中島敦 【なかじま・あつし】

小説家。明治42年5月5日〜昭和17年12月4日。東京市四谷区箪笥町に生まれる。父の転勤により少年時代を朝鮮で過ごす。昭和8年、東京帝大国文科を卒業し、私立横浜高女の国語と英語の教師として赴任。教職の傍ら、「狼疾記」「かめれおん日記」などを執筆するが、発表は一切しなかった。昭和15年頃より持病の喘息が悪化。昭和16年、転地療養の目的で、南洋庁の国語教科書編集書記として南国パラオに赴くも、病状回復せず、昭和17年3月に帰国。師事していた深田久弥の推挙により、「山月記」「光と風と夢」など、古典的な格調をもった文体で、人間の生の極限を追求する作品を次々と発表したが、昭和17年12月4日、気管支喘息により死去。享年33歳。その文壇での活躍はわずか八ヶ月間に過ぎず、「弟子」「李陵」などが遺作として発表された。代表作は「山月記」「光と風と夢」「弟子」「李陵」など。

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著作目録

小説 : 発表年順

習作・未定稿・歌稿 : 発表年順

エッセイ・その他 : 発表年順



回想録

 小林 中島先生は教卓の椅子に座ると、いきなり足を組んで授業される方でしたが、そういう自由な格好をされる先生は、ほかにはいらっしゃらなかったですね。それから、先生は教室にはいってくるなり、両手で教科書をバーンと音をさせて教卓に置かれる。私は一番前の席だったので、先生の授業の時はいつもチョークの粉やらホコリをかぶっていたものでした(笑い)。
 内田 それから先生は、なんといっても、あの度の強い眼鏡……。
 金子 そうそう、ドイツ製だということでしたね。先生とお話しをしていても、レンズが渦巻きのようになっているので、目の表情などよくわからないほどでした。ある時、「この眼鏡がなければ、僕はたちまちメクラになってしまう」と言われ、誰かが「お風呂にはいる時もかけていらっしゃるのですか」と尋ねると、「そうだ」と答えられました。それでも、ご通勤の時など、いつも英字新聞や本を読みながら歩く先生でした。
内田ヤスヱ・金子いく子・小林はまを「中島敦 横浜高女時代」
昭和55年4月



 トンは、明かるかった。トンと共にいるとき、トンと話しているとき、だれも彼も、そして彼自身も、明かるかった。
 もちろん、人と共に在るとき、敏感、純粋なトンは、常に何ほどか努力していたと、今私は、思う。凡ゆる場合に、唯美主義者である欲求を、明きらかに持っていた。従って、人間関係においても、常に何ほどか、社交家であろうとする意欲と余裕は、彼にとって自然だったはずである。
 しかし、私は、私なりに信じている。彼トンは、人と共に動き、話すとき、自分の本質に逆ってまで、常に社交家として努力していたのではない。
 彼の知的素質、彼が自分で意識していた性格的限界や気質の特異さは、どうであろうと、他者の私の感じていたところでは、人間との接触の断面において、見るとき、彼は、常に明かるかった。(中略)
 私自身の、トンとの交遊の経験から言えば、私がメソメソしていたり、ガブガブ酒を呑んでいたりして、トンを悩ました経験は、かなり記憶に残っているが、トンの残している印象は、常に明かるい。そして、私に真っすぐに来る実感は、こうである。
釘本久春「敦のこと」
昭和34年6月



 南洋行を決める前後は、とても思ひつめてをりました。身体も弱つてをりましたので心配致しました。それでも無事に帰つてまゐりました。南洋では土方先生に肉親も及ばぬ御親切を戴いたと、申しました。
 帰つてから、ある日、今迄自分の作品の事など一度も申したことがありませんのに、台所まで来て、
「人間が虎になつた小説を書いたよ。」
と申しました。その時の顔は何か切なさうで今でも忘れることが出来ません。あとで、「山月記」を読んで、まるで中島の声が聞える様で、悲しく思ひました。
 好きな本も、芝居も、見ることが出来なくなり、書くことも出来なくなると、
「書きたい、書きたい。」
と涙をためて申しました。
「もう一冊書いて、筆一本持つて、旅に出て、参考書も何も無しで、書きたい。」
「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい。」
とも申しました。
 世田谷の病院で、麻痺剤も効かなくなり、注射液が腕からタラタラ流れ出てしまつて、背をなでて居た私の胸に、どつと倒れて息を引取つたとき、さつきまで苦しみに苦しんでゐた人とは思へない、安らかなキレイな顔になりました。フサフサした髪が血の引いた額にかかつてをりました。眼鏡もかけ、生きた人の様に膝に抱きかかへて人力車で家に帰りました。随分軽い身体で、本当に弱り切つて居たのでした。
中島たか(註、敦の妻)「お礼にかへて」
昭和35年11月



 先月号の本誌に「光と風と夢」を発表した中島敦氏は、僕の高等学校時代の知人である。級はひとつ違つたが、文芸部の委員だつたので顔はよく知つてゐた。別段まとまつた話をしたことはなく、ただ往来で会へば、やあと声をかけ合ふ程度だつたが、小柄で色白の氏が頭にすつぽり被つたマントの蔭から分厚な近眼鏡を光らせて、ゴム裏の草履をぴたぴた鋪道に鳴らしながら、寒い本郷通りを独りで歩いてゐるのをよく見掛けた。寡黙であまり人中へ出るのを好まず、いつも自分だけの世界に閉ぢこもつてゐるやうな人であつた。
 書くものも一風変つてゐて、その頃はまだ満洲事変の起らぬ前であつたが、満洲に取材した小説を校友会雑誌に発表したことがあつた。考へて見れは氏のエクゾティズムもずゐぶん根抵の深いものである。空想で小説を捏ちあげるのは誰しも高等学校時代には得意とする芸当であるが、氏のはさういふ凡作とは選を異にして、空想的な題材を扱つてゐるが、その想像力に一種の生々しさがあり、殊に満鉄総裁だか何かが喘息に苦しむ場面などはなかなか真に迫つてゐて、自分の経験ない材料をよくこれだけに書けるものと感心したせゐか、おそらくもう中島氏自身は忘れてゐるかも知れぬこの旧作は僕の記憶に鮮やかに残つてゐる。
中村光夫「旧知」
昭和17年6月



 これは想い出だが、一高生のとき本郷の、学校のすぐ前の下宿にかれを訪ねた。机の上に葉書がのっていて、ただ一字大きく「着」と書いてあった。これは数日前に大連の家庭から衣類や何か心をこめた小包が届いた、それに対する返事なのである。いつも返事を出さないので、今度からきっと出せとの父君の手紙が一緒に来た。そこで、こう書いたのであった。(あとから聞くと、かれはこの返事のため再び父君に叱られたそうだ。)かれの短篇にも書かれているように、家庭に対してかれは釈然としないところがあり、そうしてかれは偽善的な一句も書けない人間であった。漢籍に取材した諸作品を読みなおして、私はたまたまこの「着」のことを想い出したので書いた。
 また同じ頃のこと、本郷の夜店で「白痴群」という雑誌を買い、当時はまだ無名の詩人であった中原中也の詩に感心したので、中島のところへ寄ってこれを見せたことがあった。かれ曰く「うん、しかし何だかホンヤクみたいだな。」私は一寸離隔を感じた。今から思うと中島はすでに文章的独立を持っていたのであり、近代的な不協和音の少い、東洋的な格調をもった、伝統的洗練さの方がぴったりしていたのである。かれは歌をつくり、漢詩をつくり、また一二英詩や漢詩の訳を試みたりしたが、詩はついに書かなかったようである。
氷上英廣「解説」
昭和26年10月



 中島敦をはじめて知ったのは、一高の寮にはいったときである。知ったといっても、ただ隣の部屋にいたというだけのことで、ひどく度の強い眼鏡をかけた小男と廊下ですれ違うことが何度かあったというにとどまる。それが中島敦という名前と結びついたのは、二年ほどのちにどちらも文芸部委員になって、親しくなってからである。敦はもちろんアツシと読むのだが、われわれはみなトンと呼んでいたし、本人も少しもいやな顔をしなかった。私の家に遊びにくるようになっても、家人からトンさんと呼ばれていた。(中略)
 知りあって間もないころ、あるとき私はかれに向かって、君は明寮の隣の部屋にいたから見覚えがある。どうしていつも廊下のはじのほうばかり歩いていたのだ、と冗談まじりにいった。実際私の記憶では、中島は、非常に度の強い黒わくのまるい眼鏡の底で、好奇心とも羞恥心とも判じがたいものを凝集させた小さな目(実際は、それほど小さくないのだが、小さく見えた)を光らせて、いつも廊下のはじのほうによって、あまり目立たずにすたすた歩いていたのだ。中島はそれには答えず、しかしすかさずむくいるように、こちらも君を知っているといって、こういうことをいった。寮の食堂の飯がまずくてしょうがない。ひどいものを食わすなあといつも思うけれど、あたりを見まわすと、寮生はみんな旺盛な食欲で、いかにもうまそうに食っている。だが、ある日ついに発見した。ちょっと離れたところで、ひとり実にまずそうにめしを食っているのがいる。自分に似たような奴がいるなと思ったが、いま思えはそれが君だった、と。中島は私の家に来たときにもその話をしたが、まずそうに食事をするというのは、家人がつね日ごろ私に向かって非難するところであったから、大いに好評を博した。思いがけない変なところで、的確な観察をする男がいるものだと、私は感じたのである。
氷上英廣「中島敦のこと」
昭和40年7月



 南洋での一人暮らしのトンは、うしろが一尺もさけて黄色い背中がはみだしていたり、片袖がもう一二寸でもげて落ちそうな着物を平気で着ていたし、サルマタは大きなほころびを黒糸で巻き縫いにかがったりしていたと前に書きましたが、書簡にもさすがに、無理に送りたければサルマタを送れと書いているのでおかしさがこみあげました。そう云う無頓着がそのまま実によく似合うように、トンがあの可愛い声でおかしなことを言って、よく人を笑わせ、人を笑わせる前に自分が笑ってしまう明るさと人なつこさを思いだします。
 新しい本が内地から届いたりした時のトンの嬉しそうなしぐさが目に見えるようです。早速私のところに持って来て見せ、それからその新しい本を愛撫するのです。厚い近眼鏡の奥に、笑うとなくなってしまうような眼、その眼鏡に近々と本を寄せて、何かぶつぶつ言いながら本の頁をパラパラと前にかえし、うしろにもどし、二部屋ぶっとおしにあっちからこっちに、こっちからあっちへと歩くのです。すると額にバサバサと髪の毛が垂れさがる、その髪の毛を片方の手でかきあげ、仰向いて頭をブルンと振って髪の毛をうしろに投げあげるのですが、元の姿勢にかえると一緒に、いっぺんに元通り垂れさがってしまうのです。
土方久功「パラオでのトンと私」
昭和35年11月



 南洋から帰って私の家へ訪ねてきた君は、やはり健康はあまり勝れないようであった。南洋の光と風も、君の持疾のゼンソクには、よい効果をもたらさなかったようである。(中略)
 その年の終り、君は三十四歳の若さで世を去った。東京郊外の霜解けの泥濘の道を踏んで、私は君の家へお悔みに行った。同じ鎌倉に住む香取任平さんと一緒だった。香取さんは中学時代に、君の厳父の教え子であった。
 その時、私は君の奥さんから、分厚な一篇の原稿を渡された。今まで私のあずかった数篇の原稿は、いずれも一字の訂正もない奇麗なものだったのに、その原稿は、満身創痍と言いたいくらい、推敲で真黒になっていた。細かい字の書きこみは欄外にはみ出し、原稿用紙の裏にまで及んでいた。そんなにまで文章に苦労していることを、私は初めて知った。いずれは清書するつもりの、それは草稿だったのだろう。題すらついていなかった。
 その草稿を家に持ち帰り、読み終った時の感動を今も私は忘れられない。少し誇張して言えばあたりがシーンとするくらい感動した。すぐその草稿を『文学界』に送ったことは言うまでもない。題がないので、私が仮りに、『李陵』とつけた。出来るだけ私の主観を入れない、淡白な題を選んだつもりだが、故人が考えていたものに添うかどうか。私の危惧は、この無惨に筆を加えられた草稿が、果して文撰工に判読されて正しく活字が拾われるかどうかであった(今でも私はその疑問を持っているが、もとの草稿の失われてしまった現在、ただすべくもない)。
深田久弥「中島敦の作品」
昭和29年4月



 二学期の最初の日、職員室の一隅から、突然、嬌声があがった。
「どなたですか?」
「まあ、失礼ですねえ。」
 見ると、作法担任のF女史が、怒気を含んだ眼差で、四囲を見廻している。両の手に、紐の一端をつまんで翳しているのは、正しく、男性用の黒褌である。
「こんな物、ひとのお机の中に忘れなさるなんて、何て失礼な方でしょう。」
 男教師達は、心中、にやりとしたが、F女史の剣幕に、け圧された状態である。しかし、次の瞬間、敦の高声が、この場の気拙さをうち破った。
「俺だ、俺だ! ごめん、ごめん。俺が忘れたんだ。」
 F作法主任も、中島先生では仕方がないという面持で苦笑する。一同、大笑いになった。学校から、徒歩で三分位のところに、市営元町プールがある。偶々、夏の休暇中に、職員室を更衣室代りに利用して游泳を娯しんだ敦が、女教師の机の抽斗に黒褌を置忘れ、はからずも、この大騒動になった次第であった。
山口比男「十二月六日まで」
昭和35年11月



 戦争が烈しくなるにつれて、敦の健康の凋落が目立って来た。額にかぶさる頭髪の下に、こけた頬が不眠の夜の憔悴を持越している。Yシャツの襟から、食みだした白布の湿布が咽喉をしめつけ、殊更に快活を粧う言葉の直ぐ後に、意地悪い咳が襲った。
「エフェドリンをやると眠れなくなる。そこで睡眠剤を飲む。すると、これが胃に悪いので食欲が減退するから体力が衰える。そして又、喘息だ。」
 斯う云って淋しく嘲う。又、
「発作の時は、真冬でも、勿論、夜中でも、女房に頼んで、部屋の戸という戸を、全部開けて貰うんだ。何しろ、酸素が欲しい。医者を呼んで注射をして貰う。自分で注射すると、癖になるので困る。だから、面倒でも医者に来て貰う。」
 又、
「喘息っていうのは厄介な病気だよ。原因が判っきりしないのだそうだ。湿度の高いのは悪いらしい。だから、大陸に居た時の方が工合がよかった。或る花の咲く季節に発作が起るという説もある。花粉が、この病気を喚び起すのかな?」
 次第に注射の量が増えてゆくのに悩んでか、漢方薬を飲用し始めた。彼の机上に、理科室から運んだ小型の皿秤が置かれ、ハトロン紙に包まれた薬が置かれる。その薬を皿秤にのせて、じっと量を計って居る彼の姿は痛々しい眺めであった。薬の包紙に彼が書き附けて、私に見せた歌。
 わが生命短かしと思い町ゆけば物ことごとく美しきかな
山口比男、同上



 総督府立中学校の名の通り、後には、京中、城大(京城帝国大学)コースがわれわれの二、三年前は無試験であった。出世就職を約束されたようなふんいきもあり、われわれは正に異端者であった。その異端者を暖く包んでくれたのは、松林の丘あり、谷ありの裏山であった。(中略)
 成績順に組を編成したので、一番の敦は、いつも、一組のトップだった。二番が、二組のトップ、三番、三組の級長、四番が、四組の級長、五番が、四組の副、と逆に行って、八番が、一組の次席、九番が三席、と云う振りわけだから、成績次第ではどの組にふっ飛ばされるかわからない、われわれの運命であったが、敦だけは、いつも、イの一番で変ることがなかった。
 三年、四年になると、先生は、敦の質問にたじたじとなることが多かった。漢文は、三年は、内野健児先生、四年の時は、瀬木孝太郎先生であった。内野先生は、いつも謝ったので、ことなくけりがついたが、瀬木先生は東洋大学の教授から来られた七十近い人だったので、又、ウンチクを傾けて、云いかえしたが、翌日、敦のひっさげて来た文書を示されて、カブトをぬぐと云う光景がちょいちょいあった。
 敦のお父さんは、龍山中学の漢文の先生だと云うことだった。しかも、叔父さんに偉い漢学者がいたと云うことだから、書庫には、われわれが眼にすることが出来ない本が山積みされていたことだろう。もっとも、私など、その環境にいたって、猫に小判であったろうが、敦はフルに生かしたと云うべきだろう。
湯浅克衛「敦と私」
昭和35年6月



 戦争が始る何年か前に一度、中島敦に会ったことがある。それが何故だったか、銀座裏の、今はその場所にはなくなった「門」という喫茶店で、氷上英廣氏にそこで中島敦に引き合された。まだ何も書いたものは発表していなかった頃で、横浜の学校で英語の先生をしているということだったから、話が自然、英国の文学のことになったが、こっちは丁度、興味が英国の文学からフランス文学に移り掛けていた時だったので、話題を転じる積りで中島敦に向ってこともあろうに、支那の詩のことを言い始めた。相手が中島さんという文学志望の、如何にも精悍な感じがする若い英語の先生だということしか、こっちの頭にはなかったのである。併し中島はそれにいやな顔もしないで乗って来て、杜甫は始終、泣いてばかりいるようで余り好きでないということなど、色々と気軽に話して聞かせた。併し杜甫にいい詩があるという例に、「単于秋色トトモニ来ル」という美しい句を示して、それだけは今でもはっきり覚えているが、その句が杜甫の何という詩に出て来るのか、又、原文ではどう書くのかも、まだ解らないままでいる。
吉田健一「中島敦」
昭和39年6月

一高時代 昭和12,13年頃 年代未詳



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