正岡子規 【まさおか・しき】
俳人、歌人。本名、正岡常規(つねのり)。幼名、升(のぼる)。慶応3年10月14日(旧暦9月17日)〜明治35年9月19日。愛媛県松山市花園町に生まれる。明治17年、上京。当時は政治家志望であったが、やがて文学者志望に転ずる。明治25年、俳句論「獺祭書屋俳話」の連載を開始し、注目を浴びる。明治28年、日清戦争従軍後、帰国途中に喀血。以後、永い病床生活に入るも、文学上の仕事は活発化し、翌29年には三千以上の俳句を残す。明治31年、「歌よみに与ふる書」を発表し、短歌革新にものりだす。芭蕉と古今和歌集を否定し、蕪村と万葉集を肯定するといった大胆な文学観を提示し、俳句、短歌ともに大きな革新を起こした。明治35年9月19日、脊髄カリエスにより死去。享年34歳。その凄絶な闘病生活は、随筆集「病牀六尺」(明治35)などに詳しい。代表作は「獺祭書屋俳話」、「歌よみに与ふる書」、「病牀六尺」、「竹乃里歌」、「寒山落木」など。
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著作目録
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小説 : 執筆年順
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評論(その他) : 発表年順
エッセイ・その他 : 発表年順
回想録
▲子現が病愈々重くして、腰椎やら腸骨やら方々の骨が腐れ、腰部より臀部にかけて終に七箇の瘻口をつくり、日夜膿汁を漏らして劇痛少時も休まず、苦喚悲叫殆んど人をして之を見るの残酷に忍びざらしめた末期には、流石の彼れも漸次神気消耗して、神経は過敏に癇癪は高ぶり無理とは知りつゝ家人などにもダヽを捏ねた。併しこれは肉体を以て生き五官を備へたる人間として所詮免れざる所である、若し我々をしてあんな恐ろしい病苦に逢はしめたら、固よりあれ迄辛抱して生きてもよう居まいが又あれ位な癇癪ではすまなかつたろうと思ふ、とにかく人間の精力は肉体の関係を離れ得ざる限り、非常なる病魔の為め既に瀕死の苦境に煩悶しつゝある身は、自から精神上に影響を及ぼすは当然の理である、然るに此の現象を以て、彼れが家人に我儘に癇癪を起したとて、それを狭量といふ瀾水の如きは亦珍らしい男じや。
▲我輩にはまだ臥る迄に至らなかつた時の子規と、べつたり床についてからの子規と、日夜劇痛に悶え苦しむで僅にモルヒネの功力ある間のみ安息し得た時の子規と、漸次其の脳力に差等のあつたことが明にわかつて居る、彼れの如き残酷な丸でナブリ殺的な病気の末期に於て、健康な時のやうな精神を持つて居れなどといふ奴は全く無智な小供の考へで、人間としてそれは出来得べきことではない、それでも彼れ子規は家人以外に向つてはやはり忍び忍んで其癇癪を押へて居たのである、此力はやがて理性的な意思強い彼れに於て初めて得られたのである。
五百木飄亭「正岡子規君」
明治35年10月
彼は中学時代から、あまり頑強な体質ではなかつた。色の青白い、極めて大人しい男で、活撥な所は少く、彼自身健康保持に注意してゐるやうであつた。予備門から高等学校時代には、盛にベースボールをやつたが、それが彼の唯一の運動であつた。今日から顧みて、彼はベースボール元祖組の一人たるを失はぬであらう。私も強健な方ではなかつたが、明治二十一年の二月頃、子規に引込まれて学校のベースボール会員になつたことがある。
当時のベースボールは極めて幼稚なもので、キヤツチヤーは球の一度バウンドしたものを取つてゐた。勿論今日のやうにマスクなどの必要は無かつた。ピツチヤーその他の投げる球も、今日のやうに技巧を加へた、且強烈なものではない。子規の球を取る流儀は一種特別で、掌を真直に伸べて球を挟むやうにした。強烈な球ではそんなことは出来ないが、当時はそれで間に合つてゐたのである。私は下手の横好で、べースボールの真似を四五年続けたのみならず、ボートやテニスもやる。二十四年頃には撃剣の夜稽古も始める、といつたやうな風であつた。が、子規はべースボールだけで、他に亘らなかつた。
勝田主計「子規を憶ふ」
昭和9年11月
こゝに注意すべき事は子規子が糸瓜の辞世を作つたといふ事である。子規子は兼々「自分が五六月頃に死んだらば方々から追悼句などゝ言ふて、時鳥の句を沢山よこすであらうが、それはいやでたまらない。それがいやだから成るべく夏の間に死にたくはない」などゝ話して居つたが、何故子規の名にちなんだ時鳥の句を嫌ふかといふと、時鳥の句といふのは、古来より発句中でも沢山句のある題で、己に仕方のない程陳腐な題である。その陳腐な題では到底よい句は今日得られないといふてもよい位であるに、まして追悼といふやうな更に作句のむつかしい条件をつけては、更によい句の出来やうがない。その悪句が沢山出来るといふ事が子規子のいやで堪らないと言ふた所以であつたのである。ところが幸にして子規子はその厭ふて居つた夏も過ぎ、丁度名月の前後になつて今度は愈々といふ覚悟をきめ、自らもまたその死期を知つたやうでもあつた(後に思へば)が、さらばと言ふて、こゝで月の辞世でも作らうものなら、これまた矢張時鳥に劣らぬ陳腐な題であるから、その追悼句もまた悪句が出来るものと見てもよい。そこで人の思ひもよらぬ、また形の雅な「糸瓜」を捕へてその辞世を作つたのである。糸瓜の辞世といふ事が単に突飛なといふやうな事ばかりでなく、又た其前庭に糸瓜の棚があつたといふ為めでもなく(それらも一原因であらうが)、実は種々錯綜した意味から糸瓜を選んだのである。将に息を引取らんとする数時前においても、尚この用意の存して居つたのは、真に驚くべき事と言はねばならぬ。(といふのはその平生に徴して予の推想する所である)。
河東碧梧桐「糸瓜の辞世」
明治35年10月
子規は才子だつたが、いはゆる軽薄才子ではなかつた。「正岡の皮肉は氷のやうで堪らん」と恐れをなした神経質の同窓生もあつたが、冷やかな皮肉と比例したほど冷い人では勿論なかつた。随分温味を有つた涙脆い人であつた。同郷で同窓の清水といふ男が脚気で死んだ時に、死骸の始末がすむと彼は悄然として気が抜けたやうに床の中にもぐり込んだ。それを気の強い秋山(真之、後の海軍中将で同郷人)が見て「意気地がないな、しつかりおしや」と大喝したので、気の毒に思はれたことがあつた。
子規は才子だつたが、世才よりも学才の方を多分に有つてゐたやうだ。やれば何でも出来た男である。学課は常に抛つて置いて試験前になるとやりだす。それで相当の成績を得たのであつた。学課の中で最も嫌ひなのは語学であつて、語学ほど無趣味なものは無いと言つてゐた、それに数学も好きな方ではなかつた。学課の方は不勉強の方であつたが絶えず本は読んでゐた、文章も筆まめに書いてゐた、大学に入つては哲学を専攻するのだと言つてゐたが、哲学や宗教の書などはあまり手にしなかつた。それでゐて基督信者などを捉へては能く宗教論をやつたものだ。そして才に任せて堅白異同の弁を弄したこともあつた。信者と議論する時は、勿論無神論で押し通したが、無神論を唱ふる者に対しては殊更に有神論を振り廻すやうなこともあつた。マア一寸人が悪るいといつたやうな所もあつた。元来覇気に富んだ男であつたから、気に喰はないと人を遣りつけるといふ風であつた。
菊池仙湖「予備門時代の子規」
昭和3年9月
▲日清戦争が起つて文学界の勢力が下火になつたからタマラない、彼れは戦争と文学の調和を計らんと企てた、ソレには是非従軍がして見たいと言ひ出した、肺病のソンナ身体で従軍ナドは思ひもよらない死に行くようなものだからやめたらどうだと止めたがナカ/\承知しない、『ドウセ長持ちのない身体だ、見たいものを見て、したい事をして死ねば善いではないか』と喰つてかゝる『併しワザ/\死に行くに及ばんではないかと』と言ふと『夫れでは君イツまで僕の寿命が保てると思ふか』など駄々をコネル、到頭仕方がないから近衛師団に従ふて遼東に行く事になつた。
▲処がアノ身体で、アノ寒さの強よい遼東に行つたから堪まらない、病勢は急に進んで東京に帰へることも出来ず僅に須磨の療養院に其病躯を運んだ。
▲天は此偉人の気力を試験せんと欲したのか此の病人を垂死の中より救ふて軽快を与へた、ヤツと東京に帰へつて一二年は時々車で近所位は出かけた事があつたか後には寸歩も病床より動く事も出来なくなつた、爾来八年の間天は間断なく彼を苦めたのである、彼は如何にして之れと戦つたか、彼は此間に何をしたか而して吾人は彼に向て何を学んだか。
(中略)
▲彼れの病床を訪ふたものは先づ彼れが活きて居るのかを疑ふであらう、八年間日光を受けた事のなき蒼白なる顔と瘠せに瘠せたる細き長き手とは先づ人をしてギヨツトせしむるのである。生きた木伊乃(ミイラ)なるものがありとせば彼は即はち夫れである、真の木伊乃は左程の感じもないが此の木伊乃の腰の辺は今や七箇所の大きな孔があいて腐りたる骨は膿と化して常に流れ出て居るのである、腰の骨盤は之れが為めに殆んど無くなつて居る、頭の毛は抜けて居る、三十六枚の歯は悉く黒くなつて欠けて居る、ドウして是れで生きて居られるのであろう、嗚呼天は何故にドコまで彼をイジメルのであるか。
小島一念「正岡子規君」
明治35年9月
正岡の宅で毎月運座を遣るから出て見いといふ事で、虚子に教えられた通り前田家の黒塀に附いてぐる/\廻つて、鶯横町に這入つて三軒目の門を始めてくゞつた。何日であつたか聢(しか)と覚えないが何でも目黒の粟飯会といふのがあつてから間もない頃であつた。例の八畳と六畳と打抜きの座敷に、ぐるりと十人ばかり並んでゐたが、予て脳裏に描いた子規子らしい顔が見えない。どれかと迷つてゐる内、真中に膝を捩ぢつて坐つてゐる人が挨拶をした。お噂は予ね/\聞いて居りましたがとかいはれたので、始めて子規子であつたかと気が付いて、改まつて初対面の挨拶をした。成程よく見ると顔色も青いし縞絹の綿入絆天を着て襟巻を涎掛(よだれかけ)の様にかけて居られる様子などはどうしても病人らしい。だが僕の理想の子規子とは雲泥の相違であつた。暗いと思つた眉根は明るかつた。狭いと思つた額は広かつた。分け刈と思つたのが五分刈であつた。頬のあたりも左程痩せてゐない。眼は思切つて離れてゐる。口は大きい方で締りがない。といふやうな訳で思の外に平凡な顔で、いはゞ余ツ程間抜けた顔であつた。其外挨拶振りといひ松山流の柔和な調子でこつちにお出でやなどいはれる工合がどう見ても八釜し屋の子規子と受取れぬ。大方これは虚子や碧梧桐が崇拝の余り勿体を附けて、僕を劫(おびや)かしたものに相違ないと肚を極めた。それから以後といふものは何のこれ式の人くみし易しといふ勢で以て矢鱈に押掛けたものだ。所が日を経るに従つて何か少しづゝ気味の悪い所が出て来る。世間咄しの時はさうでもないが、発句の批点でも請ふ場合になると、黙つて原稿に眼を注がれる。其眼付が非常に怖い。僕の顔を睨まれるのでもないのに怪しく恐ろしい。批評に至つては猶更の事だ。片言双語ひし/\と応へる。さう気が附いて見ると只の雑話も一分の透きがない。時には随分皮肉な言も聞える。僕などは丸で子供扱ひにされて居る。僕の肺腑はとつくに見抜かれて居る。独り僕の肺腑のみならず、此門に出入するもの悉く見抜かれて居る様に感じて来た。是に至て僕は全く子規子に牛耳を執られてしまつた。
坂本四方太「思ひ出づるまゝ」
明治35年12月
△今春訪ねた時、非常の苦悶中であつたが、暫らくして苦しき息のとぎれ/\にいふた。「どうも此んなに苦しくてはヒドイぢやないか、もう死んだと同じだ、死んだ方がよい、誰れか殺してくれんかしら、ウムさうだ、君に相談しやうと思つてるんだが、西洋では到底生命覚束なき瀕死の病人を其の苦痛の時間を減ずるために劇薬を以て早く死なしてしまふ事があるさうだ、これは実に尤もだと思ふ。僕はモウ苦しくて堪らんからさうしてもらひたいと思ふのだ。君は賛成して呉れませんか」余は答ふる所を知らぬ。「内藤さんの持論はこれである。併し此の手段を僕に用うる事は不賛成なさうだ。矛盾してるじやないか。陸君もほぼ賛成だけれども矢張内藤さんと同じらしい。誰か賛成者はあるまいか、あれば飄亭位のものだ。近日親戚朋友会議を開いて一つ此事を相談しやうと思ふ。其前に飄亭を一つ買収して置て政府委員にして置かうか」苦痛はいくらか減じたと見えて緩やかな笑ひも含まれて居る。「アアさうだ。飄亭に薬を造つてもらふのだね、それを飲めば死んでしまうのだとして、モウ苦しくて堪らんから死なうと思た時にそれを飲む事にきめて置くのだ。なか/\飲まんだらうと思ふ。本当に死ぬんだと思へば決して飲まれるものでない」暫らく話は途切れたが「劇薬の積りで、飄亭は何か笑ひ薬か踊り薬といふ様なものを入れて置いたら山が出来るね。愈々此の一服で死ぬるのだといふので、家族のものやら君等が枕元に並んで居るさ。水を打たる如くになつて居るさ。其処で僕が飲む。自分でモウ死んでしまつた積りになつて居るさ。さうすると薬が利き出して、急に笑ひ出す、踊り出す、ステヽコか何かで踊つたら滑稽だらうじやないか」翁の話は大抵此の様に悲しい話でも御しまひは滑稽に帰着してしまふのである。
佐藤紅緑「子規翁」
明治35年12月
或日。
期せずして同人が六、七人先生の枕頭に会した。三並良氏(先生の従兄弟)が久し振で訪ねて来た。先生の機嫌が好かつた。其の時は先生が墨汁一滴(?)に自力他力の問題を書いた時なので哲学者の三並氏も気持よく先生と談論した。其れから間もなく三並氏は暇を告げて起ち上つた。
「良さん!」
突然先生の叫び声が聞えた。同時に先生は声を挙げて泣き出した。僕等は只々驚いてどうしたのかと怪しむばかりであつた。三並氏は棒立になつたまゝ動かない。一座は全く悽然としてしまつた。すると先生は泣きながら言つた。
「もう少し居ておくれよ。お前帰るとそこが空つぽになるぢやないか」
これですつかり解つた。同人靄々として団欒して居たものが、一人でも欠けると座敷が急に穴が明いた様に調和が乱れる。其れが先生には堪らない苦痛であつたのだ。三並氏は座に複した。ものの十分も経てから先生は晴やかに言つた。
「もういゝよ良さん。帰つてもいゝよ」
三並氏の眼鏡の底が涙に光つて居た。
佐藤紅緑「糸瓜棚の下にて」
昭和9年9月
臨終前には大分足に水を持つてゐた。其処で少しでも足を動かすと忽ち全体に大震動を与へるやうな痛みを感じたので其叫喚は烈しいものであつた。居士自身許りで無く家族の方々や我々迄戦々兢々として病床に持してゐた。
居士は其水を持つた膝を立てゝゐたが、誰か其を支へてゐるものが無いと忽ち倒れさうで痛みを感ずるといふので妹君が手を添へてをられたが、其手が少しでも動くと忽ち大叫喚が始まるのであつた。或時妹君が用事があつて立たれる時に余は代つて其役目に当つた。其頃の居士は座敷の方を枕にしてゐたので――臨終の時の姿勢も其時の通りであつた――いつも座敷に坐つてゐた我等は暫く居士の顔を見なかつたのであつたが、其いたましい脚に手を支へ乍ら暫くぶりに見た居士の顔は全く死相を現じてゐたのに余は喫驚した。
臨終に近い病人の床には必ず聞こゆる一種の臭気が鼻に突いた。大小便を取ることも自由でなかつたので其臭気は随分烈しかつた。
「臭いぞよ。」と居士は注意するやうに余に言つた。
「其程でも無い。」と余は答へた。
左の手で、仰臥してをる居士の右脚を支へるのであつたがぢつと支へてゐるうちに手がちぎれさうに痛くなつて来た。けれども其余の手が微動をしても忽ち大震動を居士の全身に与へることになるのだからぢつと我慢してゐなければならなかつた。其は随分辛かつた。其上根岸は蚊が名物なので、さうやつてゐる手にも首筋にも額にも蚊が来てとまる、其を打つことも払ふことも出来無いので大に弱つた。其時居士は斯んなことを言つた。
「脇の修行が出来るよ。」と。其は微動もせずにぢつと端坐してゐるのが、能の脇の修行になると戯れたのであつた。其頃余も碧梧桐君も宝生金五郎翁の勧めに従つて脇連などに出てゐたのであつた。
前の臭いぞよ、と言つた言葉も、此脇の修行が出来るよ、と言つた言葉もすこし舌がもつれて明瞭には響か無かつた。けれども十分に聞き取れぬ程ではなかつた。
高浜虚子「子規居士追憶談」
大正4年3月
先づ大体に申せば子規の人物は一面には非常に小心にして細かく気が付いて、些かの事にも神経を煩はすと云ふ風があり、他の一面は非常に大胆にして周囲の人を物の数ともせず、進んでは古今に亘つて眼中に人なしと云ふ意気を持て居た。此二つが合してあのやうな子規を成就したというてもよからうと思ふ。細心であつたから調査することは何事によらず、細かに調査してかりそめな事をせず、充分に突き止めてから口を開くと云ふ風であつた。又大胆にして人を人と思はなかつたから古人の糟粕を嘗めず、常に新意見を持ち出して一種の達見を世に示すと云ふことにも至つたのである。即ち明治の俳句を唱へ出して今日の盛況に至らしめたのも全く夫れが為めである。然し他の一面の弊としては人を容れると云ふ量は乏しくて何処までも我意見で通して了ふと云ふ風であつたから其俳句の上に就ても皆吾旗下に打ち靡けて了はねば置かんといふので、一歩たりとも譲歩して人と共に並んで遣つて行かうと云ふ考はなかつた。けれども幸にも時が恰度彼と並ぶべき英雄と云ふ程の者を出さず、両雄並び立たずと云ふことがなく、子規独り其の成功をほしいままにすることが出来たのである。若し他に子規と同じ位のものがあつたなら、必ずや火花を散らして戦つたであらうと思ふ。其証拠は今人には彼の相手とする程のものがなかつたが、古人には誰にでも喰つてかゝつた。芭蕉などの如きも一時随分子規に軽蔑的批評を蒙つたことがあつた。蕪村のみは彼の悪評を比較的免れたが、これは蕪村の非凡の天才に我を折る所があつたからであらう。が又人を攻撃すると同時に人の長所をも見別けることが出来た。長所を没して単に攻撃ばかりすることはせなかつた。長所は長所として短所に向て攻撃した。だから吾々は彼の批評を不公平とは見なかつたが只攻撃が少し苛酷に過ぎたと思ふことはあつた。
内藤鳴雪「正岡子規の人物」
明治40年9月
彼は僕などより早熟で、いやに哲学などを振り廻すものだから、僕などは恐れを為していた。僕はそういう方に少しも発達せず、まるでわからん処へ持って来て、彼はハルトマンの哲学書か何かを持ち込み、大分振り廻していた。尤も厚い独逸書で、外国にいる加藤恒忠氏に送って貰ったもので、ろくに読めもせぬものを頻りにひっくりかえしていた。幼稚な正岡が其を振り廻すのに恐れを為していた程、こちらはいよいよ幼稚なものであった。
妙に気位の高かった男で、僕なども一緒に矢張り気位の高い仲間であった。ところが今から考えると、両方共それ程えらいものでも無かった。といって徒らに吹き飛ばすわけでは無かった。当人は事実をいっているので、事実えらいと思っていたのだ。教員などは滅茶苦茶であった。同級生なども滅茶苦茶であった。
非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わして居ったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、まあ出来ていた。こちらが無暗に自分を立てようとしたらとても円滑な交際の出来る男ではなかった。例えば発句などを作れという。それを頭からけなしちゃいかない。けなしつつ作ればよいのだ。策略でするわけでも無いのだが、自然とそうなるのであった。つまり僕の方が人が善かったのだな。今正岡が元気でいたら、よほど二人の関係は違うたろうと思う。尤も其他、半分は性質が似たところもあったし、又半分は趣味の合っていた処もあったろう。も一つは向うの我とこちらの我とが無茶苦茶に衝突もしなかったのでもあろう。忘れていたが、彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう。それから大(おおい)に近よって来た。
○赤ン坊の時はそりや丸い顔てゝ、丸い顔てゝよつぽど見苦しい顔でございました。鼻が低い/\妙な顔で、ようまア此頃のやうに高くなつたものぢやと思ひます。十八位からやう/\人並の顔になつたので、ほんとに見苦しうございました。大人になつてあれ程顔の変つた者もありますまい。
〇六つ位からもう髷を結ひました。父親が早くなくなつたので殿様へお目見えをせんならんので(大抵八つ位からお目見えをする)ございましたが、御維新になつてそれはせずにすみました。髷を結ふたなり、三並(良氏)のと二人で小学校(法龍寺内)へ通ひましたが、たつた二人ぎりが髷を結ふて居るので、大変いやがりまして、切つて呉れ/\言ひました。
○上下(かみしも)着の時には(五歳の十一月十五日)金巾の紋付をこしらへて、上下は佐伯の久さんのを譲つて貰ふて、大小は大原の元のを貰ふてさしましたが、何様背が低いので、大小につらされるやうぢやと笑はれました。背が低かつたのはえつぽど低かつたと見えて、大原の祖父が、朝暗いうちに門に出で居つて、何か知らん小さいものが向ふから来ると思ふと、それが升ぢやつたなどゝ話をよくして居りました。
○小さい時分にはよつぽどへぼで/\弱味噌でございました。松山で始めてお能がございました時に、お能の鼓や太鼓の音におぢて/\とう/\帰りましたら、大原の祖父に、武士の家に生れてお能の拍子位におぢるとそれは叱られました。近所の子供とでも喧嘩をするやうな事はちつともございませんので、組の者などにいぢめられても逃げて戻りますので、妹の方があなた石を投げたりして兄の敵打をするやうで、それはへボでございます。
正岡八重(註、子規の母)「母堂の談話」
明治35年11月
(碧)亡くなられた前の日――三十五年九月十八日――には我々も午後駈けつけたのですが、席上には鳴雪翁始め定連がゐました。お医者が来て注射をしたやうに記憶しますが。
(律)あの日朝から具合がわるくて、食べ物もおいしくないといふので、午前中陸さんが来て下さいまして、お昼に何かおカズを頂きました。それを頂戴したあとでも、どうも苦しいといふので宮本さん(宮本仲氏主治医)が見えて注射をしようと仰しやいました。が、お昼にも一度モヒ剤を飲みましたからと言つてゐましたが、午後三四時頃でしたか、楽になつた方がいゝ、と注射をしました。それからスヤ/\眠るやうになりました。
(碧)もうこれなら大丈夫と言つた気分で、高浜一人を残して、私共も解散しました。その後間もなく、高浜が起しに来ました。
(律)夜の十二時過、母と今一人親類のものが眠ずの番をすることにして、次の間にゐますと、何やらウーンと唸つた、といふので、往つて見ましたら、もう……。其の時が零時五十分でしたが。何かの新聞か雑誌に、安眠からさめずに永眠したので、誰も其の大往生の時を知らなかつた、など書いてありましたが、マサカあの大病人をかゝへてゐて、そんな……。
誕生が十七日ですから、例によつて赤御飯を炊きました。其翌晩のことでした。赤御飯も頂戴したと思ひます。
正岡律子(註、子規の妹)・河東碧梧桐「家庭より観たる子規」
昭和8年9月
居士は一生の間に恋をし得たか何うか女を愛し得たか何うか。此点は私さへ更らに知るところがない。馬鹿な問題のやうで、而も実は居士の文藝上相当研究に値する事件だと思ふ。が、私との間に一度かう云ふことはあつた。或晩居士は私の下宿をたづねて、君は吉原に遊ぶさうだね、僕を今晩その吉原へ案内して呉れ給へと言ふ、実際私は二三度先輩につれられて吉原に遊んだのだから隠す訳にゆかぬ。遂に居士の懐中をあてに二人で吉原へ出かけた。
翌朝居士の曰くに、遊廓といふものは予想したやうに面白いものではないねと其失望の情がまことに気の毒に感ぜられた。実は私の案内した妓楼は大店でなくて中の又中なる小格子なのであつたから居士が曾て人情本や草双紙で読んだ柳暗花明緑酒紅燈と云つたやうな吉原情緒などは到底こんな小格子には需め得ないものであるから、其殺風景な当夜の光景は居士をして唖然たらしめたのであらう。之を思ふと、居士は性慾のためにあらずして、其遊廓情味を味はんとして私に同伴を求めたものかと想はれるから、居士の女を知つてゐるか何うかは此行に由つても矢張り疑問である。
柳原正之「子規の青年時代」
昭和3年9月
柳原 正岡は病弱なためにカロリーを高くするがためであつたか、それとも食道楽からであつたか、そのころはまだ非常に珍しい西洋料理などをとつてたべてゐた、お金もないのにあの支払をどうするんだらうと余計の心配もしたがある日漱石が月給日に金を持つて帰り子規の枕元の角火鉢の下にいくらかを押込んでゐた、ところがその中の十円紙幣がはみ出してゐたので、すつかり手品の種がわかり西洋料理や蒲焼の出所を突きとめ得たかのやうに思つた。
曾我 二人は全く管鮑の交はりといふやつでしたね。
柳原 あるとき二人に互にその人物を批評させてやらうと思つて先づ子規のところへ行き「漱石はどんな男か」と聞いたところ「さうだね、まあ江戸ツ子だと思つてゐ給へ」といつた「江戸ツ子は当り前ぢやないか」と反問したが子規はだまつて何とも返事をしなかつた、今度は漱石のところに行つて「子規がどんな人物に映ずるか」と問うたところ「子規の悪口をいふ人があるだらうか、あるとすればそれは頭の標準の出合はぬ人でそんな人には子規はわからぬ、標準の高いものには問題は起らぬ標準の低いものはどこがいいかわからぬ」といつた、禅坊主の押問答のやうで、考へてみたがどちらもさつぱりわからなかつた。
柳原正之ほか「子規を語る」
昭和6年6月
居士のつい近所に住居してゐて居士とは日本新聞に於ける同僚たる詩人本田種竹山人の令嬢が、肺病を苦にして自殺したといふ事件があつた、居士も肺病である、多少惻隠の情に動かされるのは人情であらうと思つたところが、居士は一向平気なやうな様子で、冷やかに人によりては最後まで死を惜しむものだと語られた。前後の議論はよく覚えて居らぬが、其一節に次ぎのやうな話のあつたことだけを記憶してゐる。「佐賀の乱に江藤新平が捕へられて、いよ/\斬罪に遇ふといふ間際に、一世の豪傑江藤新平ともいはれるものが、どうしても儂を斬るのかと言つて大声を放つて泣いた。これは卑怯な話の一つになつてゐるが、僕の見る所は異ふ。江藤が泣いたのは自己の為めに自己の命が欲しいので泣いたのではない。全く彼れは天下国家の為めに自分が生存して居らねばならぬと感じて居つた為めに、どうしても天下国家の前途を憂ふる自分を殺して仕舞ふのかと嘆息して泣いたのである。即ち自己一身の為めではなく、天下国家の為めに自分の命を惜んだのである。これを卑怯のやうにいふのは天下の豪傑江藤新平の心中を知らぬ小人である」といふやうな話しであつた。
吉野左衛門「子規居士の追憶其他」
大正4年11月
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