中野重治 【なかの・しげはる】

小説家、評論家、詩人。明治35年1月25日〜昭和54年8月24日。福井県坂井郡高椋村に生まれる。大正13年、東京帝大独文科に入学。大正15年、堀辰雄らと同人誌「驢馬」を創刊。プロレタリア詩や評論を発表し、芥川龍之介などから高い評価を得る。翌年からは「少年」(昭和2)など、小説の発表も始め、一躍プロレタリア文学運動の指導者的立場に上り詰める。昭和7年、検挙され、昭和9年に転向を表明するも、青春小説「歌のわかれ」(昭和14)や、評論「斎藤茂吉ノオト」(昭和17)など、時局に迎合しない優れた作品を発表し続けた。戦後も、〈政治と文学〉論争を起こしたり、参議院議員を務めたりと、活発な活動を行い、「甲乙丙丁」(昭和40〜44)では、戦前・戦後の革命運動を内部から批判した。昭和54年8月24日、胆嚢癌により死去。享年77歳。代表作は「中野重治詩集」「村の家」「歌のわかれ」「斎藤茂吉ノオト」「むらぎも」など。

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著作目録

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回想録

 まだ中学生の一九一八年の秋に、中野という人が全国最高の成績で四高に入学したという話をきいた(そのころは官立の大学と高等学校は九月入学で、四月入学にかわつたのは一九二〇年である)。この話はこのごろ当の本人が打消しているから、正確でないのかもしれないが、秀才は一高に集中するという通説にあきたらないわれわれ田舎の生徒には、中野首席説は胸のすくような快挙として、本当のことだと思いたいという「真実性」がある。その有名な優等生が、酒をのむとか文学をやるとかいう噂であり、翌年は一転して落第したので、ますます有名になつた。私が二年あとに高校に入つてみると、その人は長髪を肩まで垂らして闊歩していた。冬になると(なつても?)夏服をきていた。雪の金沢では、こうした挙措や風貌が一種の中野伝説に輪をかけた。多くの人は畏敬の気持をいだいて「中野さん」と呼んでいた。本人がべつに気負つているわけでなかろうけれども、生徒たちには、凡俗をよせつけない人という印象があり、教師のなかにも、彼には一目をおく風があつた。おまけに五年も在学したから、普通の人の何倍も知名度がたかく、金沢以外の中学校でも中野は有名人であつた。
石堂清倫「学校のころの中野重治」



 左翼の人たちは日本芸術院会員になったり、文化勲章、日本芸術院賞、恩賜賞、芸術選奨、芸術選奨文部大臣新人賞などは受けないというのが決りのようになっている。芸術院会員になれば、年に三百万円ほどの手当もつくのだが、天皇制打破を目指すマルキシストとしては、現在天皇制をとっている国からそういう国家の栄誉やそれに伴う手当や賞金などを受取るのは主義に反することなのだろう。(中略)
 昭和四十一年の六月号で私は「群像」の編集から退いたのだが、退く数年前、佐藤春夫氏だったか丹羽文雄氏だったか、そのどちらかの作家であることには間違いないのだが、中野重治ほどの作家が芸術院会員でないのはおかしい、是非会員に推薦したいのだが、中野重治は左翼だから断るかもしれん、しかし断るかもしれんという推量だけで推薦しないというのもおかしいから、本人から断るかどうか確かめて来てくれ、と頼まれた。断るに決っていると思ったけれど、作家に頼まれれば断るわけにはいかず、中野さんを訪ねてそのことを話し出したら、君はこのおれがそんなものになると思っとったんかねッ、と言われた。断るにちがいないと思っていたけど、確かめて来てくれって言われたから来たんです、と私は慌てて言った。佐藤さんだったにしろ、丹羽さんだったにしろ、中野さんとは文学観も思想も随分ちがっていても、文士として立派である中野さんを尊重していることがわかり、日本の文壇はちゃんとしたところだとその時改めて思った。
大久保房男「終戦後文壇見聞記」
平成18年5月



 中野重治は端正で風格のある酒呑みだと思う。好んで酒盃を手にするけれども、青臭い酒呑みに特有の、あのねじくれた崩れかた、妙に陰々滅々と絡んできたり、泣きわめいたり、また逆に居丈高になつて必要以上にはしやいでみたり、調子つぱずれに放歌高吟したり、そんなところがまるで無い。呑む場所も、たいてい通りすがりのソバ屋などが多くて、塗りの剥げた卓上にお銚子が何本か倒されて行くのを実に楽しげな目つきで眺めながら、早すぎも遅すぎもしない適度な手酌で、悠然と酒盃を口もとまで運んでいるんだ。あの姿はりつぱだ。あのままで十分に詩になり絵になるよ。
 ぼくなどは喧嘩つ早くて、詩界でも暴れん坊で通つていたから、酒にまつわる失敗譚は数えあげればキリがない。その崩れ酔いの見本みたいに無頼なぼくが、中野が相手だと、いつのまにか中野の端正な手酌にペースを合わせているんだ。シヤクだけれども、いつでもそうなつてしまう。考えてみれば、これはおかしいんだな。ぼくは気質的なアナーキストで、中野はボルシェヴィーキの道ひとすじの人間なんだ。アナとボルは昔から仲が悪かつたから、酒でも呑んだら議論が丁々発止と衝突して、胸ぐらでもつかみかねないのが普通だよ。それだのに酔つぱらつて、意気投合して、胸襟を開いて語りあつているんだから不思議だよな。
岡本潤「不思議な因縁」
昭和52年12月



 その当時のある日、彼と私が二人で何の用件であつたか、代田橋方面から東松原の方へ向つて細い道を歩いていた時のことである。
 数日前にプークの事務所に、一人の男がしのびこみ、プークは反人民的分派だという内容をかいたビラをまいて逃げたことを、私がまだその全部を話しおわらないうちに、「その男をどうしたつ」という大声で私はとび上つた。
 もちろん中野が私に向つて叫んだのであり、彼はまるで私がその犯人ででもあるかのように私の顔をにらんでいた。私は急いでその男は劇団の者がすぐ後を追いかけ路上でつかまえたこと、そしてその人間の所属団体をたしかめてからはなしてやつたことを話した。
「なにつ、そのまま逃がしたのか?」第二弾が私にぶつかつて来た。「そんな奴は、まずつかまえたら、向うずねの一本もたたき折つて逃げられないようにしてから話しをするもんだ……」
 私はまつたく彼の気魄にのまれ、すぐには言葉もでなかつた。
 彼の場合、彼の中にある確信はなんの顧慮もなく激しい感情を合体して現れる場合がある。それでいてまた一方、人形劇を見た時の印象などは、普通の大人では感じないような、まつたく子供つぽいほどの純粋さで驚ろいたりする。
川尻泰司「中野重治と童心」
昭和38年4月



『芸術に関する走り書的覚え書』はたしか、一九二九年九月、改造社から蔵原惟人『芸術と無産階級』と一緒に出版され、旧制高校生として何回も読んだのだが、真つ白い表紙に黒い表題を浮かせた、いかにも簡素なプロレタリア派の新人らしい意匠が、中野さん自身の発案であつたのを知つて、なるほどと思つたのは、戦後の『全集』を通じてであつた。
 第一、題名そのものが、当時としては、フレッシュそのものであつた。戦後の新しい表題の多種多様な付け方に慣らされ、ちよつとやそつとでは驚かなくなつた読者諸君では想像が付かないかも知れないが、内容だけではなく、名前やスタイルそのものまでが新しい芸術論がとうとう姿をあらわしたという感じを深くしたのを覚えている。「問題の捩じ戻しとそれについての意見」といつた論争エッセーの名前の付け方も、全く新しかつた。
久野収「中野重治さんの影響力」
昭和51年9月



 人として作家としての中野重治は独特の頑固な個性をもつている。それは何百年ものあいだにつくられてきた日本の農民のいわば土着的な性格と共通のものをもつている。それがさまざまの環境のなかで変らずに貫かれている。戦後兵隊から帰つてきた中野は、軍服を着ていたが、すこしも兵隊らしいところがなかつた。大西巨人などがいまだに「自分は」などと軍隊口調で話しているのとは大違いである。参議院の選挙に当選して議員になつた中野はちつとも議員らしくなかつた。共産党にはいつて中央委員でありながら、彼はよいにしろ悪いにしろ共産党員らしく見えない。
 中野は一部の人たちから狷介不遜であるように見られている。とくに初対面の人にそういう印象をあたえているようだ。しかしそれは農民が「よそ者」にたいして見せる無愛想さ、子供のひとみしりのようなもので、案外中野の人の好さや気の弱さをかくしている蔽いかも知れない。ともかく彼には都会人がしばしばもつている愛想よさにかくされたドライさ、てれかくしや見せかけの親切さというものがない。
蔵原惟人「中野重治のこと」
昭和38年4月



 ところで、中野さんは平野謙の会のときも、荒正人の葬儀のときも、ノーネクタイ姿だった。背広の下に少し厚手のウールのシャツのようなものをいつも中野さんは着ていたように思う。色は黒っぽかったり、茶色だったり、白だったり、とりどりだが、つねに絶対に中野さんはネクタイをつけなかった。まるで仇敵のようにネクタイを毛嫌いしているようだった。冠婚葬祭の座にも、けっしていわゆる礼装めいた服装をして出かけることはなかったように思う。少くともわたしの記憶する限り、中野さんはつねにノーネクタイだった。
 中野さんのネクタイ嫌いの原因がどこにあるか、わたしは知らない。ただそんなにネクタイを毛嫌いする中野さんを、何となく中野さんらしいとわたしは感じていた。そして、そういう自分の主義をおし通して、ついに生涯妥協しなかったのも、いかにも中野さんらしかった。生涯にわたり平服でおし通した人――わたしはこれからも中野さんのことを思い出すたびに、そんなようなことをまず感じるだろうと思う。
佐々木基一「運動族・中野重治さん」
昭和54年11月



 以前先生をお訪ねした時、お部屋の壁に大きく引伸した、美事な仏像の写真がはつてあつた。「これは私が撮つたのです」と、先生の方から話しかけて下さつたのが、さもご自慢らしい口調も楽しく心に残つた。
 金沢へおいでになつた時、当時、古い四高の校友会誌である『北辰会雑誌』をよみ漁つていた私は、中野先生の短歌が当時のアララギの大家の作品に近い、堂々たる格調をもつているのに感心していたので、その事を申し上げた。言下に「そうだ、あの頃僕はうまかつたんだ」という意味の事を、同行の伊藤信吉先生の方を見ておつしやつた。
 仏像の写真といい「歌のわかれ」にも感じとれる先生の若き日の自作の短歌への自負といい、中野先生の場合は、ただの天狗ではなく、自己も他者も同一線上において正しい批判ができる人の、本当の事しか言わない言葉だとして私は聞いた。
新保千代子「怖さも怖し」
昭和52年1月



 昭和十三年頃、中野さんは、世田谷豪徳寺の森にちかい通りの竹屋の裏隣りに越してきた。戦後にかけて十数年間ここで暮していた。夏は、風どおしが悪く、暑い住いだつたが、冬には、南むきの縁側からふかく陽がさしこんでいた。
 縁側先の、あまりひろくない庭で、どうかすると、中野さんはときどき庭いじりをやつていた。庭いじりといつても、手鋏で庭木の枝をきりとるというふうなものではない。もんペ姿で地下足袋をはき、どろんこになつて庭土を掘りかえし、庭木を植えかえたりするのである。近所の苗屋からバラを買つて植えたりした。中野さんは、自分の好きな花や植木にはじつに丹念に手をかけるふうだつたが、庭隅の樫の木などは、びつくりするほど手荒に枝をきりおとした。鋸で、つるつるてんにされた丸坊主の庭木を眺めると、私は、なんとなく可笑しいような、なんとなくわびしいような感情がこみあげてくるのであつた。
手塚英孝「戦時下の中野さん」
昭和35年4月



 政治家時代には、あまり文学の話はしなかったようにも思う。しかし、この男とうとう文学と縁が切れたな、と感じさせるようなこともなかった。そして、次の選挙で落選すると、さっさと文学に戻って来た。これは、あまり前例のないことである。
 大体、彼は、はじめから政界にははいらないと称していたのであった。それが急に立候補して国会議員になってしまった。かと思うと、次には落選して、さっさと文学へ戻って来た。以来、文学上の友だちの中で、彼とは、一ばん文学の話をするようになったと思う。
 文学上の友だちも、もうわれわれの年ごろになると、あまり文学の話をしなくなるものである。文学を卒業してしまったというわけではない。今さら議論しても、自分の道は動かされないと感じているなかまだから、文学の話よりは、ほかの話で時をすごしてしまうのである。ところが、中野とは、よく文学の話をする。それがきわめて自然なのである。中野については、いろいろの感想があるが、わたくしが彼を信用する一ばんの理由はここにある。文学のアマチュアは、むやみに文学の話をしたがる。くろうとは、むしろそういう話をさけたがる。ところが、こういう押し売りや遠慮なしに、文学の話をどんどんする人間は、信用するほかない。彼だけではないが、わたくしは、そういう意味で信用のおける人間を何人か知っている。
 しかし、本格的に政界に足をつっこんで、そこから解放されても変らないで文学の話をする人間は、ほとんどいない。同じようななかまの中で、特に彼は信用に値する。
中島健蔵「中野重治の人がら」
昭和29年12月



 もつと単純に無邪気な発言にも接したことがある。
 私がある人に会うために、米原駅に途中下車して待合室に入つて行くと、そこのベンチに偶然に掛けていた中野さんと顔を合せた。
 中野さんは帰郷の途中でここで列車を乗り換えるのだが、時間が余つたので街へ出て行つて古物商の店先を覗いて来たところだという話をされた。そして、「国の方にあるのと同じ箪笥を見掛けた」と云つて、ポケットから紙をだすと非力な者でも移動可能なような小さな車つきの箪笥の図を書いて説明してくれた。そして「東京あたりのものには、この工夫が見られない」と、東京文化を軽蔑したような言葉をはさんだ。中野さんにとつては、日本文化の中心は北陸であり、東京などは遅れた辺境にすぎないのだ、という感想を私は抱き、そして中野さんの頑固な「お国自慢」のユーモワが私にも伝わつてきて、それはこちらの心をも明るくしてくれる効果があつた。
中村真一郎「中野さんの言葉」
昭和52年11月



 今から、三十数年前、私は淀橋浄水場のかたわらの暗がりの道を、中野と二人で歩いていた。
「おい」と私は云つた、「おい、やつぱり福本和夫の本は読まねえといけないかな」
 中野は、こまつた顔をした。そのころは、福本イズムの全盛期であつた。
「適当に読むんだな」と中野は答えた。
 おかげで、私は、いまだに福本の本は一冊も読まない。しかし、私の記憶にしみついているのは、中野の言葉ではなくて、その時の中野の笑顔である。
 中野は、時々、実にやさしい笑顔をする。まるで、水飴がとけてゆくような笑顔をする。それは幼児の笑顔に似ている。
 ところで一昨年の正月、私は室生さんのところに年始に行つた。(中略)その時である。例の「杏っ子」の朝子さんが、かたわらから「中野さんて、とてもこわい人ですつてね」と云つた。「そうかな」「雑誌記者の人たちなんか、中野さんの家の玄関に手をかけただけで、ガタガタ、ブルブルするんですつて。それで、ガタブルつてアダ名がついているそうよ」
 たしかに、中野は、昔から、白眼をむいて天の一角をにらむような怖い顔をする。この怖い目つきと、あの水飴がとけるような笑顔とが、裏表になつて、一つにとけたところに、中野の芸術の魅力があるのだろう。
ぬやまひろし「重治はここにあらぬか」
昭和34年4月



 しかし、私はながいあいだ中野重治の存在に気がつかなかつた。おしまいのころになつて、「しかし、そりや中野君」と誰かが発言したので、いま答えている長身の男が、中野重治にほかならぬことを、はじめて知つたのである。「アッ、あれが中野重治か」と私は思い、「しまつた、あれが中野重治なら、もつとあの男のいうことを注意して聞くべきだつた」と後悔したのである。私は中野重治の写真は十分見知つていた。改造社版「新鋭文学叢書」の一冊『夜明け前のさよなら』の中扉には、机の前にすわつているらしい中野重治の半身像の写真が掲げられてあつた。(中略)しかし、第三回大会における中野重治は、その写真とは似ても似つかぬ別の男だつた。スラリとした長身で、なかなかスマートに洋服を着こなしているすがたは、私の思いえがいていた中野重治とはまるでちがつていた。なにか私はだまされたような気がした。私は写真から勝手に中野重治をうすぎたない小男とばかり思いこみ、洋服をうまく着こなす、かなりハイカラな長身の紳士すがたとは思いもそめなかつたのである。当時はまだプロレタリアとブルジョアとを問わず、文士は和服すがたが圧倒的に多かったはずである。無論、顔つきも写真とはすつかりちがつていた。
平野謙「中野重治」
昭和39年10月



 戦争の頃は私は世田谷にいて、中野君と家が近かつたので、その時分が一番親しくつきあつた。
 何しろあの狂気じみた時代である。中野君のような思想的立場にある人は随分苦しかつたろうと思う。中野君や故宮本百合子さんには特に風当りが強かつたと聞いていたが、併し中野君は会つても、そんな話は一つもしなかつた。私も訊ねては見なかつたが。
 それにしても、今ふり返つて見ても、中野君のあの忍耐はえらかつたと思う。神経質になつたり、憂鬱になつたりする様子は全然なかつた。いつ会つてもにこにこしていた。私などは隣組長が順番にまわつて来ても、女中まかせにして殆んど自分では何もやらなかつたが、中野君は彼の隣組で組長を割当てられると、実にあたりまえの顔をして真面目にやつていた。
 私などが戦争に対する憤慨を誰にでもぶちまけたのは、中野君ほど身辺が危険ではないからそんなことが出来たので、中野君がそういう事は口にも出さず、あの年代を実に平静に見つめながら通過したということは、中野君が覚悟が出来た人間であつたことを示していたと思う。
広津和郎「戦争中の中野君」
昭和34年6月



 それにしても中野さんには、どうも先生といつた感じ、どこかの田舎の小学校で昔教はりました、といつた感じが伴つて、そこが懐しい。人柄が田舎ふうで、話をしてゐるとこちらものんびりして来て、田舎の物識りのおぢいさんから故事来歴を聞かされてゐるやうな気がするから不思議だ。私がここに田舎といふ字を三度も使つたからと言つて、それは決して貶下的に用ひたのではない。中野さんが犀星を評した「母乳のごときもの」を、中野さんの場合にも感じるといふことである。
 しかしかういふ印象は私にとつて特殊なのかもしれない。怖い人、眼の鋭い人、油断すれば身ぐるみ剥がれさうな徹底的な論客、といふ印象が専ら流通してゐるやうである。それは政治に関つた場合だらうし、私は政治やイデオロギイとは無縁な人間だから中野さんの怖い方の側面は見てゐない点もある。そちらの方面で中野さんと附き合つてゐる人はさぞ大変だらうと同情する。
福永武彦「中野重治の座談」
昭和52年6月



 彼はこまごました家事を少しも面倒臭がらない。一人娘の卯女ちゃん(現在俳優座の養成所に通つている)が赤ん坊のころ、中野は実によく世話をしていた。細君にいわれると、仕事をしている最中でも、味噌や豆腐を買いに行く。私も細君のいうことはよく聞く方だが、とても彼のようにはいかない。こういう彼の性質――小さなものに立ちどまり、それをつくずくと眺め、いとほしむ。また妻や子に、人目もかまわず愛情を傾ける。仕事のために家庭をないがしろにするということなく、ゆつくりと歩いて行くという性質――は、同時にその反面において、邪悪なものを烈しく憎む、どんなに小さなことでも許さない、という性質とかたく結びついている。
村山知義「極めて稀な――」
昭和34年7月



 ところが近年は少しく事情が変つてきた。一口に言えば、中野さんも随分変つてきたのだ。それで、それほど怖い人でもなくなるとともに、氏の心やさしい面が見えてきたのだ。ここらの事情はもつと精しく書かないといけないのだが、とにかく一時は縁なき人と見えていた氏が、急にまたぐつと近づいて身近な人と感じられてきた。
 もう十五六年も前になるが、ある座談会で氏と同席したことがあつた。そのとき何かの意見を求められて、「なにしろ僕はまだ修行中の身だから」と、口を濁すようにしたところ、すぐさま氏に言われてしまつた。「きみももう相当の歳だろう。修業中なんていうのはおかしいぞ。もつと自信をもつて世間に対さなくては」と(言葉はこの通りではなかつたろうが)。私は「あつ」と思つて、やはり怖い人だなと感じたが、その叱責には気の弱い私を励ます愛情があふれていて、少なからず私は力づけられたものだつた。それからは時々新著を送つて下さり、ある時などはデンマーク土産のアンデルセンの本をいただいたこともある。
山室静「中野さん片々」
昭和53年1月



 前日までとちがって、この日から中野さんの息はあらくなっていた。そして口がもつれて、いうことは半分もわからなくなった。意識の混濁がみられ、もうあきらかに尿毒症の症状になっていた。
 原さんとわたしがもどってきて、やがて娘さんの卯女さんが豊川からついた。それからの進みようはつるべおとしだった。酸素吸入の管をつけたまま、あらい息づかいのなかで、中野さんははげしいうわごとを言いつづけた。たまに文章らしいのがまじってはいても、そのほとんどが理解できなかった。あえぎあえぎいうひとつひとつの言葉がみな日本語らしくなかった。同時にわたしは、これはいかなる外国語ともにていないというふうにかんがえた。翌あさになっていくらかおちついたが、顔つきは、もうきのうのとも、ゆうべのとも、すっかりかわっていた。午後二時五十分、危篤状態になった。それまでは人の呼ぶ声に応じていたのが、目をかすかにあけようとするだけで、声はまったくでなくなった。それから、ますます目をしっかりつぶってきた。四時半、懐中電燈でのぞきこんでいた医者が、瞳孔がすこしひらきかけているといった。五時ごろ、いままであけて息をしていた口を、ガクッとつむった。原さんがそれに気がついた。あわただしく医者と看護婦とが出はいりして、蘇生させる最後の努力がはじまった。壮漢のようにみえる――わたしにみえた――若い医者がはげしい人工呼吸をはじめ、みな――原さんも卯女さんものこらず外にだされた。五時五分ごろ、原さんと卯女さんが部屋にはいった。それから、死が来た。五時二十一分だった。
松下裕「死のあとさき」
昭和54年10月

大正10年4月 昭和27年頃 昭和50年頃


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