野間宏 【のま・ひろし】
小説家。大正4年2月23日〜平成3年1月2日。兵庫県神戸市長田区に生まれる。昭和10年、京都帝大仏文科に入学。反戦学生運動などに参加した。昭和16年に応召され、フィリピン戦線に従軍したが、昭和18年、思想犯として陸軍刑務所に半年間服役。戦後、「暗い絵」(昭和21)を発表し、文壇に登場。その異様に粘っこく、イメージの喚起力に富んだ文体は、これまでの日本文学には無かったものであり、一躍戦後文学の旗手となった。昭和27年、軍隊機構の非人間性を描いた「真空地帯」を発表。大きな反響を呼ぶ。また、人間を心理・生理・社会の統一性において捉えようという〈全体小説〉の構想を「サルトル論」(昭和43)などで追求し、その結実として、大作「青年の環」(昭和22〜46)を完成させた。平成3年1月2日、死去。享年75歳。代表作は「暗い絵」、「崩壊感覚」、「真空地帯」、「わが塔はそこに立つ」、「青年の環」など。
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野間宏@近現代日本文学史年表
著作目録
*制作未定*
回想録
あとでいろいろな人の文章を読むと、私と同じような経験をした人が多いようなので実はいささかがっかりしたのだが、私は、長いあいだ、自分こそ、野間宏を最初に認めた人間だと思いこんでいたものだ。『暗い絵』の最初の部分が雑誌「黄蜂」に発表されたとき、私は旧制第三高等学校の学生だったが、たまたま読んだこの未知の作者の作品にひどく心を打たれ、以後、会うやつごとに、この小説を読むことを強制していたからである。
もちろん、当時はじめてその作品に触れて感動した作家は他にいなかったわけではない。埴谷雄高の『死霊』や椎名麟三の『深夜の酒宴』などもほぼ前後して読んで強く心をひかれた作品である。ただ、それらが発表されたのは、戦後の若い世代に強い影響を与えていた「近代文学」や「展望」であった。つまり、おれ以外にも何人か感心するやつがいるだろうという見きわめがついた。ところが、「黄蜂」などという雑誌は、それまで見たこともきいたこともなかっただけに、発見者の自負はまた格別だったのである。
粟津則雄「思い出二、三」
昭和49年4月
引越しはぶじにおわった。新しい家の二階には部屋のぐるりに高い書架がこしらえてあるので今度は本のくずれる心配もいらないし、整理もできるだろうとおもわれた。(中略)本は、奥さんが何週間かかかって当面必要なものだけを整理し、ぜんぶがその場所を得たのは何か月かのちのことであるときいた。
ところが、最近ひさしぶりに野間家を訪れると、また本がいちじるしく野間さんの生活を侵してしまっているのをみておどろいた。廊下はやっと人がとおれる幅だけを残して本が積まれているし、電話をおく台や、階段の踏段までが本の置場になってしまっている。これでは、野間さんがやせたがっているのは健康のためばかりでなく、家のなかを自由に動きまわるためにやせた身体が必要だからなのだとさえおもわれてくる。そのときもドストエーフスキイの『罪と罰』が何歳のときに書かれたかについて賭をしたが、証拠となる年譜をさがすのにひとさわぎしなければならなかった。このような状態をみると、本に侵された野間さんは近いうちにまた引越をするのではないかとおもう。
岡本勉「引越し」
昭和46年2月
すべてにおいて、並みの尺度では測り難い作家に、日常の些事でも感嘆したり、面喰らったり唖然となったりさせられたのを、懐しく思い返す。
野間家におじゃましているとき、玄関に客が訪れた。応対に出た光子夫人がすぐ引返してきて「×さん」と来訪者の名を告げ、先生が頷いて立って行かれたあと二人でお喋りを続けた。十分近くも過ぎてから、光子夫人が「あら? 何してはるのかしら」と、慌てぎみにようすを見に行かれた。
先生は、×さんから電話がかかってきた、と思いこんで、応接間を出ると目と鼻の先の玄関の、いやでも目に入る筈の×さんには背を向け廊下の奥へ進んでいって、電話機のところに十分近くつっ立っておられたのだった。何とも度外れな思いこみの強さ。受話器のはずれていない電話機を、首をややかしげてじいっと見ている先生の姿が、こうして書いている今も目にうかぶようだ。
岩橋邦枝「恩人」
平成3年3月
野間さんの動作はすこぶる緩慢に見えるが、これは体を悪くしてからのことで、当時は今ほどふとっていず、かなり長身だから、なかなかさっそうとしていた。あれでけっこう足は早い。いっしょに歩いていると、ひとりで先へ行ってしまうので、むしろ、せっかちな印象を受けたものだった。
水戸までの車中で何を話し合ったか、すっかり忘れてしまったが、ただひとつ、『顔の中の赤い月』を批評したある左翼評論家のかなり公式的な論旨を引用して質問した時、それまでおだやかだった野間さんの顔がみるみるひきしまって、「このような批評をたたきつぶさなければ日本の文学はダメです」という意味のことを強い語調で言ったのを、今でもハッキリ覚えている。この人は日本の文学を背負って立つ気なんだな……職場の文学活動と専門的な活動との裂け目で苦しんでいた私は、その自信の強烈さに、当然なものとは思いながら全く圧倒されたのだった……。
片野潔「文学的でなかった出会い」
昭和45年12月
九時すぎどころか、音羽通や新宿から十一時に電話をかけて、それから四、五人そろって伝通院裏の野間家を襲ったこともめずらしくない。どうもみんな野間先生の顔を見ないと一晩のしめくくりがつかぬような気持だったようである。ともかく、その晩も五六人どやどやと野間家に押しかけた。
いつものように、野間さんはゆったり入ってきて、酔っぱらいどもがうるさくごたごたしゃべるのにゆっくりうなずき、ときには片頬にやや含羞の趣きのある笑いを浮かべた。そしてたまにはポッツリポッツリ一語々々をよく咀嚼しているようにゆっくり反駁をもこころみた。そのころ脂ののりきっていた野間さんのもののいいかたは、たまたま全盛時代だった大鵬のもののいいかたに似ていた。わたしはテレビでごく稀れに大鵬のことばをきくたびに、野間さんに似ているなあと思わずにはいられなかった。それはともかくその晩もめいめいビールを飲み、さんざんしゃべって、引き揚げた。
杉浦明平「充実したとき」
昭和49年2月
野間宏に最後に逢ったのは、この入院中だった。私はある出版社の依頼で、彼から談話原稿を取るためにテープレコーダーを持参して病室を訪ねた。七月五日の午後のことだった。彼は以前より少し痩せ、会話の途中でしばしば咳き込んだが、昔のように意欲と闘志をもち、ゆったりした厚みのある声音も話し方も少しも変わっていなかった。彼は、近々刊行される大庭みな子全集の内容見本のための短い推薦文を書きかけて、ベッドの上に何冊もの彼女の本を並べてページを繰っていた。サインペンを持つ手は震えて、文字は原稿用紙の上を何度もななめに滑った。夫人と私とが手伝って何とか形を整えた。原稿を書く時の彼の生真面目な誠実さは、涙をさそうほど感動的なものだ。昔から彼はどんな簡単な原稿でも好い加減にせず、一生懸命だった。書痙という、作家特有の手の震える症状になったのは、『青年の環』の執筆中のことだったから、もう二十年以上も前なのだ。彼はそのような状態のまま今までずっと原稿を書き続けてきたのだった。
田辺園子「哀悼とともに」
平成3年5月
しかし、ほほえましい匿れた一面というようなものは、およそ彼には無縁である。
彼は嘘もかくしもなく、常に表に現れた野間宏そのものなのである。
たとえば、野間宏はダンスをすることがあると書くと、読者にちょっとびっくりするかもしれない。それはダンスと云う女性的で優雅な行為と、野間の男性的な文学との対比に意外感を持つからである。
ところが実際に彼のダンスを見れば、そこには何の奇抜な対比などというものが存存していないことが判る。要するに、彼が柔道をしている光景を想像してみればいいのである。
柔道が野間の人柄に似つかわしければ、彼の柔道風ダンスだって、別に突飛でも何でもない。
と云うようなわけで、野間の徹頭徹尾、野間宏なのである。
ところが逸話というものには、その人物を象徴するにせよ、または匿れた一面を示すものにせよ、即興性というものが付き物である。
そこに何か、突然はじまるという感じが、逸話には必要である。
ところが野間にとっては、何物も突然にははじまらない。
野間と話していて、思いがけない発言が、その場の思い付きで、突然、□から飛び出すという光景に出会ったことは一度もない。(中略)
実際、野間の小説は長い時間、彼の内部でゆっくりと、しかもわき目もふらずに成熟させたものの結果である。そのなかに、落想だの即興性だのの滑りこんでいる一頁も、読者は発見できないだろう。
中村真一郎「野間宏のこと」
昭和49年7月
わたしはいまでも深夜になると、野間さんから電話がかかってくるのではないか、という気にふっとなる。野間さんの電話は長い。小一時間は覚悟しなければならない。ときにはつい忘れたことがあったといって、すぐにまた電話があって長話になる。話は性急なわたしにはまだるっこしいくらいにゆっくりしたテンポで、あー、そのォ、といったことばがやたらに挿入される。それは彼の文体に似ていて、さまざまな想念が同時多発的に生じて、頭のなかで衝突しあってからようやくことばになるため、時間がかかり、ときには要領を得ないこともある。わたしのいないときは、家人から出先の電話番号を聞いて、夜十二時過ぎだというのに、そこへかけてくることもしばしばだった。(中略)
たびたびかかってきた長電話のおしまいには、「お互い、身体を大切にして長生きをしようよ。長生きをしなければ、戦いには勝てないのだからね。長生きをして、いい仕事をすること、ぼくらにはそれしかないのだからね」と、くりかえし温かい声でわたしをも、おのれをも励ますようにいっていた野間さんはもういないのだ。
夏堀正元「大いなる情念の作家」
平成3年3月
ところで、その席では、つまりボルケナウの研究会では、野間君はまことに寡黙であった。口を開いているときも、それはボソボソとしていた。あとで、哲学科に籍を置いていた友人の一人が、私に、
「あの男はナア、大阪出身なんじゃ、俺もそうじゃが、大阪人の学生にはいろいろと変ったのがおるじゃろ」
「君はそうじゃが、彼も変っとるかね」
「あいつはもっと変っとるぜよ。あの男は作家志望でなあ、バルザックが好きじゃと言うとる。バルザックという男のものを読んでみな、一人の男の顔を描写するのに、その顔だけで菊判二頁も費やすような作家じゃ」
「ホウ……」
「そのくせ、詩を作っとる。それもあの象徴詩というやつじゃ。自分の胃袋を引っぱり出して、そのなかに頭を突っ込み、見廻したら、ナポレオンやスターリンの顔があったというような詩を作っとったよ。あれで将来作家として世に出られるんじゃろうかのお」
このとき、私は野間君が作家志望であることを初めて知ったのだ。
奈良本辰也「部落解放の問題に関って共に」
昭和63年1月
仏文専攻だったので、野間さんから、フランス語の難解なテクストについて色々質問をいただいたことがあります。忙しい執筆に追われながら、多方面にわたって原書に当たり、アンダーラインを縦横にして学者顔まけの勉強をされているのを知って、おどろきました。サルトル論の中で、野間さんが想像力の問題を扱われ、論拠とされた邦訳、確かメルロ=ポンティのテクストの誤訳が問題になったことがあります。
真夜中に、新宿によびだされフランス語のテクストの解釈をたずねられたのですが、両義性に富む文章で当方にも即座に判断がつきかね、友人のフランス人をたずねてまわりました。野間さんの使われた部分の翻訳はやはり誤訳だったことが判明したのですが、「そうですか、やはり間違いでしたか」と野間さんは何度も念を押され、沈痛な表情でした。
功なり名を遂げた大作家が、翻訳ひとつにこれほど深いこだわりを示すのをみてその真摯さに深い感銘を受けました。ジッドのいう作家としてのサンセリテを目の当たりにする思いでした。骨太で肉付のいい、大河のように流れる文体ですが、緻密であくまでも事実性を追求する野間さんの文学構築を支えているのは、この類まれなサンセリテではないかと考えるようになったのも、この事件のおかげです。
根本長兵衛「野間さんのルポルタージュ」
昭和63年10月
小学校六年間、確かずっと同級だったと思うが、一度ぐらい別の級に分かれたかも知れない。まことに頼りない記憶だが、それくらい彼は目立つこともなく平凡な、おとなしい坊ちゃんと云ったタイプだった。遠足の時など、引卒の先生のすぐうしろ、腰のあたりにチョロチョロとくっ付いて歩いていた姿を今でも思い出す。そしてみんな、可愛い彼を「ヒロッチャン」と呼んでいた。(中略)
この鈴木先生は今八十歳を二、三年越していられる由。今なお元気で二十歳位お若くみえる。同窓会のとき、先生はよく、野間はペン一本で飯を食うんだと云っていた、と私達に話しておられた。『真空地帯』が世に出てから、集まると彼のことを話題にする。今、何処でどうしているのか、の程度で、小学校時代の彼の思い出話はあまり出ない。あまりにおとなしい、目立たない性格だったからも知れない。
昭和三十四年三月四日、大阪で、やはり鈴木先生を囲んで同窓会を開催した。その日、野間君は出席してくれた。懐かしかった。三十数年振りに再会出来たのだ。先生も喜んでおられた。私も本当に嬉しかった。そして目の前に居るのは立派な体格の彼、貫禄十分、小学校時代の彼のイメージはふっ飛んでしまった。血圧が高いので無理書きはしていないとのことだった。鈴木先生も嬉しかったのか「野間、お前の本の裏にサインをして送ってくれ」と云っておられた。当日は野間君が立役者の格好で楽しい一夕を過ごした。
野田正男「野間宏君の思い出」
昭和45年2月
野間宏は世間では行動の人とみられがちだが、もともと自己の行動についてはきわめて慎重だった。他人の結婚式や葬式、出版記念会や受賞祝賀会には特別な関係でなければ出席しないか、奥さんを代理に出席させた。社会的行動についても熟慮をかさねたうえ、伝説となった深夜の電話でわたしなどをふくむ何人もの友人に相談して自己確認し、決定的な時期に決定的に重要と思われる行動をおこすのだ。一九七〇年代のあるとき、彼は「創造と運動の両輪を進めるためには、どうしても書斎にとじこもる時間が必要で、しかもその書斎が社会のあらゆる問題にむかってひらかれ、たえず変動する“動く書斎”でなければならない。これは今日の文筆家に共通する重要な問題だ」とわたしに語ったことがある。わたしは訪問するたびに本の山がふえて、応接間はついに主人と客の一人がかろうじて座れるスペースを除くと、身の丈ほどにつみあげられた本で埋まり、廊下から玄関まで本の山がおよぶ野間宅を思いうかべながら、感銘深くその話を聞いた。しかも、野間宏は床が大きく凹んだ二階の和室で執筆をつづけ、入院中も一時退院後も「世界」と「海燕」の二つの連載を休まず、昨年十月以後は口述でそれをつづけ、電話には最後まで自分で出、十二月末の再入院まで奥さんに支えられて二階にあがって寝たという。
針生一郎「野間宏における行動の性質」
平成3年5月
野間宏は、すべて動作緩慢であった。歩き方も、一歩一歩確かめながら歩く気味であった。口のきき方も至っておそく、ちょっと吃る風な具合の時さえあった。が、一語一語噛みしめるようにして語るその句調には、声は低く小さいが、重厚で誠実な人柄がにじみ出ていた。
荒正人の紹介で野間宏を知ってから、何度か話を交わしているうちに、野間宏を平田次三郎は信頼できる男だ、と感得した。国民服に兵隊靴の野間と向き合っていると、敗戦を克服しようと全身から何か異様ともいえよう強大なエネルギーが発散されている風で、しばしば平田は圧倒された。
相手の話をよく聞き、その意味を噛みしめ理解し、疑問を問いただす時の野間宏は、一見おずおずとした口のきき方をするのだったが、一旦自分が自信をもつ話題について考えをのべる時には、断乎たる句調となり、平田は瞠目した。そして、黒ぶち眼鏡の奥の、普段は小さな柔和な眼が急にかっと見ひらかれ、何倍にも大きく鋭くなるかのように感じられる。こりゃ只者じゃない、と平田はひそかに畏れた。
平田次三郎「虚業を目指す人々」
昭和45年3月
八千枚を書いて病気をした。何分にも二十二キロも体重を減らしたというのである。二十二キロといえば、国際線での荷物の重量制限をオーバーしている。少年一人分の体重でもあろう。私には考えられない話である。私は茫然として野間君の顔をでも見ているより他には、何とも仕様も仕方もありはしない。
その病身の身で、東京からモスクワ経由直行でアルマ・アタまで、十九時間ほどを飛びつづけに飛んで来て、ケロリとしてアジア・アフリカ作家会議の日本代表団団長としての仕事を、全部つつがなく果し、あげくの果ては、カザックスタン共和国内の旅を四泊五日もやらかし、萄萄酒やブランデイでの乾盃までを平然と、にこやかにやってのける。
先乗りの私は、あれよあれよとばかり、ここでも茫然として彼の顔を見ているよりどう仕様もない。
私の方が病気になり、ダウンをしてしまって、彼の見舞いをうける始末になる。
私は彼のために、あらかじめアルマ・アタ陸軍病院の医者を手配しておいたのだが、彼ではなくて私の方が厄介をかけてしまった。
堀田善衛「野間宏君」
昭和49年4月
私は『青年の環』の完成後まもなく、野間宏氏の自宅へ伺ったことがある。(中略)
明かにおぼえていて、今ここに紹介したいのは、疲れきつた容貌の野間宏氏がそのときに、
「ぼくは『青年の環』を書き終えた直後に死んだらよかった」
と、小声でおっしゃったことである。
とたんに私は暗澹たる戦慄ともいうべきものにおそわれ、何を話す気もなくしてしまった。(中略)
私にはしかし、未熟な自分のささやかな体験から、二十年以上の歳月を費して八千枚を越える大作を完成した、五十代なかばを越えた作家の心境を、傲慢に類推しようという気はない。
『青年の環』の最終巻(第六部)約二千二百枚の文体は、発見の歓喜のこもる躍動感に満ちている。当の作者はしかし、書いているあいだ毎日のようにウイスキーの角瓶をあけ、ついに肝臓を悪くされたことを、私は担当編集者の田辺園子氏から聞いていた。完成後、野間宏氏はほとんど外出せず、だれとも会わず、おびただしい本が乱雑に積みあげられてある書斎にこもりきって、黙々とグラスを呷りつづけておられることを、奥さんから聞いた。「死んだらよかった」という言葉はそういう人の口から発せられたのであり、私はその心境を、到底想像できまい。
真継伸彦「暗い時の夜」
昭和49年3月
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