椎名麟三 【しいな・りんぞう】

小説家。本名、大坪昇。明治44年10月1日〜昭和48年3月28日。兵庫県飾磨郡に生まれる。家庭の事情から困窮し、14歳で家出。職を転々とし、鉄道の車掌時代に日本共産党に入党。昭和6年に特高に検挙されるが、転向を表明し、昭和8年に出所。この時期、ニーチェやドストエフスキーにより、文学に開眼した。戦後、「深夜の酒宴」(昭和21)で文壇に登場。敗戦後の重苦しい雰囲気を深く象徴した作品世界で、一躍戦後派作家としての地歩を確立する。以後も「深尾正治の手記」(昭和23)など、平凡で貧困に生きる人間の、死・幸不幸・自由の問題を追及した。昭和25年、キリスト教に入信。「邂逅」(昭和27)や、「自由の彼方で」(昭和28)などにその思想的転回があらわれ、作風も平明なものへと移行していった。昭和48年3月28日、脳出血により死去。享年61歳。代表作は「深夜の酒宴」「深尾正治の手記」「神の道化師」「自由の彼方で」「美しい女」など。

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椎名麟三@近現代日本文学史年表



著作目録

*制作未定*



回想録

 丁度、今から二十年前、俳優座をとび出して、十人の仲間と青年座を結成したとき、その旗上げ公演に先生の作品をおねがいしたのです。それが私と先生との初めてのおつき会いでした。それまで著名な小説家として作品だけでしか存じあげなかった先生は、私の予想にまったく反して、小太りの、目パチパチ、ひたいの汗をたえずぬぐう、きさくな小父さんといった姿で現われたのです。先生は、「こんな芝居を書いて本当にすいません、ごめんなさい」と本当に済まなさそうにおっしゃるので、私達もすっかり恐縮して「お芝居を書いて下さいなんておねがいして申しわけありません」とまるで両方であやまりっこしているようなおかしな感じでした。
東恵美子「最後の言葉」
昭和50年11月



 そして、戦後、「深夜の酒宴」を読んで、真先に感じたことは、「日本にもドストイエフスキーがあらわれた」ということであった。その後、何かの機会に、椎名さんが、二十七歳にして初めてドストイエフスキーによって文学に眼を開かれたということを知って、やっぱりそうだったのかと思った。(中略)
 これらの作品を読んだ時私は、これはよほどたくましい生活力をもった人か、あるいは、やせほそって、病的で、針のような繊細な神経をもった、近寄りがたい人かと思ったが、はじめて椎名さんに会った時、そのどちらでもないことに驚いた。いや、そのどちらも、心底にひめていることはたしかであるが、表面的にはごく普通の、善良そうな、庶民的な人であった。ただ、その表情は、その頃はまだ椎名さんは今のように太っていなかったので、「深夜の酒宴」の中で、主人公が窓ガラスに映った自分の顔を一瞬、髑髏かと思うところがあるが、それほどではないにしても、生活の疲れ、人生にいためつけられた人の労苦が、頭の大きい、くぼんだ眼のふちあたりににじみ出ているのを感じた。
巌谷大四「椎名さんのこと」
昭和46年6月



 私が椎名氏をはじめて訪ねたのは昭和二十二年の終りか、二十三年に入ってからだったと思う。改築前の椎名氏のお宅は玄関を入った右の、確か四畳半の部屋が書斎になっていて、いつもそこへ通された。その部屋は本の重みでねだがゆるんだのか、畳が本箱の方へ相等の角度で傾斜していた。大抵の場合、椎名氏は和服だった。
「……それはね、人間は自由いうもんを……、……関係に於ける関係であって、だから人間は……」
 椎名氏はひとにあることを説明しようとして、それが簡単に説明できるような凡俗なことではないので、話しているうちに首が前の方へ折れ曲って、自分の胸に言い聞かしているような恰好になり、語尾も不明瞭になって、説明している相手の存在を忘れてしまったように独白になってしまう。それはちょっと思いついたようなことではなく、絶えず考えていて而も自分の中でまだ解決のつかないことなので、解決しようともがいているうちに、ついつい独白の形になってしまうように見えた。折り曲げた首をまたもとに戻すと、椎名氏は丸いやさしい目を、言葉がうまく出なければ出ないだけ激しく瞬きながら、言葉を探し探しして話した。
 そのころ、椎名氏は講演もやはり独白のようになってしまうので、講演が下手だということになっていた。しかし、私はその講演を聞いたことがあるが、講演巧者とは言えないにしても、聴衆は椎名氏の考えている問題をはっきり解ったかどうかはともかくとして、真剣に耳を傾けてその本質は感じとっているように思えた。
大久保房男「川原湯の椎名麟三氏」
昭和45年12月



「今、どんなものを書いているのですか?」
 先生はお尋ねになった。答えられないでいる私に、先生は、
「小説を書くには、チェホフの文体がよい手本になります。」と教えて下さった。チェホフは、私の大好きな作家である。しかし、文体について考えたことはなかった。そのことをお話しようとした時、先生はお話をお続けになった。
「チェホフの文体はですね、まず最初の行では或る事柄への肯定的な解釈がなされていて、その次の行では全く反対の否定的な解釈となっているところに特色があるのです。これは、実に素晴らしいと思うんだな。何故なら、人間の感情には必らず矛盾があるからです。生きた人間の感情を描こうと思えば、チェホフの文体が必らず参考になるんです。」
 作家の創作の秘密ともいうべきお話を、淡々と聞かせて下さったことに、私は感激した。先生は、私が物を書きたいと思っていることを見抜いて下さったのだ。
太田はる「椎名先生との出逢い」
昭和48年10月



 昭和四十七年の四月に二時間余りも発作がつづき、隣りに開業医の先生がいるので、すぐ呼びましょうといいますと、あと五分まってほしい、それでも駄目だったら呼んでもいいといっていました。その後二分間で発作はおさまりました。よくなるとケロリとしています。その後は一日おきに散歩に出ていましたが、六月八日に夕食後三十分の発作、九日に二十分、十日に十五分といづれも夕食後発作が起きました。その度にニトロール四錠グリセリン十錠のんでいました。
 先生に話しましたところ今までとはちがうようだし、そんなにグリセリンを呑んでは心臓がよわるので一度入院してグリセリンをやめてみましょう、太りすぎてもいるので心臓に負担がかかるといっていました。
 昭和四十八年九月五日、東大病院へ入院しました。この時入院していなければ、もっと早く他界していたかも知れません。殆んど一日おきに散歩していた主人も亡くなる三日前はどこへも出ず。長女は伊豆へ行っていましたが、しきりに会いたがり、二十九日帰る予定だったのに二十六日に帰りました。二十八日の夜中に主人の様子がおかしいので蔵本先生に電話したところ、先生はすぐ東京女子医大にしかない心臓病の処置ができる救急車を廻してくださいましたが間に会いませんでした。長女が非常に残念がりましたが、わたしにはかえってよかったように思われます。長女が口うつしに空気を入れましたら、主人は目を開けて一すじ涙を流し、自分で自然に目を閉じたのです。長女に抱かれて安らかに永遠の眠りについたことがせめてもの慰めです。
大坪寿美(註、椎名の妻)「思い出」
昭和49年7月



 三十年ほど私は父といっしょに暮したのですがその間父に怒られた記憶はほとんどありません。体罰を加えられたことはもちろん一度もありませんでした。仕事中に私がピアノを弾いていても、父は注意するわけでもなく、私にとってはただ優しい父親でした。(中略)
 高校三年の夏、毎晩のように父と映画を見に行った思い出があります。近所の映画館へ三本立てを見に行って深夜に観客達とゾロゾロ帰ったり、新宿まで出向いて洋画を見て、帰りのタクシーがなかなか拾えなかったり……。本来ならば、大学の受験勉強をしなければならない時期なのに、私は一向に気が乗らず、そんな私をとがめるどころか、一緒になって毎晩、遊びに連れて行くのですから、随分のん気な父でしたが、父の心中には、勉強なんかどうでもいいから、誰か好きな人ができたら結婚してくれればよいのだ、という気持があったのでしょう。やはり父は女の子は結婚するのが一番幸せ、と思っていたようです。(中略)
 最近になって私は、父の小説を読み出しているのですが、その小説によく出てくる、小心でいながら大胆なことをやってのける主人公が、「俺はもうだめだあ、だめだあ」といいながら角瓶をはなさなかった父に、ふと思えてくるのです。
大坪真美子「思い出の父」
昭和50年3月



 椎名麟三にはじめて会ったのは、昭和二十三年である。季節は憶えていない。
 椎名麟三、梅崎春生という顔ぶれで、名古屋で文芸講演会が催され、私はそれを、当時「作家」の同人だった小野稔と一緒に聴きに行った。会場がどこであったか、記憶はさだかでないが、あるデパートの七階か八階だったような気がする。戦後派を代表する人気作家二人の顔を揃えた講演会は、満員であった。
 二人の話の内容がどんなものであったかは、忘れた。ただ、椎名麟三は訥々と話し、それに較べて、梅崎春生のほうがやや話しぶりがうまかった。
 講演のあと、質疑応答の時間が少しあり、そのとき若い青年が、椎名麟三に、「太宰治の次に自殺する作家はあなたではないかという気がするのですが、その点についてはどうですか」と訊いた。ずいぶん愚かな質問をするものだと私は思ったが、椎名麟三は、「ぼくは自殺なんかしません、大丈夫です」と、きっぱりとした口調で答えた。
小谷剛「誠実な人」
昭和52年7月



 その年の夏の終り、椎名さんと私は新宿歌舞伎町のある喫茶店でおちあった。処女長篇『永遠なる序章』をものした椎名さんは、その後、意欲的に連作を書きたいと言い、その打合わせのためである。その最中、とつぜん店の一隅から大きな怒声が飛んだ。詩人のE氏だった。名前だけは知っていたが顔を見るのは初めてであり、ガッシリした体躯に羽織・袴のいでたち。酔っているのか、E氏のイカツイ顔が赤く、仁王立ちになってわめいていた。それを連れの一人がとめている。一瞬、私は自分が何か悪いことをしたのかと錯覚した。……なんだ、チンピラのくせして、いい気になるな。あれが、文学か。おい、わかるか! 私は顔面蒼白になったのにちがいない。あきらかに、椎名さんにむけられた罵倒である。立ちあがり、私はE氏の席へ行こうとした。と、そのとき、椎名さんが私の腕をつかんで、低く、強く言った。「よせ。耐えろ。な、耐えろ」……それから、椎名さんはE氏にむかって一言「すみません」と言って頭をさげた。
 私はその後、椎名作品の主人公たちを作者その人におきかえてみるようになった。しかし、生きる醜悪への意志と同時に、あの砂川安太は、「きらめく濶葉樹、少女たちのリズミカルな縄とび、広い草原」という幻想、すなわち、善美への意志とでも言うべきものに強いあこがれをもちつづけていた、ということも判るような気がしだした。
 E氏にたいして「すみません」と言った椎名さんの表情を忘れることはできない。
坂本一亀「『永遠なる序章」前後」
昭和45年6月



 あれはたしか、今から七、八年前だったと思うが、椎名さんと私とが広島を中心とするキリスト教の夏季修養会の講師に招かれて行ったことがある。その時こんなことを云われたことを覚えている。それは椎名さんが共産主義運動のため警察につかまった時の話であった。「拷問される場合、柔・剣道の道場につれて行かれるのです。そういう時は外から見られるとまずいので、まず、窓のカーテンをしめる。そのシャーッ、シャーッという音を聞くのが堪まりませんでしたねぇ。竹刀でひどく打たれる。それはもう慣れていて、まあたいしたことはありませんでした。途中で気絶してしまいますから。しかし、道場につれこまれてそれが始まる前のあのカーテンの音だけは堪まらなかったなあ」。椎名さんはそういうことを淡々とお話しになったのだが、それを聞いていて私は、椎名さんのよく書いておられるあの同志のために死ねないという実存の自覚というものが、どんなに深いものか、改めて感じさせられたのだった。「私の場合は厳密には転向と云えません。転向というものは別の方向にむきを変えることだが、その時の私にはもうどこにも行く所が、行く方向がなかったわけですからねぇ」。どこかでそうも語っておられた。椎名さんはそのような衝撃的体験を忘れ難く心に抱いて、文学の創作に打ちこまれたわけである。
高木幹太「流木に乗っている鴎」
昭和49年3月



編集部 あの、……かなり戦争のおしつまった頃椎名さんのところに召集令状が二度きてるんですけど、その頃のことはご存知ありませんか。
高田 ええ、あの、今だからそういうこといっていいんだろうけどね。コソコソと話しているときにね、醤油を飲めばいいとか、エビの塩うでをね、前の日にうんとくっていけばいいとかそんな話してましたよ。「おやじさんは統制会社の社長だから、引っぱられることないけど、私たちのところはきたのだから」って。その時には船山君もいたと思ったなあ。その醤油をのんでね、少し駈け足してったらいいとか……あ、煙草の煎じたやつをのんでったかもしれない、ほんとに、だけど行ってすぐ帰ってきましたものね。変な乱暴するねえ、あの人は。(中略)
編集部 ところで、椎名さんは、昭和十七年まで筆耕で新潟鉄工に勤めていたんですが、ここが兵器を大規模に造りはじめたというんで新潟鉄工をやめています。
高田 昭和十七年ですか? そういわれれば椎名君を二、三度、大塚警察から私のところへ「大坪は真面目につとめているか」とかなんとか聞きにきたことがありましたね。
編集部 椎名さんは昭和七年に転向して出てるわけですが、それから十年後も、まだマークされてるわけですね。だからその間就職とか、そういうことは非常にむずかしかったわけですね。
高田 そりゃ、もうむずかしいわけですね。そういうのにくっつきまわられたんではね。……とにかく小まめな人でしたよ。人付き合いもいいし、……しかし筋が一本通ってましたよ。あの人は苦労人ですねえ。
高田俊郎「『新創作』のころ」
昭和52年11月



 つい先だっても、ある所で会うと、医者の注意で、シガレットの代りにパイプ・タバコを用いることにした、と云う。ところが、中村が昔からのパイプ党で、今さら自分が下手な手つきでパイプを扱うのは、どうも気はずかしい、と。
 私は笑って別れたあとで、野間宏も先頃、パイプに切りかえたのに、一度、私と同席してパイプをくわえていたが、その後は私の目のまえではパイプを出さなくなった、ということを思い出した。どうも私の見ている前で、パイプをいじるのにコンプレックスのごときものを感じているらしい。
 もし、豪腹な野間さんにして、そうだとすれば、年中、「すみません」を口癖のようにしている椎名さんは、私の目のまえだけでなく、ひとりひそかに書斎に引っこんでいる時でも、どこかで私がパイプをくわえていると想像すると、それだけで萎縮して、せっかくのパイプを机の抽出しに抛りこんでしまうのではないか。
 それは大いにあり得る想像であった。
中村真一郎「椎名さんとパイプ」
昭和46年4月



 私と先生との出合は、もう十七、八年前か。私がかつて主宰していた青年座の旗上げ公演の書きおろし戯曲をお願いしにいった時からはじまる。その時の出合がまた強烈だった。私のような青二才をつかまえて真剣な顔で、君、ほんとうの、ほんとうの、ほんとうって何かね、あるのかね、といいながら、顔中、頭中汗をかきながら私に話しかけるのである。そして、ラジオドラマなら以前に一本書いたことがある。しかし戯曲は書いたことがないので、書けるかどうかわからない、書いてみたいテーマはあるが、いつ書けるかわからない、とおどおどしながら、べんかいとも、いいわけともつかない言葉でことわるのである。そしてまた私に、君、ほんとうの、ほんとうのほんとうのことって何かね、と聞くのである。この私にである、椎名さんがわからないのに、私にわかるはずがないのにである。
 倖い旗上げ公演、椎名麟三作「第三の証言」は、大成功をおさめ、青年座の本公演として再公演はもとより、再々公演までする、青年座を象徴する戯曲になったのである。これは先生のあくまでもその真摯な心が作品にあらわれたのだと思う。
成瀬昌彦「椎名先生のこと」
昭和47年9月



「邂逅」の著者校正をもらいに行ったときのことだったが、毎日新聞が梅崎春生さんに連載小説を依頬するらしいという情報を編集部で耳にしたので、そのことを話すと、椎名さんはサッと立ち上り「そりゃいい、そいつはすばらしい。いまからすぐ二人で行って梅崎さんに知らせてやりましょう。梅崎さんは喜ぶぞ、そいつはいい」と、私の手をとって、裸足のまま飛び出すような調子で私をせきたて、当時、近くだった梅崎宅まで小走りでいき庭の方から「おーい、梅崎さん、すばらしいニュースだぞ、いいニュースだぞ」と椎名さんは怒鳴った。梅崎さんが奥の方から出てきて、縁先きにチョコンと坐り、話を聞くと、小さな声で「そうですか」と一言呟き、困ったような、嬉しいような一瞬とまどった表情だった。私は、梅崎さんとは、そのときが初対面であったが、椎名さんの方がよほど嬉しそうに思えた。そして、私は椎名さんの友情の温かさに感動していた。しかし、残念なことに、この情報はガセネタで、新聞連載はそのとき実現しなかった。椎名さんに対しても、梅崎さんに対しても暫くの間、肩身の狭い思いをしたのを覚えている。
松井勲「「邂逅」のころ」
昭和49年7月



 椎名麟三の羞ずかしがり笑いは、この古い一枚の記念写真だけのものではない。彼とのその後のつきあいのなかで、私は幾度この独得の“含羞的微笑”をみせられたことだろう。
 私は“羞恥”という感情にこれはど敏感な作家をほかに知らない。だが、彼はなぜこうもひどく羞ずかしがるのだろう。しかも、一体何に対して?
 もう数年前のことだが、ある日、銀座を歩いていてばッたり椎名君に出会った。いっしょにお茶を喫もうということで、近くの喫茶店に入った。久しぶりに見る椎名君の顔はひどくむくんでいた。どうしたの、と質ねると、
「ぼくの心臓はいつ停まるかわからないんだ」
 椎名君はいかにも羞ずかしそうにこう言ってから、薬箱を取り出して、その一錠をぽいと口の中へほうりこむと、
「この薬はドイツの薬だよ。とても高いんだよ」
 と、また羞ずかしそうにいった。彼にとっては、彼自身の心臓の停まることも、またその心願の停止を防ぐために高価な外国の薬をのむことも、どちらもなんだか“羞ずかしい”ことであるような、そんな言い方だった。
八木義徳「含羞的微笑について」
昭和46年4月



 ところで、先生は、昔から女性によくもてる。――あの小柄な、なにかオドオドしていらっしゃるようにみえるあの先生がと、みんなは一瞬びっくりするのだが、先生とおつきあいしてみると、やはり、男はみかけではない、心だ、ということがよくわかる。
 先生の、やさしさというか残酷さというか、一種不思議な魅力のあるお人柄に接してみると、これに惚れない女はいないんじゃないかなと思う。先生のくどき方は、結局先生の誠意なのです。くどこうとするんじゃなくて、ほだされてしまうのです。それは先生が、若い時からいろいろと苦労をなさって、――日常的な苦労はもちろんでしょうけれども、精神的に(一匹狼ほど強い感じはしないけれど、一匹猫ぐらいに)あっちへ行っては頭を叩かれ、こっちへ行っては蹴とばされ、――それでも何かを求めて、いつも必死になって生きていらっしゃるお姿が、私たちに何かの魅力を与えるのです。
山岡久乃「ほんとのほんと、のこと」
昭和47年9月



 梅崎春生氏とはよく酒を飲んだが、椎名さんはときどき彼のおともをしていた。春生氏は文芸朝日だったかに「一緒に安心して酒を飲めるのは十返肇と頼尊清隆である。何故なら彼らは決して途中で“じゃあ帰る”と言わないからである」といった意味のことを書いていたことがある。無茶酒を飲んだものである。(中略)椎名さんは、酒を愛しても僕ら乱酒の徒ではなかった。少くとも梅崎氏との場合は、おともをしている感じだった。そういうマッチ箱のような、そのころハーモニカ横丁といった飲み屋横丁の一つの店で、椎名さんと梅崎氏と僕と三人で飲んだことがあった。どういう集まりのあとだったかは忘れたが、とにかく何軒かのハシゴのあげくだったと思う。坐ったときから椎名さんはおしりをもぞもぞさせていたが、春生氏が横の方を向いて誰かと話しているすきにすっと立ち上って、姿を消した。去り際に僕の耳に「梅崎さんと最後までつきあったら僕、死んじゃいますよ」と耳打ちして行ったが、そのことを妙に覚えている。
頼尊清隆「「深夜の酒宴」のころ」
昭和45年6月

昭和12年 昭和30年 昭和44年


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