邂逅 (冒頭部分)

椎名麟三/初出「群像」(昭和27・4〜10)



 古里安志は、渋谷のガードの方へ歩いて行った.暗い星空。それを横切って、高いガードの上を、明るい灯をつけた帝都線が通った。昨日から帰って来ない妹のけい子を、ふたたび思いうかべた。あいつは自由だ。あいつは何をしてもいい。しかしいまけい子が必要なのだ。あいつに、入院したおやじの附添をして貰いたいのだ。そしてあいつは、心のなかで反抗しながら、家のために屈服しないで居られないだろう。むっとしているけい子の顔が、安志の眼の前にあった。彼は妹への愛を感じて微笑した。自由! しかし可哀そうだけど、お前の自由は、最後までもちこたえることは出来ないのだ。閉店して暗い東横デパートの横に、二人の女が距離をおいて立っていた。しかしいくら距離をおいても、同じ夜の女の仲間と判る和服姿の女たち。ひとりが寒そうに顔にあてていたショールをいそいで横へはずした。おれへではない。おれのこの破れたオーバーは、彼女にとっては用はないのだ。鞄を下げた酔っぱらいが、ふらふらその方へ近付いて行った。ふいに軍艦マーチが高らかに渋谷の空にひびいた。守るも攻むるもくろがねの。安志はエレベーターがふいに勢よく降下したような生理的な嫌悪を感じた。そうだ、またそんな時代になっているのだ。癒っていなかった膿だらけの腫物。
 安志は、ガードをこえて、じめじめした裏通りへ入った。支那そば屋。硝子戸をあけると、蒸気でむっとしていた。細長い店だった。

(続きは書店または図書館にて...)



近現代日本文学史年表