田園の憂鬱 或いは病める薔薇 (冒頭部分)

佐藤春夫/初出「中外」(大正7・9)



I dwelt alone
In a world of moan,
And my soul was a stagnant tide,
Edgar Allan Poe

私は、呻吟の世界で
ひとりで住んでいた。
私の霊は澱み腐れた潮であった。
エドガア アラン ポオ


 その家が、今、彼の目の前へ現われて来た。
 初めのうちは、大変な元気で砂ぼこりを上げながら、主人の後になり前になりして、飛びまわり纏わりついていた彼の二疋の犬が、ようよう柔順になって、彼のうしろに、二疋並んで、そろそろ随いて来るようになったころである。高い木立の下を、路がぐつと大きく曲った時に、
「ああやっと来ましたよ」
と言いながら、彼らの案内者である赭毛の太っちょの女が、片手で日にやけた額から滴り落ちる汗を、汚れた手拭で拭いながら、別の片手では、彼らの行く手の方を指し示した。男のように太いその指の尖を伝うて、彼らの瞳の落ちたところには、男っぽい深緑のなかに埋もれて、目眩しいそわそわした夏の朝の光のなかで、鈍色にどっしりとある落着きをもって光っているささやかな萱葺の屋根があった。
 それが彼のこの家を見た最初の機会であった。彼と彼の妻とは、その時、おのおのこの草屋根の上にさまようていた彼らの瞳を、互いに相手のそれの上に向けて、瞳と瞳とで会話をした――

(続きは書店または図書館にて...)



近現代日本文学史年表