「風流」論 (冒頭部分)

佐藤春夫/初出「中央公論」(大正13・4)



この文中に、御迷惑にもその名前の出て来る機会を持つすべての今人と古人とにこの談理小品を呈したい。


   一、序説

 むづかしい題をつけてゐる。しかし私は断るまでもなく学者ではない。なまなか、学者のやうな口を利かうとすることは、私にあつては不自然極る。それぢや私は何者で、どんな者のやうに口を利けばいいか。私は知らない。但、私の思想は今度は饒舌的に生れたのだから、私はやはりこれを饒舌で表白することが最も楽である。私は飽くまでも自然に従つて楽であることを愛する――文体に於てすらも。
 それにしても、風流といふものは決して饒舌なものぢやない。むしろその反対のものであるらしい。それはまた、風流人にとつては、ただ、感ずべきものでこそあれ、考へるべきものぢやないらしい。捕捉しようとすればあとのない香炉の煙であるらしい。さればこそ古来、風流人は風流に就ての片言隻句を述べたことはあつたにしても、仰々しくその本体などを説かなかつたのであらう。然るに、私はといふと、「風流」なるものに就て考へるばかりではなく、更に饒舌をもつてそれが果してどんなものであるかを解かうと企てるのである。風流人は定めし私の無風流を笑ひ或は咎めるであらう。さうして私を無風流漢と呼ぶに相違ない。だから、若し私にして風流人をもつて自任するとしたら、私にも多分、この小論は無いに相違ない。私は風流といふものをそれほどにも消極的なものと思ひ做してゐる。

(続きは書店または図書館にて...)



近現代日本文学史年表