三島由紀夫 【みしま・ゆきお】
小説家、劇作家。本名、平岡公威。大正14年1月14日〜昭和45年11月25日。東京市四谷区永住町に生まれる。学習院中等科時代に「花ざかりの森」(昭和16)を発表し、早熟の才をみせる。昭和19年、東京帝大法学部に入学。戦後、同性愛を題材とした「仮面の告白」(昭和24年)が絶賛を受け、新進作家としての地歩を確立。日本の文学者としては珍しい、論理的で明晰な文体を用いた。昭和27年にギリシアを訪れ、古典主義や様式美への希求が生まれる。昭和30年頃よりボディビルを始め、昭和31年には傑作の誉れ高い「金閣寺」を発表する。また、「鹿鳴館」(昭和31)、「サド侯爵夫人」(昭和40)など、劇作家としても非凡な才を発揮した。昭和45年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地において、自衛隊の決起を促したが果たさず、割腹自殺。享年45歳。代表作は「仮面の告白」、「金閣寺」、「憂国」、「サド侯爵夫人」、「豊饒の海」など。
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著作目録
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回想録
氏はときどき自作の舞台に端役で出た。「鹿鳴館」では舞踏場の飾り付けの職人、修辞を担当した「ブリタニキュス」ではローマの兵士、脚色をした「黒蜥蜴」ではホテルのボーイという風に、ほとんどせりふのない役を初日だけ、たまには千秋楽にも演じた。
自分の芝居を内側から覗いて見たいという好奇心もあったのだろうが、扮装したり演技したりすることを氏が愉しんでいたことは確かで、その愉しみは、後で同じ場面に出ていた役者たちと互にさんざん悪口を言い合うという罪のない愉しみと対をなしていた。舞台に出て来ると、氏は緊張のあまり、短い登場時間中に必ず一度、飛んだへまをする。皆が廻れ右をしているのに廻れ左をしてしまったり、一つおじぎをすればいい所を二つしてしまったりする。それが種になって、氏が引き揚げて来た楽屋はたちまち蜂の巣をつついたような陽気な悪口学校と化するのだった。氏は後には役者というものにほとほと愛想を尽かしたらしい形跡があるが、少くとも「近代能楽集」を書きはじめた昭和二十五年頃から十一、二年ほどの間は、若い役者たちと気楽に遊べる稽古場や劇場は、氏にとって一種の息抜きの場でもあっただろうという気がする。
芥川比呂志「稽古場の三島由紀夫氏」
昭和48年4月
すばらしい対話の名手だった。ということは、俗説に反して彼が弁証法的な人格の持主だったということでもある。相当な鼻っ柱だったが、ただの鼻っ柱ではない。話し上手だったのと同程度に、聞き上手でもあったということだ。ぼくは一時期、雑誌などの対談の相手は、もっぱら三島君と決めていたほどである。彼の死後、対談相手に困り、ついには対談そのものが嫌になってしまった。あらためて友を喪った実感を深くする。
ふと思う。ぼくらには案外根深い共通項があったのかもしれない。文学的にも思想的にも違っていたし、日常の趣味も違っていた。ぼくがカメラ・マニヤなら、彼は時計マニヤだった。ぼくが大の蟹好きなら、彼は大の蟹嫌いだった。しかし、ある種の存在(もしくは現象)に対する嫌悪感では、完全に一致していたように思う。いつか銀座のバーで飲んでいたとき、とつぜん二人で同時に立上ってしまったことがある。同時にトイレに駈込もうとしたのだ。理由に気付いて、大笑いになった。某評論家が入って来たところだった。
安部公房「反政治的な、あまりに反政治的な……」
昭和51年1月
翌日、ジムでの氏の緊張ぶりは痛ましいほどで、初めてつけられたヘッドギアに心から満足の微笑の後、神経質に何度もかぶり具合を直し、グラブをはめた後も尚それを気にしてグラブでさわり、グラブ自身のはまり具合も気になるのか、ます/\青ざめた顔で何度となく小ぜわしく膝やポールを叩いてならそうとしている様子は、ゴングが鳴る前に緊張の余りスパーリング用のエネルギーを費い果してしまうのではないかと案じられるほどだった。
やがてゴングが鳴り学生たちの見守るなかでスパーは始ったが、三島氏の二倍半ほども太った小島氏とて、そこは馴れたものでそう簡単に打たれたりはしない。加減しいしいだろうが、時々カウンター気味のパンチが三島氏を捉える。見守る私は仕舞いに、ジムの中で三島氏の唯一の介添えの心境で、
「そこでフック、フックを打て」
とセコンドリングしたものだが、ゴングでコーナーに帰って来た三島氏に、
「なんでストレートばかり出さずにフックを出さないんですか。フックを出しゃもっと当たるのに」
いった私へ、氏は喘ぎながらも凛とした声で、
「フックはまだ習ってはいない」
といったものだった。
その後拳闘は、氏が真面目すぎるためにダメイジが多すぎ、その危険を悟ってか三島氏は剣道へ転じた。
石原慎太郎「緊張の中の三島由紀夫」
昭和50年10月
わが文壇の業界用語によると、主人公が一人歩きをはじめたらその作品は成功だという定言がある。(中略)
「私は認めないな。開高君。それは小説家にとつて許しがたい怠慢、堕落だ。そんなことは認められない。私は最後の一行がきまつてからでないと書きだせないし、そのままで進めるんだ。主人公の一人歩きなんか許しません」
彼は峻烈な声をだしてそういつた。
しばらく考えてから私は、それは小説ではなくてドラマの書きかたではないだろうか、という意見を口にした。すると彼は、ふいに微笑してうなずいた。
「そのとおりだ。そのとおりだよ。芝居の書きかたなんだ。私は小説家じやなくて、プレイライトだよ。プレイライトなんだ」
開高健「一個の完璧な無駄」
昭和46年2月
間もなく三島君は大蔵省を退いて作家生活に入った。
代表作「仮面の告白」を発表する半年ほど前の日曜日の午後、私の家にやってきた。私と同じ町内に住むある心理学者を訪ねた帰りだったという。そのとき、私は初めて三島君の倒錯性向を聞かされたのだった。心理学者を訪れたのも、それについて意見を訊きにいってきたのだということだった。私は、やっぱりそうだったのかと思い、格別の愕きもなかった。それまでにも三島君の言葉や手紙のはしばしから、それとなく感じていたからである。話はすぐワイルドやヴェルレエヌのことに移った。古今東西の男色文学について三島君がさんざん喋ったあげくの帰りがけに、私が、
「とにかくまあ、鴎外に比肩するくらい君の「ヴィタ・セクスアリス」を大いに期待するよ」
と言うと、三島君はそのモノメニアックな眸を輝かせて、「わかりますか」と振り向いた。
「わかりますとも、君、もう職業作家でしょう。度胸がすわったんでしょう。でなくてどうして心理学者のとこへわざわざ出向きます?」
「くやしいーッ」
例の奇声を上げ、しかし満足そうに両手を振った三島君は玄関を飛び出していった。
木村徳三「文芸編集者 その跫音」
昭和57年6月
「ケンドウをはじめたいんです」と、電話がかかってきた。いつにも増して堅い三島さんの声である。
「ケントウって、もうはじめておられるじゃないですか」
「ケントウ……いや、ボクシングじゃないんです。剣道です」
いつもの三島さんなら、私の聞き違いを、ただちにジョークにもっていって、ウワッワッワと笑声が返ってくるところだが、どうもそういう雰囲気ではない。
「なぜ、剣道を……」
「どうしても、です」
「それで……」
「もちろん、教えて貰いたいんです。そして、どこか、道場を……」と、なにか、木の枝を折るような語調で、「適当な、道場を紹介してくださいませんか」
以前からボクシングのジムに通ったり、いまはボディ・ビルに本格的にとり組んでいる。もう、それで結構じゃありませんか、いまさら、つらい剣道でもないでしょうと、喉まで出かかった言葉を、私は呑みこんだ。いつも、言葉づかいの丁寧な人ではあるが、それにしても、これは、ただごとではない……。
笹原金次郎「三島さんの剣道入門」
昭和49年1月
私達はバーの奥のテーブルに座ると、およそ「気難かしく」なさそうな君に小説を訳してもらう運びとなって嬉しい、分らないところがあればいつでも遠慮なく聞いてほしいと三島は言った。そこで私は、かねてより聞きたいと思っていた「午後の曳航」の第一章にある女主人公房子の描写で、何回読んでも意味が取れない次の一節のことをきいた。すなわち「時には……(中略)、熱に犯されたやうなうつろな目を鏡に向けて、……(中略)香りの高い指を、あちこちへ動かさずにゐることもあつた。」(傍点筆者)という個所である。すると突然ある興奮の色が三島の目に走った。「そこを何回読んでも分らなかったの、やっぱり!」と彼は我意を得たりという顔をした。「ええ、どうしても分りません。」と私が言うと、さらに自慢ではち切れそうになって三島は、「あそこのとこはね、日本人の読者にも分らないように書いちゃったけれども、彼女は
MASTURBATION をやっている!」と大声で叫ぶように言って、かの有名な哄笑をはなってしまったのだ。
ジョン・ネイスン「「午後の曳航」のころ」
昭和50年12月
私のはじめて逢った時の三島さんは青白くやせていて、紺絣の着物の裾と黒い足袋の間からのぞいている足首がとても細くて脛毛の鮮に濃いのが目につき、髭の剃りあとが、青い絵具ではいたような人であった。
私は三島さんのハイカラな新居の方は、ついに一度も伺ったことはないので、緑ヶ丘の三島さんの玄関脇のうす暗い古風な茶屋で逢ったその時の印象が、非常に鮮やかでなつかしい。部屋の薄明の中から、底の方に金色の炎を燃やしているような三島さんの瞳が大きく、見開かれていて、息をのむほどそれは美しかった。私は三島さんを一種の天才だと信じていた。それまでそういう瞳に出逢ったことはなかったので、これが天才の瞳かと、不躾けなほどまじまじその目に見入ったのを覚ている。
ボディビルをして以来の三島さんは、豪快な笑い声の外は、何から何まで変って見えた。瞳のあの美しさも、やせていらした時のような凄さはなくなっていたように思う。
瀬戸内晴美「十日の菊」
昭和50年6月
新井旅館に落ちつくと、私は他の三君に、携えていった「花ざかりの森」の原稿を廻し読みしてもらった。三君の読後感も、私の予想通りで、〈天才〉がわれわれの前に現われるべくして現われたことを祝福しあい、それを『文芸文化』九月号から連載することに一決した。
ただ、われわれの雑誌は片々たる小冊子ではあったが、校友会誌とはおのずから性格を異にし、読者圏も全国にひろがっていた。掲載するにしても、彼がまだ中学生の身であること、それに御両親の思わくなども考慮して、今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい――というのが、期せずして一致した同人の意向であった。筆名を用いて、この作品を雑誌に載せるについては、何よりも平岡君自身の承諾を得なければならぬ。そのためには筆名の試案のようなものを持っているのがよい。旅館の一室で、だれからともなく言い出したヒントは、「三島」であり「ゆき」であった。東海道線から修善寺へ通ずる電車に乗り換える駅が「三島」であり、そこから仰ぎ見たのが富士の秀峯であったことが、ごく自然にこの二語を選ばせたのであろう。それがその席で、「三島ゆきお」までは固まったと思うが、「三島由紀夫」まではゆかなかったと記憶する。ともあれ、交渉の使者には私が立つ外なかった。(中略)
どういう名前をと聞かれて、さきの試案(参考案といった方が私の気持にふさわしい)の経緯を一通り説明したうえで、「三島ゆきお」はどうかと、おそるおそる言ってみた。しばらく考えていたが、やがて持ち合せの紙片に〈三島由紀雄〉と書いて、「これはどうでしょう」と言った。私は字面から見て、「雄」は重すぎると思ったので、それを消して「夫」と改めて彼の手許に返した。「それでは、これに決めます」という彼の一言で、〈三島由紀夫〉の筆名が生れたのであった。
清水文雄「「花ざかりの森」をめぐって」
昭和50年1月
そもそも三島氏は神秘的、怪奇的なことが大へんにお好きで、そういう現象を御本人がどこまで信じていたのかは疑問であるが、顔を合わせれば大抵、幽霊だとか、空とぶ円盤だとか、心霊現象だとか、あるいは日本の平田神道だとかいったような、いわゆるオカルティズムの話題が出たものである。(中略)
さて、蒸暑い七月の夜、三本の割箸を糸で縛り、三本のうちの二本の割箸の両端を、手拭いで目かくしをした三島夫人と奥野夫人が向い合って、手で支えた。二人のあいだにはテーブルがある。もし霊が現われれば、三本目の割箸が動いてテーブルを軽く叩くはずだった。
ふとった藤野一友氏が、額の汗をしきりにハンカチで拭いながら、豊川稲荷だか伏見稲荷だか忘れたが、お稲荷さんの霊を呼び出そうとして、しかつめらしい顔をして何度も呪文を唱えた。しかるに、霊は一向に現われなかった。(中略)
そのうち、沈黙を破って奥野夫人がぷっと噴き出した。無理もなかった。誰が見たって、この光景は可笑しいはずである。私だって、ともすれば笑い出したいのを我慢していたのだった。
「奥野夫人、不謹慎ですぞ!」三島氏がぎょろりと目をむいて、そのとき忿懣やる方ない声をあげた。もちろん冗談半分である。しかし、どうやら私たち六人のなかで、三島氏ひとりが大真面目だったような気がする。
渋沢龍彦「琥珀の虫」
昭和49年10月
三島さんのロココ趣味、あれは日本人にはめずらしいタイプだとおもうけど、なにか一種の偽悪的なものだったな。彼の家にはターナーがひとつ、かかっていたけど、それを吉田健一さんが見てね、「ターナーなんか今時分、日本にあるわけがない」なんて言ってました。まあ、それはひと目みて偽物とわかりますよ。だけどそれで平気だったんだな、三島さんは。偽物であるということをちゃんと知っていて、恥ずかしがらずにやっているところがありましたね。
三島さんが馬込の家を建てるとき、建築家と喧嘩したという有名な話があるでしょう。そんな趣味はよした方がいいって、建築家に言われたけど、かまわずに作らせたという話ですね。三島さん自身、建築家からそう言われることは承知の上だったわけなんだね。日本の風土にあわないし、たいへんなお金がかかるし、‥‥しかしそれをやって楽しんでいたんだね。偽物でもなんでも、そういう雰囲気が出てくれば、よかったんですかね。芝居の舞台の書割とおなじなんだ。本物は一つもない。だけど雰囲気は出てるよね。その程度でよかったんじゃないかな。だから川端康成さんの骨董とはちがうんだ。あれは本物でなくちゃいけないわけだから。
武田泰淳「三島由紀夫のこと」
昭和52年1月
彼は外国作家は二流というか、ちょっとワキにそれているような作家しか認めなかったでしょう。正統派の外国文学はあまり好きじゃなかったようですね。ドストエフスキーなんかは、あまりまじめに読まなかったような気がする。スタンダールでもバルザックでも翻訳で全部読んではいただろうけども、関心もないし自分の材料にもならないとおもっていたところがあったね。その点、徹底していますね。ジャン・ジュネなんか身近に使えるものとして読んでたでしょうが、もともとサルトルなんかきらいだからね。普通の人だったら、トルストイだとかゴーゴリだとかチェーホフだとか、それからフランスでいえば、ヴァレリーとかマラルメとか、そういうものを使うわけですけどね、あの人はまったくそういうことはなかったようにおもうな。ただときどき引用するくらいでね。ラディゲとかリラダンとかポール・モーランなど、そういう小粒な作家を熱愛していたようにおもうな。
武田泰淳、同上
もう一度は、それが私が三島君から電話を貰った最後になったのではないかと思うが、いきなり、「君は例のライフ・ワークをいつから取りかかるのだ?」と訊いてきた。私がまだ機が熟さないから、というような曖昧な返事をすると、彼は最近死んだある作家の例を挙げて、「ぼくは途中で死ぬのはやり切れないから、今日から取りかかるんだ。一緒に出発しようよ」とすすめてくれた。しかし、いきなりそう云われても、すぐ乗るわけにはいかないので、「どうぞ、お先に……」と云うと、「それじゃあ、ぼくは書きはじめるからね……」そう云って例の豪傑笑いと共に電話を切った。
その後も、お互いの共通の知人である、ある女性の口を通して、三島君はぼくにライフ・ワークに早く取りかかるようにと、何度もすすめてくれたが、次第に私は彼が死に急いでいるのではないかという印象を持つようになった。その後どこかで立ち話しをした記憶がある。彼は私の新作の発行部数を訊き、それから、彼のライフ・ワークの売れ行きが予想外にひどいと告白して、「もう日本文学は終りだよ」と、投げたような云い方をした。
中村真一郎「三島君の回想」
昭和50年3月
その日氏は私のために一日を空けて置いてくれた。やがて暗くなって、氏は私たち二人を階下に招じた。そのとき夫人に紹介され、それから晩餐に招待された。氏はそのあと珍しいヌード写真などを見せて下さった。連載中の小説を書きあぐねているとも語った。芝居の方に自分の天分はあるので、一晩に三十枚も書けることがある、そういうときはまるで手が器機のように動く、それにひきかえ小説は毎晩かっきり七枚書くことにしている、などと言っていた。しばらくしてゴーゴーを踊りに行こうと氏がとつぜん言い出した。夫人を伴ない、氏はわれわれを車で案内してくれた。途中で、べ平連で有名な作家兼評論家某氏のことが話題になると、氏は「数日前六本木のレストランの入口の所にあの男が立っているのが遠くから見えてね」と、ひどく人なつっこい表情をしながら「まるでその辺りの空気がいっぺんに汚れ、曇ったように思えて、僕はそこから一目散に逃げ出したのだ、百米くらいも走ったのだ」と身振りで走る真似をして、私たちを笑わせた。ある人を嫌ったら、その嫌い方がいかにもこの人らしく、私は氏のそのときの言葉にデリカシーが欠けているともべつに思わなかった。氏の身のこなし、口調、そして考え方が衝動的なものではなく、スポーツ精神ともいえるようなからっと明るい、軽快な、遊戯的なものに思われたからである。
西尾幹二「一度だけの思い出」
昭和48年11月
TVが、三島さん最後の演説の録画を写し出し、時に自衛隊員の、憤激しているらしい横顔をインサートする。あきらかに三島さんの期待は裏切られているようで、ひょいと、ああまたふられたなと考え、それは以前、はじめてボディビル以後の三島さんにお眼にかかった時、あまりちいさいのでびっくりした時、懸命に筋肉の促成栽培をやっても、御当人はしごく虚しいんじゃないのかと、思ったことがあるのだ。失礼な言い方だけど、いくらバーベルで鍛え、腹筋を強くしても、背は伸びないし、三島さんの体格は、逆三角というより茶筒型だった、つまり洋服を着てしまうと、まったくふつうの小男になり、といって年中裸でいるわけにもいかない、三島さんがよく裸の写真をとらせたことについて、露出癖というけれど、そうでもしなければ、折角のトレーニングの成果を、人に認めてもらえないのだ、ふつう少しスポーツをやれば、洋服を着ていても、ちゃんと体型にあらわれるものだけれど、三島さんの場合例外だったように思う。軍隊にふられ、筋肉にふられ、ついに自衛隊も片想いの結果となったらしく、壮烈なふられついでにいずれは思いの必ずかなえられる死にも、今のところふられたらよかったのにと考え、気がつくと夕方で、ビールを十二本空けていた。
野坂昭如「わが三島体験」
昭和46年2月
三島君は好悪の情が強く、嫌いなものには見向きもしなかった。その一例をいえば、彼は六代目菊五郎や二代目猿之助を好まなかった。それは六代目や猿翁が、歌舞伎役者のくせに新しがるから嫌いだというのである。歌舞伎役者という看板を出しながら、新しがった演出をする以上は、歌舞伎役者ではないというのだ。そこで最も歌舞伎役者らしい歌舞伎役者、すなわちどこにも新しがりのなかった先代沢村宗十郎を歌舞伎役者の典型として認めていた。そういう点では、やや偏狭なくらいであった。
私は六代目程度の心理主義的演出――たとえば「判官切腹」や、「七段目」のおかるや、「千本桜」の四の切の忠信などで見せた円熟の心理的演出や、猿翁の「黒塚」「二人三番叟」その他に於ける完成に近い歌舞伎舞踊の技巧を、必ずしも歌舞伎美学の破壊とは思わなかったから、その点ではよく三島君と議論をたたかわした。また、私がある役者と三人で食事をしようと誘うが、彼は、
「あなたと食べるのは嬉しいが、あまり好きでない役者と一緒ではおことわりします」
と極めつけるので、私は歯が立たなかった。況や彼の憂国化を、私のような者が諫止出来る筈はない。
舟橋聖一「三島君の精神の裸体」
昭和46年2月
あの日私は、次の仕事に入る前の癖で、あと幾日ほど暮せる生活費があるだろうかとか、近所に遊園地がなかつたらどんなに静かだろうとかいろいろつまらない心配をしながら、こたつにもぐりこんでテレビを観ていた。そして正午になつてまもなく、ショー番組が中断し、三島氏の引き起した事件のニュースが流された。やや興奮した面持ちのアナウンサーの顔が消えると同時に、バルコニーに立つて怒鳴つている氏の姿―― 一回も会つたためしがないのにかつて百回も会つたように錯覚させる大勢のなかのひとりの顔――がブラウン管に映しだされた。(中略)
ここで最も印象深かつたのは、とぎれとぎれにマイクにはいる演説の内容ではなく、口調と同様のはげしい身ぶり手ぶりでもなく、声を発している最中に氏がさかんに舌なめずりをしていたことだ。おそらく緊張のあまり口のなかがカラカラに干あがり、舌が頬の内側に貼りついてしまい、思うように喋れなかつたのだろう。
丸山健二「小説家が作品の前に踊り出るとき」
昭和46年2月
ひとつ、私の心にかかったことがあった。ノーベル賞とりたいですか、と私はかれに意地悪い質問をしたときである。かれは、「拒否します」といった。なぜ? ときくと、瞬間、口ごもって、「ぼくにも思うところがありますからね」とこたえたのである。思うところがある。そのとき、私はその意を解しかねたのだが、いまにして思うと、それは「自殺」を意味していたのである。かれはスウェーデンを「文化創造力のない国だ」ときめつけた。
「百五十年前、ロシアに負けて、それを払拭しなかったからスウェーデンは福祉国家になっちゃった。敗戦というものを脱却しなければ国の文化というものは成り立たない。福祉国家でニコニコ暮しているのもいいだろうけれど、ノーベル賞やっても、それもいいだろうけれど、ぼくの考える国って、そんなものじゃない」
私は、かれのその言葉を、そのまま新聞に書いた。そして、これによって、かれのノーベル賞授賞がフイになるかもしれないと、それがひどく心にかかったのである。しかし、そんな懸念は、さもしい。かれは、まったくノーベル賞なぞ問題にしていなかったのだ。
「ぼくの考えている国というのはね、創造力の煮えたぎっている国だ」と、かれはいった。「一方じゃ刀もふりまわすが、一方じゃ文化の創造力の煮えたぎつている国……エリザベス朝時代みたいな」
森本哲郎「哲学的会見記」
昭和46年1月
そういう三島も、もっと若いころは、ちょっとかわいらしいところがあった。あれは、彼と知りあったころだから、昭和二十一、二年のころだろう。まだ、彼が渋谷の松濤に住んでいたころで、彼の家に遊びに行ったあと、外で食事しようということになった。松濤から渋谷の道玄坂に抜ける道に、本屋があった。古本屋ではなかった。彼はそこの前にくると、「ちょっとのぞいてみよう」と言って中に入った。奥の棚に、昭和十九年刊の処女創作集「花ざかりの森」が一冊置かれてあった。三島は知らんふりしていた。仕方なしに私は、「おや君の本がある、すばらしく立派な本じゃないか」とお世辞を言うと、彼は、いま、やっと気づいたという顔で「おや、ほんとう」と言った。私は吹き出したいのをこらえた。本屋の主人と三島の会話から察すると、ここは顔馴染みの店であることは間違いなかった。だから、「花ざかりの森」が奥の棚に飾られてあることは、百も承知だったに違いない。(中略)
昭和三十二年に私が結婚し、その披露宴のとき、タキシードを着て彼は出席してくれ、私は、メーン・テーブルに坐ってもらい、隣を有馬稲子の席にした。数日後、彼は電話をくれ、「なんだか、僕と有馬稲子さんが新郎新婦にみえたって、みんな言っていたよ、ワッハッハ」と笑った。そのころからだと思う、努力して、横隔膜の訓練をやり、例の豪傑笑いが完成したのは。それまでは蚊の啼くような笑い方だった。
矢代静一「とりとめもないこと」
昭和49年12月
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