武者小路実篤 【むしゃのこうじ・さねあつ】

小説家、劇作家、随筆家。明治18年5月12日〜昭和51年4月9日。東京麹町区元園町に生まれる。明治39年、東京帝大哲学科に入学。明治43年、志賀直哉らと「白樺」を創刊。「お目出たき人」(明治44)や「世間知らず」(大正元)など、エゴイズムを大胆に肯定した作品により、新進作家としての地歩を確立。その平明にして躍動的な文体は、後世に大きな影響を与えた。また、「人間万歳」(大正11)など、戯曲も多く発表する。大正7年、理想的な調和社会の実現を目指し、宮崎県児湯郡木城町に「新しき村」を建設。昭和初期はプロレタリア文学運動に押され、不遇の時代を迎えたが、偉人の伝記や画業に精進した。戦後、「真理先生」(昭和24)により文壇に復帰。晩年には、自伝「一人の男」(昭和43〜45)を完成させた。昭和51年4月9日、死去。享年90歳。代表作は「お目出たき人」「友情」「或る男」「人間万歳」「真理先生」など。

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武者小路実篤@近現代日本文学史年表



著作目録

*制作未定*


回想録

 元来武者は酒が嫌ひであるから、従つて菓子は大変好きだ。どこに行つても菓子が出るなり直ぐ第一につまむのは武者だ。女中が菓子皿をそこに置くか置かないに、もう武者は頬張つてゐると云ふほどである。
 武者がまだ番町の私の家のすぐ近所に住つてゐた頃の事であつた。彼岸の牡丹餅か何かを下女に持たせてやると、武者はちょうど外出のため、玄関を出て二三間の処でその下女に邂つた。下女が武者の玄関に入るのを見定めると、その風呂敷包の中には牡丹餅が這入つてゐると直覚したかどうか、直ぐ引返して内へ帰つて来た。
 武者の奥さんが重箱を受取つて他の器へそれをうつさうとしてゐる所を見た武者はもう我慢がしきれなくなつた。奥さんが今お皿にとつて上げますからと云ふのもきかず、立つたまゝ幾つかを頬張つた。奥さんはきまり悪くほんとに嫌な方ねと云つた。
 喰べるだけ喰べると武者はまた帽子を頭に載せてさつさと出かけて行つてしまつた。
有島生馬「繊軟な身体と強い眼」
大正6年6月



 自分などはその言葉になれてゐたので虚心で読むことが出来たが、初めてその文字に接した人は大抵反感を呼起したやうである。しかしどんな反感を起した人でも、武者小路氏と面と会ふと彼を好きにならずにはゐられないだらうと思ふ。
 彼は実に優しい心をもつてゐる。彼は対手の言葉を、言葉からくる感じをよく理解する。対手の考へ方に反対の時は、暗示的に遠い所で彼は自分の本心を語る。
 彼は文字の上では傲慢だが、日常の生活では決してそうではない。彼はたかぶらない。他人に命令を下すさい、女中や他人を叱ることはない。彼は非常に忍耐が強い。
 そのくせ、彼は非常に神経が強い。彼はその苛々した一切のものを奥さん一人にたゝきつけるのだ。
 彼は非常におしやべりな時と、何も言はない時がある。親しい仲間にあつた時彼は雄弁家になる。知らない人に会つた時彼は寡言である。お世辞や世間話が出来ないからだ。
金子洋文「生ける武者小路実篤」
大正11年9月



 先生のお宅は小美術館と云つてもいゝ。三鷹へ移つてまもなく、鉄斎をしきりに買ひ集められた時期がある。それらの作品や、ヨーロッパから持参されたルオー、ピカソ、マチス等の作品に直接接しえられたし、中国日本の書画も次々集つてきて、私はお宅へ伺ふたびにそれらをみせて頂いた。先生の場合はものものしく飾つておくのでなく、部屋のあちこちに乱雑に放つておいてある。鉄斎の軸が部屋の片隅にころがつてゐたり、その傍に写生用の馬鈴薯とか草花がおいてあつたり、足のふみ場もないほどちらかし放題である。先生の仕事部屋がきちんと整理してあつたことを一度もみたことはない。
 先生は書画の贋物を買ふことがないかどうか、或るときおたづねしたが、先生曰く、「贋物でも自分よりすぐれてゐればいゝし、ほんものでも自分より以下ならダメだし、ま、どつちでもいゝものはいゝね」といふことであつた。私は何んとなく幸福な気がしたことを覚えてゐる。
亀井勝一郎「武者小路実篤と私」
昭和30年1月



河盛 武者さんの文章の影響は、大変なもんじゃありませんか。従来の日本の文体を変えたといっていいんじゃないでしょうか。
尾崎 まあそうですね。
河盛 「……という気がする」というのは、武者さんが始めたんでしょう。
尾崎 そうそう。それと「とても」と「およそ」。
河盛 ああそうですか。
尾崎 「とても」っていうのは、否定語のあれでしょう。それを肯定に使っちゃった。あれは武者さんから始まっていますね。「およそ」もそうですよ。
滝井 「こういう感じがする」というような言葉は「白樺」から流行って来た。それから「気分」というような言葉もそうですね。
河盛好蔵・滝井孝作・尾崎一雄・網野菊「武者小路実篤を偲ぶ」
昭和51年7月



武者君の顔のなかで特徴のあるのは眼だ。話し相手を一寸見詰めてゐると直ぐきまり悪るさうにそらされることが多い。それが、人の前に後暗いことがあるとか、秘密をもつてゐるとか云ふやうな人々とはまるで違ふ。相手をきまり悪く感じさせるに堪へないと云ふやうな、賢く、思ひやりある、親しい感じのものだ。もう一つ特徴のあるのはもの云ひだ。性急な、非常な早口で、相手の答へることまで、自分の想像でさきに云つてしまつたりする。例へば、「君、昨日某所へ行つた? 行かなかつた? あゝさう」と云ふ風だから、こつちで行つたとも行かなかつたとも答へるひまもない位だ。その性急には脳のはたらきの速さがある。そんなだから、何か話して聞いて貰ふやうな場合に、こつちで一言云ふと、右へも左へも一寸もずれてゐない、丁度その先へあたるやうな次の一言は武者君の方で云つてくれる。その先をこつちで云ふ。又向うで云ふと云ふやうに、竹みたいに一節づゝ真直にさきへ進むで行くから、手ツ取早くて、その上非常に愉快だ。
里見ク「武者小路君のユーモア」
大正6年6月



 たいていの人はその生涯のなかで、生活環境そのほかいろんな理由で変ってゆくね。学生時代気やすくしていたのが、大臣になったりして、がらっと変るなんてのがあるが、武者は変らない。「君子は豹変す」って言うから、変つた方がえらいのかも知れないし、……進歩がないのだね。うそ、飾り、気どり……どれもやらなかったな。生れたまま、どんな場合でも、天子様の前でも、赤ンぼの前でも変らなかったね。若い頃、トルストイの前に出たら、あのドモリがもう一層ひどくなったかも知れないが……。
 やった仕事としては、小説、戯曲、詩、エッセイ、講演もやったし、中年以後の絵――そのどれをとっても武者以外の何ものも出ない。新しき村の実践的な仕事にしてもだ。なんの経験もない畑仕事、ぶっつけ仕事。成功したかどうかわからない。が、とにかくどこからどこまで武者式なんだね。
里見ク「滅多にないほどの仕合せ」
昭和51年6月



 白樺の運動といふものを今から振返つて見ると、結局は武者一人の仕事といつてもいいやうに思ふ。武者はよく書いた。武者が一行も書かなかつたといふ事は十年百二十号の間に一号しかなかつた。対外的にもよく戦つた。武者がゐなかつたら「白樺の運動」と云はれるやうな運動はなかつたと思ふ。白樺といふ雑誌は勿論私達同人がゐて出来たものだが、運動といはれるやうになつたのは武者の仕事である。そして、私達がゐなかつたら、武者は矢張り誰れかと他の白樺を作つたらう。
志賀直哉「武者小路と私」
昭和36年7月



 武者小路実篤が絵を始めたのは私が奈良にゐて、武者も一年程来て住んだ事があり、その頃だから、もう三十五六年前の事になる。私はその時、これが文学や新しき村の仕事のやうに武者の一生の仕事になるとは思はなかつた。(中略)
 日本にゴッホを初めて紹介したのは武者だつた。日本は勿論、ヨーロッパでも一般的にはそれ程、知られてゐなかつたゴッホを武者はドイツ語の美術雑誌で発見し、私達に教へてくれた。当時の私達にはゴッホの絵は随分変つて見えた。それを武者は日本で最初に認めたのである。北欧のムンクなども変つた画家であるが、見出したのは矢張り武者だつた。
 このやうに武者は若い頃から色々な画家の画集を持つてゐたが、今も豪華な画集をよく買つて、久しぶりに訪ねる私に、それを見せてくれる。昔も今もさういふものに対する情熱が少しも変らないのに私は驚く。ところが不思議な事は武者の画はそれらの画から殆ど影響らしいものを受けない事である。よき刺激を受け、仕事のよき糧となつてゐる事は確かだが、技術的に顕はな影響は決して受けないのである。例外として、自画像にゴッホの「タンギー爺さん」を想はすものはあるが、これは点や線に先天的に共通なものを武者が持つてゐるからだと私は思つてゐる。
志賀直哉「武者小路の絵」
昭和38年5月



 武者小路さんは、前にも述べたが、良寛の名筆を所蔵され、六朝時代の鄭道昭の雲峰山碑全拓本も所蔵されて、その他の名筆もよく認めて居られたわけだが、平常習字はされない方かもしれない、と私は思つた。名筆の誰の影響もうけて居られないやうに、私は思つた。それは、武者小路さんの書は五十年も前の大正時代の書と近年の書とあまりかはらないやうで、生れつきの生得そのもので……。武者小路さんの絵も、また書と同じやうに誰の影響もうけて居られない、生れつきの生得まる出しの感じ、と私は思ふ。
 私は斯く考へると、武者小路さんの長年大量の著作も、初期と中期と後期と、際立つた変化は見られなかつた、と思ふ。今日どれを読んでも古くさい感じは左程にない。いきいきしたものが感じられる。
 また、絵も書も、私は余技とは見ず、武者小路さんは何にでも自分を打込んで仕事をされた人と、私は思ふ。
 人は、長年同じことをやつて居ると、倦怠を催すものだが、武者小路さんは著作と絵と書と、いろいろ手がけて、それぞれに打込んで居られるからそれで宜かつたと、私は思ふ。
滝井孝作「武者小路さんの絵と書など」
昭和51年6月



 氏が文芸評論家にあまりとりあげられなかった時代がある。「傑作を書かない大作家」として、よそよそしくされた。氏は、外界を素早くキャッチして作品にとりいれるたちではなし、他人に恐怖やショックを与えて息苦しくさせる方でもない。ときには、あまり「真理」好きのため、精神ボケしたかと考えられたりする。同じ作風を飽きずに繰り返しているので、進歩がとまったかと判断されることもある。鋭角にしても、鈍角にしても、角がなさすぎると、若い者は思いたがる。場当りで調子のいいことが言えないので、ますます問題にされない。だが、氏は、文学、芸術で勝負しようなどと身がまえないで、どだい人生の勝負をつけようとしない生れつきなのだから、無視されようと、誤解されようと、自分の好きなことだけやって、年をとられた。まめまめしく市民の揉めごとの間に入りこむ町長さんや市会議員ではなくて、「あのじいさんにも一と言話をかけておくか。まあ、いいだろう」と噂される村長さんとして、生きてきた。よっぽど性根がしっかりしていなければ、とても出来るわざではない。何も好きこのんで、そうするのではなく、自然にそうなっていたのだから、ありがたい人というより仕方がないのである。
武田泰淳「大きな坊ちゃん」
昭和51年6月



 とにかくやさしい――といってやさしいからといってベタベタするわけではなくて、なにしろ自然なんです。新しき村なんていらっしゃると、駄菓子を袋につめてそれを食べながら歩いたりして。先生自身は、武者小路家という昔はお公家さまで、お行儀よく先生自身はしこまれたと思うんですが、自分はそうしこまれたけど、新しき村なんかを創ってからは、多分、そういうものから脱皮したくて出たんではないかと思うんですけど。いろんな面で自由ということで、自由に勉強ができて、自由に生きていけるということで、村なんかをお創りになったんだと思いますけど。
 どんな先生でも、えらくなられると側に寄ると近寄りがたいもんですけど、先生は全くそうではなくて――といって先生がお世辞つかって話すわけではなくて、ただ自然に坐っていても、こちらもそんなに緊張しないでお話しができるんです。
橘秋帆「武者小路先生の想い出」
昭和51年7月



 けふ来た人のいふには武者さんのところへは案内も乞はずに出入する画商が何人もゐたさうだ。そして武者さんのかく画をそばから待つてゐてもつて行つてしまふさうだ。だから武者さんの傍につききりで頑張つてゐないと手に入らないさうだ。
 本当に欲しい人は遠慮してゐる。遠慮してゐる人の処へゆかず、押しの強い人のところへ画が行つてしまふのは不合理の事である。さういつてけふ来た人は嘆いたが、しかし画などといふものは一番ほしい人のところに結局納るものだからそれでもよいかもしれない。
 岸田劉生もそばに人がゐても画をかく邪魔にはならなかつたやうだが、武者さんは更に一向気が散らないらしい。(中略)武者さんは画商に坐りこまれて画をかいて渡すがそのどの絵をみてもだらしない画が出来ない。横坐りしたり寝そべつてゐるやうな画がない。これは大したことだと思ふ。誰にでも武者さんの真似は出来ない。一休さん仙高たりだつたら出来るかもしれない。
中川一政「武者さんの画」
昭和30年5月



 武者さんは、つきあいの広い人であった。武者さんを直接に知っている人々は、例外なく、「いい人」という印象をくずしていないと思う。武者さんの理想は、たしかに天衣無縫、八方破れであった。しかし、それに安んじ、いい気になっていたのではなく、「他の人が見たら滑稽かも知れませんが」という自覚がいつもあった。これは、「ひとさまに笑われないように」という生き方と正反対で、直接、間接にわたくしが武者さんから受けた影響といえば、これが一ばんである。りこうな人間が多すぎた。
中島健蔵「四月九日のこと」
昭和51年7月



 父は文章も絵も、かきあげるのが早いと言えは、実に早い。元気な時は原稿を取りにくる日を約束して、その朝に書くことも多かった。頼まれたテーマが「詩」か「死」だったか、とり違えて書き、一たん渡してから間違いとわかって、その場で書き直したこともあった。だから気楽にみえるが、一方では気が入ってなければ書けない。約束した次の日なら出来上っているだろうと原稿を取りにきた人が、「昨日なら書けたが今日は書けない」と言われて驚いていることもあった。書きたいことはあふれてくる思いから、いそいですくっているというような、どちらかというと、話す姿勢で書くようだ。それで、助詞をとばしたり、重複が多くなるということも、父の文章にはあらわれやすい一面をふくんでいたかと思う。書き直しをしないかというと、書きすての原稿用紙が山のように机のわきに投げ出されていく。しかし、それは下書きというのと、ちょっと違うようだ。同じように見える文章の原稿用紙が、いく枚もいく枚もある。途中で書きすてるのだが、初めから下書きとして、文をねって清書に至るというのでなく、いつも一本勝負のつもりで書くのである。
武者小路辰子「ほくろの呼鈴」
昭和58年11月



 また朝早く、父の寝床にもぐりこむのが、小さい時の楽しみの時間だった。寝ている父の脇に入りこんで、その大きな背中の影で丸くなっていると、あったかくって、本当に安全地帯にまもられているという感じがするのである。子供らしい苦手なこと、暗がりとか、こわい夢とか、子供同士のけんかとか、知らない大人のひととか、お小言とか、いろんな心配ごと(?)がみんな消えてしまって、その大きな背中のかげなら大安心なのだった。おまけに父はふざけん坊で、とても「面白い人」なのだった。口のはたに大きなほくろがあるのを「呼鈴」と称して「リーン」と言いながら押してみる。そうすると本当に面白いところを訪ねる感じだった。ひたいのしわをなでて「みみずが三本這い寄って……」など遊ぶと、本当にタコ入道のように口をとがらしてくれる。「海岸をずっと歩いていくと、タコが迷児になって泣いているんだ。うちへ来るかって言ったら、ついてきてね。それがタツコなんだ」などというおかしな話をしてくれるので、「ウソよ、ウソよ」と大さわぎになる。それでいて、またそんな変てこなお話を何べんでも聞きたくなるのだった。
武者小路辰子、同上



 この三、四年で、実篤は急速に耳が遠くなったが、補聴器は使わなかった。医者にかゝるのが嫌いで、薬も殆ど飲まない。無論、注射は「人間に針なんぞ刺す医者は野蛮人だ。」などと言って、余程のことでないとさせなかった。身体の調子が悪くなると、あの特徴のある頭をしきりに手でこする。半月位寝ることはあったが、これまではそれ程の大病はしなかった。入院は生れてから一度、死ぬ時だけであった。病気は、不思議に油絵を描いた後に多かった。懸腕直筆で書く、慣れた日本画や書と違い、ぎこちない手つきで描く油絵は、歳をとってからは余程根が要ったのであろう。
武者小路侃三郎「義父母の死と私」
昭和51年7月

大正7年 昭和17年頃 昭和39年11月


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