美しい女 (冒頭部分)

椎名麟三/初出「中央公論」(昭和30・5〜9)



   第一章

     一

 私は、関西の一私鉄に働いている名もない労働者である。十九のとき、この私鉄へ入って以来、三十年近くつとめて、今年はもう四十七になる。いまの私の希望は、情ないことながら、この会社を停年になってやめさせられると同時に死ぬことだ。もちろん、会社が停年まで、私をおいてくれるならばだが。私がこんな希望を抱くのは、会社をやめて行った同僚のほとんどが、妙なことに悲惨な生活をおくっており、なかには発狂したり、自殺したり、病死したりしたものもいるからだ。口惜しいことだが、交通労働者というものは、どこへもって行っても、あまり潰しが利かないらしいのである。
 過去をふりかえって考えて見ると、私は、いろんな人々から、いろんな風に云われながら生涯を送って来た。ある時期は、左翼的な人々から、無自覚な労働者だとか奴隷根性をしているとか、臆病だとか、卑怯だとか、といわれた。またある時期は、右翼的な人々から、無関心だとか曖昧だとか無責任だとかいわれた。現在では、組合の意識的な人々からは保守的だといわれている。私は、このようなレッテルについて一言も弁解しない。むしろ、我ながら情ない企てだと思うのだが、人々から与えられたこれらのレッテルヘ、人なみの熱い血を通わせ、生命の光をあたえてやりたいと思うのである。

(続きは書店または図書館にて...)



近現代日本文学史年表