小林多喜二 【こばやし・たきじ】
小説家。明治36年10月13日〜昭和8年2月20日。秋田県北秋田郡下川沿村川口に生まれる。大正10年、小樽高商に入学。学生時代から小説を書き始め、志賀直哉の手法を熱心に学ぶ。大正15年頃、葉山嘉樹の作品を通じてプロレタリア文学に接近し、特に蔵原惟人に理論的影響を受ける。警察による拷問を生々しく描いた「一九二八年三月十五日」(昭和3)、労働者たちのストライキを描いた「蟹工船」(昭和4)によりプロレタリア作家としての地位を確立。昭和4年、勤めていた北海道拓殖銀行を左翼運動のために解雇され、翌年に上京。昭和6年、非合法の共産党に入党。党員としての地下活動をリアルに描いた「党生活者」(昭和8)などを執筆したが、昭和8年2月20日、赤坂で逮捕され、築地署で特高の拷問により殺害される。享年29歳。代表作は「一九二八年三月十五日」、「蟹工船」、「不在地主」、「工場細胞」、「党生活者」など。
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著作目録
小説 : 発表年順
エッセイ・その他 : 発表年順
回想録
僕は同志小林と一度も話し合つたことはない。だが昨年の三月か四月か、二度ばかり顔を合せたことがある。二回とも作同の事務所で。丁度僕が、出獄後初めて事務所に行つたとき、そこに同志山田清三郎がみえ、まもなく、大きな眼と大きな鼻をした和服姿の男がみえて、ばかに元気よくしやべつてゐた。後で彼が小林であると聞いて「独房」の中の主人公も監獄から出て一晩中しやべつてたと書いてゐたが、本当の作者もよくシヤべる人だなと思つたりした。二度目に逢つたときは、彼は事務所の炊事場のたゝきのところへ入つて来ながら「今泣いてきた」と云つて眼の涙をふいてゐた。そして「おれたちだつてたまには泣くときがあらあ」と云ひながら、すぐ出て行つてしまつたが、そのとき、そこにゐた、金龍済君も「何故泣いた」とも何とも理由を聞き質さなかつたので、僕も何故、あのとき彼が泣いたんだらうかを、今も不思議に思つてゐるが、とにかく、僕には、彼はやはり感じ安い涙脆い人間かなといふ印象が与へられてるわけだ。
金斗鎔「同志よ安かに眠れ!」
昭和8年5月
小林多喜二は、あの有名な「蟹工船」を書いて、それが勤めてゐた銀行の内情をバクロしたといふことで馘首された。その後小樽から一人上京してゐたが、その後、小樽に残して来た母親を思つて、友達と道を歩いてゐる時ふと立ち止つて、
「今頃、おつ母さんは何をしてゐるだらう。」
といふ人だつた。然しこの母親や姉弟に対して深い愛情を持つてゐた彼が、一度その深い愛情を階級的に高めた時、それは最後まで、労働者農民婦人の利益のために闘つた真の英雄的な前衛として、兇暴の資本家地主の手先きの前に一歩もゆづらなかつたのであつた。
「党生活者」といふ題で書かれ、四月中央公論に「転換時代」と改題されて発表になつた小林の作品に、非合法生活をしてゐる一人の党員が、別れて来た母親に遇ふところがある。昨年三月末コツプ弾圧の際に、敵の追及の手を逃れ非合法の生活に入つた小林のお母さんへの気持ちを思はせるこの作品で小林は、老ひた母親に対して、息子が何故もぐらねばならぬか、その生活は何故正しいか、を理解させようとしてゐる。たゞ単に、階級のためには親をも捨てるといふ公式的にでなく、また、たゞ諦めさせたり、慰めたりでなく、老ひた母親をも一緒に自分の生活に理解させようとしてゐるところに小林多喜二が真に階級的に一生懸命であつた一面をもの語つてゐる。
窪川いね子「私たち働く婦人と小林多喜二」
昭和8年4月
私が少さな時、私の方が間違つてゐるとわかつてゐる時でも、無理を通さうとして随分兄を困らせたものです。而し、どんなに私が間違つた事をしても叱つたことのない兄です。
私が小僧となつて他家にゐた時など、よく菓子を持つてきて呉れたり、遊びにつれて行つて呉れたり、ことに「ロビンソンクルーソー漂流記」を買つて来て呉れた時の嬉しさは、今でも忘れることが出来ません。小説なども色々読んで聴せて呉れました。朗読が好きなせいか、夜の一時二時迄も読んで聴かせるのです。私達も聴くのが好きで吹雪が窓から入つて顔にヒヤリとかゝつてもそんなのは平気で聴いてゐたものです。志賀直哉の「子供三題」なんかは、何度も読んで聴かせて呉れました。
兄は水泳が好きで、耳は毎日のように海へ泳ぎに行きました。皆浜辺近くで泳いでゐるのに、兄はたつた一人で、ずうっと沖の方まで、頭がまるつきり見えなくなる位、遠くへ泳いで行つては私達を随分ハラ/\さしたものです。
たゞ残念に思ふのは、これからが本当のどつしりした小説を書くのではないかと、心秘かに楽しみにしてゐたのが、こんなになつて了つて、かさね/″\も残念でなりません。
小林三吾「兄の『死』」
昭和8年5月
彼の印象から豺の感じを受けたと書いたが、彼の顔は、智的な近代的な強い魅力をもつてゐたことを思ひ出す。真に男性的な顔をしてゐた。頬からあごにかけての引緊つた顔面筋肉の肉付きは、攻撃性が漲つてゐた。それでも女性的な眉をもつてゐた。その眉の下に東洋人的な切れ長の、美しく澄んだ眼がキラ/\光つてゐた。この澄んだ聡明な瞳をもつて彼は、このブルジヨア社会の事物、現象のすべてを、唯物弁証的に見抜くことができたのだらう。本部書記長であつた頃の彼は、彼に課せられた責任を階級的熱意をもつてよく果してゐた。
いつも忙しさうに事務所にやつてきて、居合せた同志達に快活に微笑を向けて入つてきた。どこか民族的に大陸的な風貌をもつた、書記の金君と、小柄で精力的な小林の対照は愉快なものだつた。
「通信費が無くなつたんです。」よく、金君はあのおとなしい性質から、遠慮勝ちにそんなことを彼に訴へてゐた。
今でもさうだらうが、其頃も同盟の本部費さへも事欠いてゐた。
「そうか、困るなあ。」と小林は、何時も幾らかの自腹を切つては、金君に渡してゐるのを見た。いゝ書記長だつた。
斎藤利雄「同志小林多喜二を想ふ」
昭和8年5月
その後彼が去年の春もぐる迄、小林とはちよい/\顔を合した。彼が阿佐ヶ谷の家へ移つてから時々尋ねる機会があつたが、それ以外は何かの大会だとか演説会だとか又は停車場のホームなどだつた。
阿佐ヶ谷の家で会つた彼は八畳の部屋の西側のヘリに一杯本を並べ真中へ小さい机を持ち出してしきりに小説や文章を書いてゐた。この殺風景な部屋で目立つたのは五十号程の港の風景を描いた油絵がかゝつてゐた事だ。
「この絵は二科を落選した絵だが船があるから好きなんだよ」と彼は非常に気に入つたやうだ。
「この頃はあんまり忙しいんでつい忙がしいのが面白くなるネ。」とか「昨日は三十人近くの人に合つてその序に小説を五枚程事き上げたんだよ」などゝ喋つて元気一杯で笑ひ乍らニユースや雑誌を風呂敷へつめ込み時計と見て飛び出して行つた。作家同盟の書記長としての彼は文字通り席の暖まる暇もなかつたのだ。
その頃の事であるがヤツプで出した「反戦絵本」の出版費のヤリクリの為に彼から十円だけ借りた事があつた。その後二三週間立つて五円だけ返へしに行つた。
彼は不思議さうに
「ほんとうに借りたんだね」と笑つて受とつた。
須山計一「作家・共産主義者として」
昭和8年5月
僕は彼の演説が大好きであつた。――
少く背延びするやうな格構で、はじめのうちは、あのう、あのう、と云ふ間投詞がはさまつて口ごもり勝ちであるが、次第に熱を持ちはじめると、北海道訛りのとれぬ言葉がいつやむとも知れず流れ出す。すると、僕は――聴衆たちは稍酔ひ心地でそれに耳をすます。よくきくと、同じ事を二度も三度も繰りかへしてゐるのであるが、それは、聴衆がなつとく行くまでは、しやベると云ふ意味からであつたらしい。彼自身大に昂奮して了つてゐる。その昂奮が聴衆にうつつて了ひ誰も彼も顔がほてる思ひで、彼の演説が終ると、何故とはなしに、あつい息を吐くのであつた。所謂演説の上手でもなくまた煽動家によくあるその場限り燃え立つて、冷めれば何ともない口調を弄するでもない。それでゐて、恐ろしく腕の中に動くものを、彼の演説は伝へた。僕は彼の演説に接したあとは、頭がよくなつたやうな気のするのも、妙であつた。このことは、単なる雑談の間にも云へる。その時、不思議に、彼の処女性(と云ふとあたらぬかも知れぬが、ういういしい飾らぬ正直さ、乃至田舎ものゝ持つ魅力、そんなもの)が、こちらに反映し、それによつて、彼が肩をあげて書いてゐる感想や論文からよりは、平易に教訓されアヂられるのであつた。純一さの持つ力、確信と彼特有の精力。時には、それがよい意味にも悪い意味にもヒロイズムとなつて現れてゐたやうである。
武田麟太郎「告別」
昭和8年5月
小樽商業を抜群の成績で卒業すると、親戚からの補助出費で小林は高等商業に進んだ。当時の彼は、学業にいそしむ傍ら、文学、絵画、音楽、映画の芸術部門の多方面に渡つて趣味をもち、同好の学生たちとグループを作つて、盛んに研究してゐた。
その当時のことを、弟の三吾君――ヴイオリンをやつてゐる――に聞かう。彼は『兄多喜二を語る』(人物評論四月号)の中で次のやうに述べてゐる。
「兄は文学のほかに絵も好きで、学生時代には油絵を描いてゐました。よくあちらこちらへ出かけては、風景を描いたり家で静物を描いたりしてゐました。二料会の中村善策氏などその頃の絵友達でした。しかし絵の方は「絵かきにロクな奴はない。」といつて叔父に叱られてからは、やめてしまひました。
その後専ら文学を志すやうになつたのですが、文学も商業学校時代から好きで、その頃から小説を書き出してゐます。兄は(中略)好んで浮売窟や貧民窟を描いてゐました。
昔書いた小説に、独身者が夜電灯を下げて虱をとつてゐる場面を描写したものがありますが、友人達が「小林の虱小説」といつて兄をからかつてゐたことを憶えてゐます。」
これを見ても解るやうに、小林の趣味は結局文学に落着いた。そして当時彼は「バルザツクやストリンドベリーが好きだつた」と三吾君が述べてゐるが、私が小林自身から直接聞いたのでは、その他にトルストイとドストイエフスキーやチエホフ等も可成り読んでゐたやうである。
彼が親んだ外国作家の範囲は、その他にも可成り広く亘つてゐたやうである。アンドレ・ジツトにも心を引かれた時代があつたとも聞いてゐる。
日本の作家では、小林は――いまは誰もが知つてゐるやうに――志賀直哉に傾倒してゐた。
立野信之「同志小林多喜二伝」
昭和8年5月
一九三二年あらゆる消息を絶つて地下に潜入する前まで彼はタンネンに下書をして更に二度も稿をあらためずには満足しない作家であつた。執筆してゐるとき彼は油が乗つてくるとペンを擱くのだと語つてゐた。油が乗つてきてペンが上辷りすることを惧れるほどの鋭い芸術家的良心であつた。(中略)
消息を絶つて地下潜入のまへ同志小林は文化・文学運動のあの歴史的な方向転換の渦中に書記長として多端な活動をしながら小さな時間をみつけては時計を机の上に置いて一枚かき二枚かきしてゐた。
しかし、運動の進展は、指導者としての彼から、つひにその小さな時間と書斎をも奪つてしまつた。そこで彼はペンと原稿用紙と一冊のレーニン主義の本とを小さな風呂敷包みにしてそれを懐に入れて駆け廻りどこでも取り出して書いた。一九三一年から三二年の春へかけてのことである。
「努力だよ。俺達にとつてこれ以外になにがある! レーニンの努力を見ろ。バルザツクの努力を見ろ!」
かつて同志小林多喜二は私にかう語つたことがあつた。
田辺耕一郎「レーニン的作家としての同志小林多喜二」
昭和8年5月
小林君の印象で、今も一つ思ひ出せるのは、拡大委員会の席上でのことであつた。会議も済んで江口君が山梨(?)農民組合の依頼だといふのでみんなに短冊を廻はし、いろ/\書かせたことがあつた。私はふとローザ・ルクセンブルグの言葉を見出して、
「踏みつけられた蛙のやうに生きてはならぬ……」といふ文句を書いた。するとすぐ傍にゐた小林君がその短冊をとつてしばらくながめ乍ら、その文句をバツトの空箱の白い空地へ鉛筆で書きつけ、
「これアいゝな!……ね、これアいゝ」と、二三度言つたものであつた。
それから数日後、彼が丁度執筆してゐた「都新聞」の小説を当日私は愛読してゐたがふと見ると、ローザのその言葉を村の農婦がもう一人の農婦に話してゐるのだ。私は彼の作家としての絶え間なき探い熱のある注意力に頭を下げすにゐられなかつた。私は一度も作品の上でそのローザの言葉を生かし得なかつたのに、彼は立派に生かしてゐたからだつた。
細田源吉「トップをきつて進んだ作家」
昭和8年5月
二月二十二日付夕刊に報道された小林多喜二急逝の記事は、プロレタリア側は勿論、一般社会に大きな衝撃を与へた。小林多喜二は昨年三月末の、プロレタリア文化連盟に下された弾圧によつて、敵の追求から逃れ、その後勇敢にプロレタリアの闘争に全身を打ち込んでゐた同志である。
新聞記事によれば、二十日午後一時頃、赤坂溜池附近で築地署の手に捕へられた。そして、もうその三四時間後には死んでゐた。ところが、それが新聞に発表されたのは翌日のしかも夕刊である。もとから小林の住んでゐた、従つて警察も充分知つてゐるもとの阿佐ヶ谷の家に小林のおつ母さんは住んでゐた。小林がゐなくなつてからも、いつ帰つてくるかも知れぬと、ちやんと小林の部屋をもと通りに毎日掃除をして待つてゐた程である。そのおつ母さんが、この夕刊を見て始めて小林の死を知つて自分で築地署へ馳けつけたのであつた。警察は、たつた一人の母親にも知らせずに、自分のした虐殺をかくすための手筈をチヤンときめてから発表したのである。
しかし、みんなの前に連れて帰られた小林の屍体は、敵の兇暴な手段をはつきりと物語つてゐた。大腿部全体を暗紫色に変へてしまつた非常な皮下出血、手錠のあと、首のなはの跡、両あごとこめかみの何かで突いたあと、その一つをとつて見てもはつきりと認められた。
「心臓マヒで死んだなんて、うちの兄ちやはどこうも心臓悪くねえです」
くり返していふおつ母さんの言葉のとほりである、
「こゝは命どころだに、こゝを打てば誰でも死にますよ、こゝを打つといふことがあるか」
おつ母さんは小林の傷の一つ/\を撫でさすり、我児の死の苦痛をうかゞひ、そして同時にその一つ/\にブルジョア地主の手先である警察の虐殺の手段を指し示すのであつた。
「うちの多喜二は殺されたのですよ」
溢れる涙を腹立たしさうに丸めて掴り込んだハンカチでこすりながら言つた。
翌日、小林の屍体を解剖にすることになつた。ところが帝国大学病院は言下に断つた。そして最後に「お前らはまた、それで赤の宣伝をするんだらう、馬鹿野郎」と言つて電話を切つた。「赤の宣伝」とは何か。小林多喜二は、私たちプロレタリア農民、婦人の、解放のために、日本資本家地主と闘つたのだ。それがために、日本資本家地主は憎み遂に虐殺までしたのである。小林多喜二の虐殺は、つまり労働者農民、婦人へ下された資本家地主の攻撃である。その虐殺された小林の解剖、はつきりと只の死でない小林の屍体の原因を科学的に説明するための解剖、それを帝国大学病院は警察とぐるになつて言下に拒絶したのである。そして「赤の宣伝」に利用するんだらうと毒づいた。
慶應病院にも警察の手は用意されてゐて、こゝでも拒絶。慈恵病院では、一度承知したが、運ばれた小林の無残な屍体を前にして断つた。五時間に亘つて交渉したがどうしてもきゝ入れなかつた。
「小林多喜二の死は虐殺であつた」(『働く婦人』編集局)
昭和8年4月
しかし同志小林はたゞ優れた作家であつたばかりでなく、また同時に、すぐれた理論家でもあり組織者でもあつた。彼の活動はたゞに文学運動の領域ばかりでなく、文化運動の全領域にまでおよんでゐる。同盟第三回大会から第五回大会に到るまでの困難な方向転換過程の一ヶ年間を、彼は書記長として新方針の実現のために精力的に戦つた。昨年春文化諸組織に空前の大弾圧が下されるや、彼は敵階級の追究の手を逃れて、コツプの全国的再建闘争の先頭に立つて活動した。伊東継その他の署名になる諸論文は彼の指導的役割の大きさを如実に物語つてゐる。
なかんづく、大弾圧後文化諸団体の中に瀰漫した敗北主義的潮流、右翼日和見主義的傾向に対しては、彼は最大の無慈悲さをもつてもつとも頑強な継続的な闘争を遂行した。プロレタリア文化運動におけるボリシエヴイキー的党派性確保のための彼の苛責するところのなき理論的闘争は、すでに論文『「文学の党派性」確立のために』の中にはつきりとあらはれてゐたが、彼はその後もレーニン主義的党派性からのあらゆる逸脱、あらゆる偏向に対して細心の注意を払ひ、その些少のあらはれに対しても容赦する所がなかつた。堀英之助の署名に成る長論文『右翼的偏向の諸問題』が、公然たる右翼日和見主義に対しては勿論、隠れたる日和見主義、調停派的危険に対しても、これを摘発して余す所がなかつたのはあまねく我々の知る所である。
「我らの殉難者 同志小林多喜二」(『プロレタリア文学』無署名)
昭和8年5月
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