宮沢賢治 【みやざわ・けんじ】

詩人、児童文学者。明治29年8月27日〜昭和8年9月21日。岩手県花巻に生まれる。大正4年、盛岡高等農林学校に入学、短歌や散文の習作をはじめる。大正10年、稗貫農学校(現、花巻農業学校)の教諭となる。大正13年、詩集「春と修羅」を刊行。天文、地質、化学などの豊穣な語彙や、死をめぐる苦悶と鎮魂が渾然となった特異な作品世界を展開した。また同年には童話集「注文の多い料理店」(大正13)も刊行。説明的・教訓的な童話とは異質な、独自の童話群となっている。大正15年に農学校を退職し、独居自炊の農民生活をはじめ、稲作の施肥や改良品種を教えるなど、農民たちとの交流を深める。昭和8年9月21日、急性肺炎により死去。享年37歳。生前にはほとんど評価されなかったが、草野心平らの尽力により、死後になって全集が刊行され、評価を高めた。代表作は「春と修羅」「注文の多い料理店」「グスコーブドリの伝記」「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」など。

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著作目録

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小説 : 発表年順

覚書・その他 : 発表年順

単行本 : 発表年順



回想録

 この町の南端――並木の間の光とかぜの中の小屋こそ、宮沢先生の努力で生れ出た俗称『塚の根』肥料相談所であつた。
 去る十五日から一週間午前八時より午後四時まで、休む暇もなく続けざまに肥料の設計を行つたが日毎に人の増えるばかり、それに先生は次の場所も又次の場所も決まつてゐるので、やつとの事で今日、以前にお気の毒だつたひと達の清算に来られる事になつてゐたのであつた。(中略)
 先生の顔は朝は殊に清らかに、そしてほがらかだつた。
「もう十人余りもお待ちしてます」
 先生は敬虔な面持で、然も元気よく嬉しげに早池峰に向つて真直に歩き出された。
 百姓たちはみんな家の外に出て迎へた。
 煙草も喫はぬ先生は一々ていねいにお辞儀を終へるや、もう設計用紙を取出して、そして順番を譲り合つてゐる百姓達を迎へた。
「石鳥谷の人達はみんな質がいゝ」
 先生はいつか云はれた。そして又「河西(北上川)の人達は一帯に土地は瘠せてゐて農作には少しも油断がならないのです。こうした一面からも因襲的に村の人達の性質が培はれるのでせう」と。
 九時十時とすゝむにつれ、今日もまた人は増えて来た。仕事を分担して僕は土地の景況と前年度の栽培状況を調査、先生はその後を享けて今年度施用肥料の設計をやられるのだが、もとより教育の充分でない百姓達なのである。そんな人達が数人も一時に質問を飛ばしてくる。それをひとつ/\最も平易な言葉で、然も最も適切に順々と納得せしめる先生の頭脳の明快さは側にきいてゐても気持のいゝ位で全く不思議とでも云ふより他に例ふべき言葉がみつかりませんでした。
菊池信一「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」
昭和9年1月



 私が賢治さんと識つたのは丁度「注文の多い料理店」の装幀とさしゑをやることになつてから以後のことで、もう十年の余にもなりますが、その時送つて来た童話の原稿といふのを開いて見ると、標題に「注文の多い料理店」と認めてあつたので、これが童話の本の名かと思つて、一寸私はマゴ/\しましたが、とにかく中を読んで見るとあの通りなのに驚いたので、これならこの標題も却つて面白味があつていゝ、しかし「注文は多くないナ」と思つて居りましたが果して題が悪く?て、大ていの人は料理の本だと思つたといふ話――思ふやうに売れずに終ひましたが、売れなくては愉快でもあるまいのに後悔するでもなし、色気のない名なんかつけて後で頭かいてゐる賢治さんがとても私は好きでした。
菊池武雄「賢治さんを想ひ出す」
昭和9年1月



 賢治さんの山野逍遥は実に漂渺として果てしがなかつたやうです。庭さきでトマトの手入れする時や外へかぶつて出る時冠るつば広の麦藁帽子や防水のガウンは晴雨兼用でそのまゝ屈強の旅装、それにシヤープペンシルを首に吊り一握り大の粗末な手帳をポケツトに入れさへすればもう賢治さんの軌道は果てしなく拡がるのです。雨も風も夜も昼も問題ではないらしい。私が北福岡の山の街に下宿住ひしてゐる頃漂然やつて来られた時なども、夜通し山を歩いて来たらしく、さすがに服だけは何処かで乾かして来たらしかつたが、雨の中でスケツチをとつたその手帳は蒸しタオルのやうで、それを繰りながら、私に何か読んで聞かしてくれましたが、何しろ夜中のスケツチだから、字が縦横二重にも三重にも重なり合つてゐる訳で御当人もひつかゝつて読めなくなる。私が心配したら「いや大丈夫乾いてからよく見れば解りアンス」といつてその日は天気のよい日曜か何かだつたので十五分も居つたか、あとは彼の「夜風轟きひのきはみだれ」をいかにも朗らかに力強く歌つて、また次の山のコースに帰られたことがあります。
菊池武雄、同上



 現在の日本詩壇に天才がゐるとしたなら、私はその名誉ある「天才」は宮沢賢治だと言ひたい。世界の一流詩人に伍しても彼は断然異常な光りを放つてゐる。彼の存在は私に力を与へる。存在――それだけでも私にとつてはよろこびである。私が宮沢賢治についてもつてゐる知識は、詩集「春と修羅」童話集「注文の多い料理店」それに、吸ひ取紙や化学のケイ紙などに書いて寄越す彼の手紙、森佐一君から聞いた彼の日常生活、断片などに過ぎないのだが、異常なケンイン力で彼は私をひきつけるのである。「春と修羅」「注文の多い料理店」その後、銅鑼に発表した詩などについて、細密な批評を書きたいのではあるが、私の頭と生活はいま落着きを失つてゐる。それに、二つとも誰れかがもつて行つてゐる。私はいまは只、世間では殆んど無名に近い一人のすばらしい詩人の存在を大声で叫びたいのである。文壇の新感覚派の諸君は、諸君の先導を務めてゐる。「春と修羅」一巻に習ふべき多くのものをもつてゐる事を私は告げたい。詩壇で第四次元をいふ人は、そのいい手本として「春と修羅」一巻を備へるべきです。童話界に於いても、最近日本でのすばらしい収獲として、「注文の多い料理店」を一読する必要があります。
 今後彼はどんな仕事をして行くか、恐るべき彼の未来を想ふのは私にとつて恐ろしいよろこびである。
草野心平「三人」
大正15年8月



 香ばしくない成績で、大正三年盛岡中学を卒業した賢治さんは、病後の為一箇年休んで、大正四年、今度は一番の成績をもつて盛岡高等農林学校に入学しました。中学時代と全く変つて、人を馬鹿にしたやうな風もなく、態度も謹厳で、級友からは「宮沢君はどの点から見ても常識の円満な模範的な生徒で、その上学生には珍らしく宗教方面にも熱心である。」と敬慕され、入学から卒業まで、通して特待性であり級長であつて、級友の良い世話役でありました。
 或る時家人が、
「何して中学校であんなに暴れたのか。」
 と聞きますと、
「そんだつてあの頃は中学校だけで了らされるのかと思つたし、そんなら勉強したつてつまらないと思つてたゞ義務的にやつてゐたのす。」
 と答へました。
 賢治さんは花卉及び果樹に非常な興味を持つてゐたので、自分で望んでゐたことを勉強させて貰へることになつたため、学科に非常な興味を起したのです。
佐藤隆房「宮沢賢治」
昭和17年9月



 或る晩八時頃か、街の方から学校に用事があつて帰つて来た、学校道路の両側は麦畑である、麦は背丈位に伸びて、真夏の青白い光りを浴びつゝ、涼しい風に、重い穂頭が手招ぎをするかのやうに柔かく揺いでゐた、此の情景を見た瞬間に宮沢君の心は動いたのか、突然両手を高くかゝげ、脱兎の如く走り、月光を浴びてゐる麦畑の中に身を躍らした、両手を左右水平に動かし、畦の間を抜手のやうな格好して、向ふに飛んで行つた、直ぐに戻つて来た、又向ふに泳ぐやうにして走つて行つた、こんなことを数回繰り返して深い吐息をしながら元の道に戻つて来たからその訳を問ふた、答は簡単である、銀の波を泳いで来ましたといふ、洒々然たるものである。
白藤慈秀「宮沢賢治の生活諸相」
昭和14年9月



 宮沢さんあなたは家庭問題について考へたことはありませんか、考へたことはない、他人から妻帯をすゝめられた場合はどうしますか、僕は妻帯するやうな人間に見えますか、妻帯は人倫の常道ですよといふても怪訝な顔をして呆れてゐるやうであつた、而して僕はどんな妻をお世話してくれても貰ひません、又仮に家庭をつくつたとしても三日間も同居して居れませんよ、何故ですか、何故つて一言で答へると飽き易いからです、何故に飽き易いのですか、その理由は僕にも解りませんよ、ただ飽き易い性質だからと答へる外はありませんねと、一向に取りつく島もない返事であつた。
白藤慈秀、同上



 宮沢家の息子が筆耕などしていることが、わたしには不思議に思われたが、かれはいつかわたしにそのわけを話してくれた。法華経を信仰しているかれが、郷里で托鉢をしたことがあるが、かれのお父さんが非常にそれをきらつて、やめろといわれた。他のことと違つて、自分の信仰を妨げられるのは耐えられないことだつたので、家をとび出した。現在は妹と二人で間借り住居をしている。妹はよく自分を理解して助けてくれるので感謝しているとのことであつた。
 そのころのかれは袴を必ずつけていたが、帽子はかぶらなかつた。今でこそ無帽はあたりまえのことになつたが、当時、袴をつけて無帽というのは異様に感じられたものだ。その袴の紐にいつも小さい風呂敷包がぶらさがつていた。最初、わたしはそれを弁当かと思つていたが、童話の原稿だということだつた。もしこれが出版されたら、いまの日本の文壇を驚倒させるに十分なのだが、残念なことには自分の原稿を引きうけてくれる出版業者がいない。しかし自分は決して失望はしない。必ずその時が来るのを信じているなどと微笑をうかべながら語つていた。そういうときのかれの瞳はかがやき、気魄にあふれていた。
鈴木東民「筆耕のころの賢治」
昭和32年



 果実は好きでよく食べられた様です、が味覚を楽しむといふよりはあの果実の新鮮さにかぶりつくといふ様な食べ方をしました。
 昭和七年頃の秋の夜、上町通りでお逢ひしたらこれから東公園へ行きませうと云つて、果実店で色の良い林檎を五つばかり買はれました。そして公園のベンチに腰かけながら賢治氏は三つ私は二つ食べました。その夜は真に清涼水のしたたる様な気分のする夜で、高い空には、星と星とがぶつつかつては火花を散らしてゐる夜でした。天文学にも明るい人ですから星の話も随分聴きましたが、今は良く覚えて居りません。唯そうゆうさわやかな秋の夜に、皮のままの大きな林檎を忽ちの内に三つも食べ終えた賢治氏の食欲に、少し驚きの眼を見張つたことが今だに忘れられません。私が二箇を食べたのは賢治氏に刺激されてのことだつたと思ひます。
関登久也「賢治素描」
昭和15年3月〜昭和16年1月



 賢治氏は現代詩人の詩は余す所なく読みました。白秋、惣之助、朔太郎は勿論のこと米次郎も、有明も、藤村も皆んな一通りは読まれました。賢治氏とて現代の中に呼吸してゐるのですから、此の有名な一家を成した詩人の詩からそれ相当の影響は受けない訳はありません。しかし賢治氏の詩嚢はなか/\消化力があるのですからいづれの詩人の詩も安全に消化しきつて、ことごとく独自の賢治氏の詩貌風韻になり変つたことは申すまでもありません。賢治氏は、詩作の場合は自分の周囲からあらゆる詩集をとりのぞくのがほんとうだと申して居りましたが、この言葉は必ずしも机辺から詩書を取りのぞくのではなくて、何人の詩風もまねるべきではなく全く独自の立場によつて詩作すべきだといふのが、その言葉のほんとうの意味だと思ひます。賢治氏は生前口癖に、といつても五六度位のものでせうが、白秋は偉いと申して居りました。白秋はたしかに偉大だと申して居りました。
関登久也、同上



 ★本や写真を戴く
 或晩先生の宅から電話で私と菊池君を呼んだ事がある。何事であらうと思ひ二人は早速出かけた。
 先生は一人二階におられ私等の来るのを待つて居つた。そして早速色々な御馳走をして下さつた。「お前達は近いうちにはお嫁さんを迎へる事であらうが、決して女学校を卒業した者を迎へてはだめだぞ。必ず農家に生れた農業にしたしむ体の丈夫な者を嫁として迎へよ」と云はれて有難く拝聴した。そして先生は自分の写真を出してそれにサインし又「春と修羅」の詩集や又「注文の多い料理店」などの本を呉れて下さつた事がある。時は大正十三年の三月二十八日の夜であつた。
 ★夜更けにお経
 先生は法華経信者であつた。
 私等宿舎の床につかんとして居る時、校舎の廊下からお経を唱へがん/\と校舎にひゞかす事が度々あつた。又讃美歌などを歌ふ事もあつた。それは自分の作つた詩などを書き直して頭のつかれた時には必づやるのであつた。そして又夜更けまでも、頭の近くまで電燈を下して書くのであつた。
平来作「ありし日の思ひ出」
昭和10年8月



 又、先生は女性及び性欲の方面において禁断主義を実行され、「俺はトルストイ以上の仕事をしてゐるのだ」と申されたり、「山を東から西にも、西から東にもうつす力があるんだ」と申された事もあり、「仕事をなすにはどうしても性欲を節して行くより道がない」と申され、その事を実行された方であります。その事に関連して、某一女性が先生にすつかり惚れ込んで、夜となく、昼となく訪ねて来たことがありました。その女の人は仲々かしこい気の勝つた方でしたが、この人を最初に先生のところに連れて行つたのが私であり、自分も充分にその責任を感じてゐるのですが、或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、台所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依頼に数人の百姓たちが来て、料理や家事のことをしてゐるその女の人を見てびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで乱調子にオルガンをぶか/\弾くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、昼はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。
 先生はこの人の事で非常に苦しまれ、或る時は顔に灰を塗つて面会した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。又、その頃私がおうかがひした時、真赤な顔をして目を泣きはらして居られ「すみませんが今日はこのまゝ帰つて下さい。」と言はれた事もありました。
高橋慶吾「賢治先生」
昭和14年11月



 宮沢賢治が同じ昭和八年の九月に寂しく死んで行ったことを、当時私は知らなかった。宮沢賢治という詩人の名も私は知らなかった。私ひとりが知らなかったのではなくて、宮沢賢治はごく少数の間に天才詩人として知られていただけで、一般には無名の人だったのであり、無名の詩人として死んだのである。
 宮沢賢治が今日、詩神のごとくに渇仰されるようになったのは、もとより宮沢賢治そのひとのすぐれた業績の故であることは言うまでもないが、生前無名の詩人であった頃から、その稀有の詩才と篤実な人格を認め、不当な不遇のうちに宮沢賢治が死んだのち、その顕彰に不屈の努力を傾けた草野心平の功も無視できないのである。いや、草野心平の努力が無かったならば、あるいはそのまま湮滅してしまうという悲運に会っていたかもしれないと、そう思うのである。(中略)
 私が草野心平に初めて会ったのは、新橋のコップ酒屋でのことであったが、ちょうど宮沢賢治の歿後一年ほどの頃で、草野心平は私にしきりと宮沢賢治のことを言っていた。宮沢賢治というものを私が知ったのは、酔った草野心平から、まるでからまれるみたいにして宮沢賢治礼讃を聞かされたこのときが、初めてなのであった。そうした草野心平の努力によって間もなく、宮沢賢治全集三巻が文圃堂から出版された。文圃堂というのは、その頃の『文学界』の発行所で、パトロン的発行者の野々上慶一が、あまり売れそうもないその全集を犠牲的に出版したのは、その頃の『文学界』の同人だった横光利一の推輓によるものと私は伝え聞いたが、全集の出たときの草野心平の喜び方と言ったら無かった。その最初の全集は、しかし、売れ行きは甚だ芳しからざるものだったらしく、『文学界』の原稿料の未払いを、あるとき私が野々上慶一に請求したら、
「宮沢賢治の本で、カンベンしてくれないか。えらく返ってきた」
 と頭を掻きかき、彼は言った。
高見順「昭和文学盛衰史」
昭和33年3、11月



 宮沢賢治といふ人は何処の人だか、年がいくつなのだか、何をしてゐる人なのだか、私はまるで知らない。しかし私は偶然にも近頃、その人の『春と修羅』といふ詩集を手にした。
 近頃珍しい詩集だ――私は勿論詩人でもなければ、批評家でもないが――私の鑑賞眼程度は、若し諸君が私の言葉に促されてこの詩集を手にせられるなら直ちにわかる筈だ。
 私は由来気まぐれで、甚だ好奇心に富んでゐる。しかし、本物とニセ物の区別位は出来る自信はある。私はいまこの詩集から沢山のコーテーションをやりたい欲望があるが、「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)――」といふのが文中の始まりの文句なのだが、この詩人はまつたく特異な個性の持主だ。(中略)
 原始林の匂ひがプンプンする。真夜中の火山口から永遠の氷霧にまきこまれて、アビズマルな心象がしきりに諸々の星座を物色してゐる。――ナモサダルマプフンダリカサス――トラのりふれんが時々きこえてくる。
 それには珍らしい東北の訛がある。――それは詩人の「無声慟哭」だ。
 屈折率、くらかけの雪、丘の幻惑、カーバイト倉庫、コバルト山地、霧とマッチ、電線工夫、サマニエロ、栗鼠と色鉛筆、オホーツク挽歌、風景とオルゴール、第四梯形、溶岩流、冬と銀河鉄道、エトセトラ。
 若し私がこの夏アルプスヘでも出かけるなら私は『ツァラトゥストラ』を忘れても『春と修羅』を携へることを必ず忘れはしないだらう。
辻潤「惰眠洞妄語」
大正13年7月



 三月末の田舎は辺りは森として眠つてゐるやうでした。人通りがある訳ぢやなし、ほんとに淋しい道中でありました。しばらくの間沈黙の時が流れました。何を思つたか先生は、道路側の竹藪の中をガサ/\/\、ガサ/\、ほうー、ほうー、と透き通つた声で叫ぶのです。全く狂気沙汰の振舞なのですが、先生は真摯でした。寂として声のなかつた辺りは、急にどよめき出して、野の精が一度に乗りうつつた情景なのです。
「あアツ! あの音! あの色!」感受性の鋭敏な先生は、音色にさまざまの姿を連想されて何か口ごもつてゐたやうでした。尚も「ほうー ほうー」と呼びかける声。何を呼び、何と語らうとしてゐるのでせう! 自然と我との合一の世界に遊び狂じていらつしやる姿なのでした。
 稍しばらくして、先生はいと満足した様子で、元の道路に帰られて、
「おれと一緒に歩いて、おまへさんも、おもしれつか?」
照井謹二郎「宮沢賢治先生」
昭和14年9月



 宮沢賢治全集第一回配本が出た。死んだ宮沢は、自分が死ねば全集が出ると、果して予測してゐたであらうか。
 私にはこれら彼の作品が、大正十三年頃、つまり「春と修羅」が出た頃に認められなかつたといふことは、むしろ不思議である。私がこの本を初めて知つたのは大正十四年の暮であつたかその翌年の初めであつたか、とまれ寒い頃であつた。由来この書は私の愛読書となつた。何冊か買つて、友人の所へ持つて行つたのであつた。
 彼の認められること余りに遅かつたのは、広告不充分のためであらうか。彼が東京に住んでゐなかつたためであらうか。詩人として以外に、職業、つまり教職にあつたためであらうか。所謂文壇交遊がなかつたためであらうか。それともそれ等の事情の取合せに因つてであらうか。多分その何れかであり又、何れかの取合せの故でもあらう。要するに不思議な運命のそれ自体単純にして、それを織成す無限に複雑な因子の離合の間に、今や我々に既に分つたことは、宮沢賢治は死後間もなく認めらるるに至つたといふことである。
中原中也「宮沢賢治全集」
昭和10年4月



 彼は常に話してゐた。といふよりは僕に訓へてくれた。「性欲の乱費は君自殺だよ、いゝ仕事は出来ないよ。瞳だけでいゝぢやないか、触れて見なくたつていゝよ。性愛の墓場まで行かなくともいゝよ」「おれは、たまらなくなると野原へ飛び出すよ、雲にだつて女性はゐるよ、一瞬の微笑みだけでいゝんだ。底まで酌み干さなくともいゝんだ。香をかいだだけで後は創り出すんだな」と諭へてくれた。「花は手折るんぢやないよ、現生を握らない中は承知しない様では芸術家の部類にはいらんよ。君、風だつて甘い言葉をかけてくれるよ。さあ行かう」と誘つてくれるのであつた。
藤原草郎「宮沢賢治と女性」
昭和16年8月



 昭和三年の頃、彼が結婚話を自分から持出して興じてゐたことがある。「さうだな、新鮮な野の朝の食卓にだな霜の様に降りて来て、挨拶を取りかはし、一碗の給仕をしてくれて、すっと消え去り、又翌朝やつて来るといつた様な女性なら結婚してもいゝな」「時にはおれのセロの調子外れをなほしてくれたり、童話や詩を聴いてくれたり、レコードの全楽章を辛抱強くかけてくれたりするんなら申分ないがな」などと彼の童話や詩を僕が聴かさせられてゐるのでもあつた。(中略)
 大島では、肺病む伊藤七雄氏のため、農民学校設立の相談相手になつたり、庭園設計の指導をしたりした。その時ここで病気の兄を看護してゐた伊藤チエ子といふ女性にひどく魅せられたことがあつた。「あぶなかつた。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかったがね。おれは結婚するとすればあの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。この女性は現在東京府下で療養中であるが、水沢の豪家育ちで、盛岡高女出身の聡明な女性で、音楽にも詩にも美術にもすぐれた才能を持つてゐる人である。当時はがつちりした体躯に強力な実践力を持つた純情の女性であつた。
藤原草郎、同上



 越えて大正十年十二月 稗貫郡農学校(現在花巻農学校)に教鞭をとられる様になり私は此の時より御交際を願つたのである。
 透徹せる頭脳と高潔なる人格とは忽ち生徒等を信服せしめずにおかなかつた。地方人の信望また頗る厚くどんな乱暴な人でも悪性の人でも宮沢さんに頭を下げぬ人はなかつたのである。
 宮沢さんは人に接するどんな身分の低い人にも敬虔な態度であり善を愛し、悪を憎む事強く、人に寛に己に厳に身を持せられた。服装などは少しも意にせられず、洋服は古いもの、靴はゴム靴と定つてゐた、色や柄や質は問題でない只良く整ふて居れば足りると云ふのが持論であつた。給料は書籍代となり貧しき人々への慰籍として姿を消して行くのであつた。
 学校では稲作を受持たれて肥料的立場から地方各地を巡回せられて懇切叮寧に地方民を指導せられた。が為地方農村では無くてはならぬ人となられたのである。文芸、音楽にも此の頃から特に勉強せられ学校の精神歌や、農民劇を公表せられ、殊に農民劇は地方の実際を諷刺教訓的に仕組んだもので非常な人気を博せられた。
 大正十五年三月、学校を辞されて一層農民の相談相手となられるべく、又筆の人として文芸の道に進むべく決意なされて、町端れの一軒家に立籠り「オルガン」「蓄音器」各々一台宛備へられて雄々しく立たれた。花卉栽培花壇設計等に試みられ元々専門ではなかつたが秀れた頭脳は何事も人並以上の出来栄を見せてゐた。
堀籠文之進「宮沢さんを憶ふ」
昭和8年12月



 それは何時頃の事だつたかはつきりしないが確か賢さんのおばあさんのなくなられた時の事だつたと思ふ。賢さんは一生懸命おばあさんの為にお経をあげて居られた。後で聞いたらその晩は徹夜して一晩中お経を読み通されたとの事だつた。
 またそれは妹のとし子さんのなくなられた時の事である。(確か私が小学校の四年か五年生の頃だつたと思ふ)としさんは目白の女子大学を一番で卒業され殊に在学中家政科に学びながら英語の検定試験にパスした程の素晴らしい秀才だつた。私の記憶に存する限りではとしさんはやさしい方で何時までも側について居たい程親しみ深い方だつた。そして理性的に洗錬された女性にのみ特有のあのすつきりとした清楚さと物分りのよい素直さとがたとへ様もない上品さと奥ゆかしさとをとしさんの身にそなへしめて居つた。私は詩集「春と修羅」中好んで「無声慟哭」「オホーツク挽歌」を読む。そして読む度何時も胸がグツと熱くなる感激を覚える事なしにそれを読み終る事は殆んどない。そのとしさんの亡なられた時には、賢さんは出家する事を主張して止まなかつたさうである。(それは結局は実現されなかつた)
宮沢幸三郎「スーヴェニール」
昭和10年4月



 賢さんは語学的にも天才であつた。それは詩集の随所に鋭く閃き出て居る、英語なんかは相当自信があつたらしい。エスペラント語も随分研究された様である。更に賢さんはドイツ語を独学で勉強し出したのである。(高等農林で初歩的におそはつたとの意見もあるが私の記憶では全くの独学だつたと覚えてる)そのドイツ語もゲーテやハイネなどの本も読んで居られた様だから相当のものだつたらしい。
 賢さんがそうした独学のドイツ語を以つて本当のドイツ人と鮮やかに会話をしてのけたと云ふ話などは小さい私達をして全く心から驚嘆せしめたものである。
宮沢幸三郎、同上



 ……手っ取り早く言ってみれば、その年の正月に二十六歳だった兄は、念仏とお題目のことについて、父と激しく話し合った後で、いきなり東京へ逃げたのだ。東京へ着いたら六銭余ったので、二度ほど豆腐をたべ、三日仕事をさがし、一回卒倒したということだ。
 それから本郷の菊坂町では、芋と豆腐と油揚げを毎日食べて、筆耕もやったし辻説教もやり、童話もうんと書いたと言う。
 一ヶ月に三千枚も書いたときには、原稿用紙から字が飛び出して、そこらあたりを飛びまわったもんだと話したこともある程だから、七ヶ月もそんなことをしている中には、原稿も随分増えたに相違ない。だから電報が来て帰宅するときに、あんなに巨きなトランクを買わねばならなかったのであろう。
 さて、そのトランクを二人で、代りがわりにぶらさげて家へ帰ったとき、姉の病気もそれほどでなかったので、「今度はこんなものを書いて来たんじゃあ」と言いながら、そのトランクを開けたのだ。
 それがいま残っているイーハトーヴォ童話集、花鳥童話や民譚集、村童スケッチその他全集三・四・五巻の大部分に、その後自分で投げすてた、童話などの不思議な作品群の一団だった。
宮沢清六「兄のトランク」
昭和16年1月



 大正七年頃に私共は始めて従兄のところで洋楽のレコードを聞いたが、兄はそのとき、永い間沙漠旅行で渇していたものが水をむさぼり飲むとでもいう風に見えた。いまでもそれらのレコードがなつかしく思い出されるのだが、それは「シエエラザード」や「レオノーレ」や「エグモント」のような曲のバラもの十枚位で、その後間もなくベートーヴェンの「第四交響曲」とチャイコースキーの「第四交響曲」とハイドンの弦楽四重奏曲「雲雀」などの一部分ずつが手に入った。
 それらが解説書も付かないで私共を訪れたとき、『こいつは何だ。しかしこれは大変なもんだ』…(Beethoven. Symphony. No. 4. Lndwov)とか、『此の作曲者は実にあきれたことをやるじゃないか。』…(Tschaikowsky. Symphony No.4. 4thwov.)とか。『べートーヴェンときたら、ここのところをこんな風にやるもんだ。』などと言いながら、蓄音機のラッパの中に頭を突っ込むようにしながら、旋律の流れにつれて首を動かしたり手を振ったり、踊りはねたりした兄がいまも見えるようだ。(中略)
 やがてしっかりした解説書といっしょに英国盤の「月光」や「運命」の組物が入って来たときの兄の歓びは大したもので、『この大空からいちめんに降りそそぐ億千の光の征矢はどうだ。』『繰り返し繰り返し我らを訪れる運命の表現の素晴らしさ。おれも是非共こういうものを書かねばならない。』と言いながら書き出したのが「春と修羅」である。つまり此のころ兄の書いた詩は、作曲家が音譜でやるように言葉によってそれをやり、奥にひそむものを交響曲的に現わし度いと思ったのであろう。
宮沢清六「兄とレコード」
昭和29年5月



 そうした片々にのぞかれる花巻人は、確かに天才的なものを多分に持つてをります。かうした花巻人の中にあつて、宮沢先生一家及び御親戚は、最も天才的、秀才的人物の多いお家であります。花巻では『宮沢まき』と呼んでをります。
『某々はとても出来るんだつて』
 と云ふと、
『あたりまへさ、あの人ア宮沢まきだもの』と云ふ様な具合で、秀才イコール宮沢一家、宮沢一家イコール秀才と云ふ様な訳でした。『永訣の朝』にある、宮沢先生の令妹敏子さんなどは、まことに驚異に値する頭脳の持主だつた相で、妹達の語り草の一になつてをります。
 要するに宮沢先生の一族は、精神的にも物質的にも、花巻を壟断する一大勢力であることは事実でせう。
八重樫祈美子「花巻・人と町のプロフイル」
昭和10年11月

盛岡高農時代 大正15年3月 昭和5年10月



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