで事実で、何処まで空想であるか判断に苦しむことがあった。其頃私の宅に来られる若い友人に才気煥発という風の人々を多く見て、毎月の小集が実に面白いことであったが、君も実にその才人の一人であった。実際君は自分の自由な空想が面白くて、それを事実として、如何にも事実らしく話している時も度々あった。それが少しも人の気を悪くする性質のもので無く、啄木君のロマンチック時代の夢の華というべきものであったから、妻などはよく「啄木さんの嘘を聞いていると気が晴々する」と云って居た。
与謝野寛「啄木君の思い出」
昭和3年11月〜4年1月
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