深尾正治の手記 (冒頭部分)

椎名麟三/初出「個性」(昭和23・1)



 この手記は、獄死した友人のノートの一部分で、そのノートは、彼が最後に検挙された当時の警察署の特高がもっていたものである。勿論そのとき彼は、共産党員として検挙されたのだ。

 昭和十×年六月十九日
 遂に、僕に何かおろかしいことがはじまりはじめたらしい。僕は、何か耐えられない気持になって、梅雨に濡れながら、この町の警察署の表まで出かけて行ったのだ。青ペンキの剥げた、どこか陰鬱な、みすぼらしい木造の二階建だった。そのときふいに、自動車のエンジンの音が、塀の向うから聞えて来たのである。塀の向うはその警察署の庭になっているのだ。僕は、その建物の構造から考えて、留置場はどうしてもその庭に面しているに違いないと思った。それは僕にとってひどく重大な気がした。若し留置場の窓が、空の見える広い庭に面していないとすれば、全く重大ではないか。僕はふとどうしてもその留置場をこの眼でたしかめたくなったのだ。僕は、何気ない風を装って、その庭へ入る門へ近づいて行った。草のない、空虚なほど広い庭が見えた。だが門の傍に身を寄せるか寄せないうちに、突然ひどい爆音を立てて乱暴に門のかげから自動車がとび出して来たと思うと、僕へひどい泥をはねかけながら走り去ったのである。それが僕の心証をひどく害した。

(続きは書店または図書館にて...)



近現代日本文学史年表