正宗白鳥 【まさむね・はくちょう】
小説家、劇作家、評論家。本名、正宗忠夫。明治12年3月3日〜昭和37年10月28日。岡山県和気郡穂浪村に生まれる。明治29年に上京し、東京専門学校の英語専修科に入学。翌年、内村鑑三の影響によりキリスト教の洗礼を受けるが、明治34年に棄教した。明治36年、読売新聞社に入社し、翌年より小説を書きはじめる。「塵埃」(明治40)や「何処へ」(明治41)など、無理想・無解決のニヒリスティックな作風で作家としての地歩を確立。「入江のほとり」(大正4)など、死と欲を主題とした作品を多く発表し、自然主義文学の代表的作家となった。また、「光秀と紹巴」(大正15)をはじめ、戯曲の力作も多い。晩年は、「自然主義盛衰史」(昭和23)など、回顧録を多く発表した。昭和37年10月28日、死去。享年83歳。葬儀は本人の希望によりキリスト教式で行われた。代表作は「何処へ」、「入江のほとり」、「光秀と紹巴」、「文壇五十年」、「今年の秋」など。
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正宗白鳥@文学者掃苔録図書館
正宗白鳥@近現代日本文学史年表
著作目録
*制作未定*
回想録
人の話だが戦争後、正宗さんは軽井沢からリュクサックを背負ひ、混んでゐる汽車のなかで本を読みながら東京の出版社をよく訪ねてゐた。ある日、朝早く講談社へ訪ねて来たので、掃除婆さんが間違へて来訪者の溜り場へ案内したままにして昼すぎになつた。編輯部の幹部が正宗さんがおいでになつてゐると聞いたので驚いて溜り場へ出かけて行くと、正宗さんがリュクサックのなかの愛読書を出して熱心に読み耽つてゐた。それで編輯室へ通して出版界の近況を話した後、若い編輯員が正宗さんの買物して廻るお供をして、上野駅まで見送ると、正宗さんはリュクサックを逆さまにして背負つてゐる。靴の紐は解けたままになつて引きずつてゐる。
若い編輯員がそれを見かねて、「先生、リュクサックが逆さまになつてゐます」と注意すると「こぼれなければいいだらう」と叱られた。正宗さんといふ人は冗談口はきかないが、叱るときには本当に腹を立てる。リュクサックのなかのものは、本当にこぼれさへしなければいいわけである。
井伏鱒二「正宗さんのリュクサック」
昭和60年11月
その次も矢張り帝劇であつた。何でも露西亜人の歌劇か何かがあつた時だつたと思ふ。私の連れは谷崎精二だつた。私たちの席は二階だつた。矢張り幕合の時で、谷崎と二人で二階の廊下を歩いてゐた時、突然彼が行き違つた人と挨拶をしたので、見ると、それが白鳥氏だつた。その時、私に最も気がついたのは、何といふかまはない装をしてゐる人だらうといふことであつた。谷崎との会話に、大磯から来たとの話だつた。多分、帝劇の廊下などゝいふ、周囲がけば/\してゐる為めにそんな風に見あやまつたのかも知れないし、或は又白鳥氏は失礼な言ひ分だが、あゝいふ小柄な、どちらかといふと貧相に見える人であるから、普通の装をして居られても、時としてそんな風に見えるのかも知れないとも思つたが、私のその時の印象では、大磯から寝間着のまゝひよつこりやつて来られたのではないかといふ気がした位であつた。
宇野浩二「正宗白鳥の印象」
大正13年12月
上京のつど来社されては、一、二時間しゃべっていかれる。ソファにチョコンと埋まり、薄く高い鼻梁を反らせながら声高に、せっかちに話される。
「洗足の土地も、このごろでは高くなって坪二万円するそうだ。うちは六百坪あるから、千二百万円。大した富豪だな。永井荷風みたいだ。ケッケッ。それに軽井沢の地所には、クリスマスツリーに使う木が何百本も生えていて、これがまたいい値で売れるらしいんだな。ケッケッ」
荷風が二千万円の通帳を残して亡くなったころのことである。
ある夜、江戸川アパートの六階におたずねした。ノックをすると、声がした。ドアをあけると、狭く仄暗い個室の中央に据えたベッドを机がわりに、畳の上に両膝ついた先生が、ガウン姿の上体をのびあがるようにしてふとんにのせた原稿用紙にくしゃくしゃ鉛筆を走らせている。振り向かれた銀髪の面は、燈火に昂然と上気して輝き、メフィストと問答したあとのファウスト博士、いや“屋根裏の哲人”といった概があった。……すぐいつもの先生に戻り、電気コンロに掌をあぶりながら、ボソボソ語りかけて下さるのだが、先ほどの鬼気をのぞき見ては、なにやら落ち着かず、早々に辞した。
――昭和二十六年から二十九年にかけての話である。
岡林重次「一時期の挿話」
昭和42年5月
『救ひの無き人世といふ詞であなたのお考へや、作物をよく批評するようですが。そうでござんすか』『僕は若い時よくニヒリストだとか自然主義だとかいはれたものだが、僕からは一遍もそういふ事を主張した事はない。ニヒリズムを主張する人は虚無なら虚無といふ事に人生を決めて仕舞つてそれに値打ちを見出してるのだから救ひが無い事は無い。僕は救つて呉れるなら今でも救つて貰ひ度ひと思つてる。救ひは求めて居るのです。求めて居るが見付から無いだけだ』『お求めになつてるような焦燥が見ゑないようですが』『これで焦操してるかも知れない。頭の中の事だから他人には判らない』(中略)『創作は全く生活の為めにおやりですか』『そうです。僕は始めから書き度いと思つて書き溜めたといふ経験は一遍も無い。始めから生活の為めに書き出した』『ぢやあ、もうお書きにならなくてもいゝのぢやないですか』『いや、そりや、病気でもして少しのうち働かずに居て食ふぐらゐの事は出来るが、いろ/\事情があつて財産といふ程のものは持つて無い。まだ書いて行かなくちやならない』『生活の見越しがついたら書かなくなるかも知れませんね』『そうです。』
岡本一平「『にひりすと』に非ざる『にひりすと』」
大正13年12月
私が氏に対して、最も気持ちよく思ふのは、性分のキチンとしたことで、氏と何か約束して、それが間違つたといふことは一度もない。一緒に芝居を観に行く時、共に旅行をする時、氏とならば殆んど一分一秒も違へないといふほどに、キチンと時間を守る。まして待ち惚けを食はされたり、約束の日に行つて留守といふやうなことは決してない。向うから来る時には約束の時刻にちやんと来るし、此方から行く時には、もう出かけるばかりに支度して待つてゐる。余りにキチンとし過ぎてゐるので、何んだか窮屈を感ずるほどである。
氏と共に旅行したのは前後二度で、一度は京都へ、一度は小田原までゞあつたが、氏とゝもに歩くのは、泊りがけの旅行なぞよりも、市内や郊外を二三時間ブラ/\歩いて、夕飯でも一緒に喰べるといふやうな方が向いてゐるやうである。さうして、喰べたものゝ料金をば、一銭半銭までキチンと割つて半分ずゝ払ひ合ふといふのも面白い。
氏は人に対して常にかういふ風にキチンとした遣り口であるが、自分の身の回はりや書斎の中なぞを構はぬことは、また実に大胆不敵のやうである。昔しはもとより、今でも辺幅を修めぬといふ言葉を、何んの衒気もなく実行してゐる人で、寝衣のまゝ外出しようとしたり、手当り次第に着物を引つかけて、下着が二寸も裾から下へ出てゐるのを其のまゝ出かけようとして、細君に『お願ひですから何うぞ着更へて行つて下さい』なぞと袂を捉へられてゐたりすることがある。
上司小剣「白鳥氏と識つてから」
大正7年6月
初めて訪問した私は玄関のベルを押して長い間待った。と不意に扉があいて、小柄の貧相な爺さんが無愛想な顔つきで立っていた。それが自然主義文学の大家、「何処へ」や「入江のほとり」の作家であった。その頃の年配にはめずらしく洋服が普段着のようだった。名前を告げると、老人らしくない張りのある高い声で、
「入りたまえ」
そこでおずおずと入ろうとすると、
「靴を脱ぎたまえ」
外人の建てた家だから靴のままでいいのだろうが、白鳥氏自身スリッパを履いていず靴下はだしである。
天井の高いサロン風の広い洋間は、窓が閉ざされているので仄暗く、家具を運び去ったあとの空家のようにがらんとしていた。部屋の片側が一段高くなっていて、覆いのかかったピアノがあった。
靴を両手にさげた不細工な恰好のまま私は畏まった声で執筆依頼の来意をのべた。
「僕は『文芸』なんてちっぽけな雑誌には書かんよ。『改造』なら書くがね。寄らば大樹の蔭というからな」
取り付く島のない返事が吐き捨てるような口調で返ってきた。私は呆気にとられて、突っ立っていると、
「靴をドアの脇に置いて」
と再び命じ、先に立ってサロンの奥の、庭に面したサンルームに招じ入れてくれた。(中略)
やがてコーヒーが運ばれてきた。
「このコーヒーはいいコーヒーなんだ。飲みたまえ」
たしかにうまいコーヒーだった。コーヒーの味わい方にうとい私にもそれはわかり、はじめて普通の声が出た。
「香りがいいですね」
「ふん、飲んだら帰るんだな。用事は他にないんだろ」
およそ湿りっ気のないあしらいに、私はほうほうのていで退散した。
それから一週間ほどして正宗氏から編集部へ私宛に葉書が届いた。走り書きの文面には、つまらぬ原稿だが送る、とだけ書かれてあった。思いがけない報らせに私が飛び上がって喜んだのは言うまでもない。なんていいじいさんなんだろ……そんな失敬な言葉が思わず出た。
木村徳三「文芸編集者 その跫音」
昭和57年6月
小林 でもぼくはあれだな、批評なんか書いているせいもあるけれども、正宗さんというのは、書いてるものを重んじないだろう、ちつとも。書いてるものを重んずる人はぼくには面倒臭いのだな。だから正宗さんみたいにぜんぜん重んじない人にはね、まだもう一つ先があるのだ。文学よりもう一つ先のものがある。それがいつも頭にあつてね、文学なんてものは手前のものでね、別にどうということもないという考えがいつもあるだろう。
河上 そういうところも菊池さんと同じだろう。
小林 それも菊池さんだ。ああいう精神というものは私には魅力があるのだな。そこが非常にサバサバしているのだ。サバサバして純粋だね。文学を信じている人にも、いろいろ面白いところがあるけれどもね。だけれども面倒臭いこともあるよね。
河上 それはお互いさまだよ、君にもある。
小林 なかなかそういう精神というのはやつぱりあるようでないな。
河上 うん。
小林 文学を軽んずる人はたくさんある。あるけれども、その代り何も重んじてもいないよ。いくら文学というものに夢中になつても、結局はあまり面白いものではないという、そういう精神ね。そういう精神はやはり稀れだな。まあそこまでいかないと、精神というものはさつぱりしないからな。
小林秀雄・河上徹太郎「白鳥の精神」
昭和38年1月
その後一二年もたつた後だつたか、私は一度同君の矢来の家を訪問して、いろ/\御馳走になつたことがある。その時、私は同君の家の便所を借りたが――その便所のあまりによく掃除の行届いてるのに感心して、座に戻つて、其事を同君に話すと、
――さうサ。だから僕に家を貸したものは非常に得だよ。家賃の滞る事などは決してないし……と、同君はニコ/\して、わざと得意さうな調子で云つた。
正宗君が早稲田で勉強してゐた頃は、同校の模範学生であつたさうだ。同君が社会へ出て、貸家住居をするやうになつても、やつぱり模範借家人なのであらうと、私は心の中で微笑した事を覚えてゐる。
模範学生――模範借家人――従つて正宗君は現代日本人の中の模範市民であらうと思ふ。同時に文士としても小説家としても、その処世の上に於いて、飽までも模範的な人物だといふ感じがする。模範といふ事が、其分際を守るといふ事、契約を重んずるといふ事、自他の区別を明瞭に意識する事、つまり他人に迷惑をかける事は断じて行はず、又立てるべき自己の主張は飽までも立てる、といふやうな諸点を具備するものだと仮定すればである。
武林無想庵「容易に得難い現代人」
大正7年6月
その時も気取りがなく、無愛想のようで、なかなか元気に新しい作家の小説などについて論じられた。近ごろは、文芸春秋新社の地下室の文春クラブでよくお見受けする。ソファの上にながながと寝転んで昼寝でもされているようである。このクラブで、こんな傍若無人というようなことをされるのは正宗氏ひとりであろう。いかにも正宗氏らしくてほほえましい。
いかにも正宗氏らしくてほほえましいといえば中央公論社の七十周年記念式のときのあいさつは実に愉快であった。講演をすませると、草稿をクシャクシャにしてわしづかみにし、自分の席へ戻ると、それをシリの下に敷いたままその上に腰かけてしまわれたのには聴衆一同アッケにとられて笑ってしまった。正宗氏自身は、かくべつなんとも思わずにする動作が、天衣無縫のユーモアとなるのである。氏の小説にも時おり、そういう作者の意識せざるユーモアがあって、読みながらひとりで笑わされる場合が少なくない。氏はいかにもこの世のあらゆることをツマラナソウに批判されるが、実は氏ぐらい若々しい好奇心をもって、今日の文学や演劇に接触しているひとは少ないのではないか。文壇最高齢者の氏が、いつまでも若々しい秘密は、やはりその好奇心の強さによるのではあるまいか。氏が文学の限界を心得ながら、なお文学を愛している態度に、私は共感をおぼえるのだ。
十返肇「わが人物評」
昭和31年1月
作品の批評は目的でないから止すとして、氏はどうかすると世間からつむじ曲りの皮肉家のやうに思はれてゐるが、そんな点もあるにはあるが、一面非常に純良で率直な処があつて、友人としては此位気持よく交際のできる人は、私には他に二人とはない。無論芸術の対象として観照するとか、客観的に深い理解をもつとかいふ点で、私に人間的な興味を与へてくれる友人は他に沢山あるが、其家庭へ入つても、家へ訪問されても、公衆のなかで逢つても、一緒に芝居を見ても音楽を聴いても、物を食べても散歩しても、少しの厭味も迎合も(まるで迎合のない交際はないにしても)阿諛も、誇張もないのが、私には殊に気持がいゝのである。
正宗君は簡易生活をしてゐる。田舎には大分財産があるやうだが、学生時代から簡易素朴な生活をしてゐたらしい。その養生ぶりは、いかさま閑谷にでもゐた人らしく思へるが、しかし其の素質に原いてゐるのであらう。けれど簡易とか質素とか言つても、それは辺幅を飾らないと云ふ程度の意味で、生活の否定者である氏は或意味ではなか/\生活の享楽者なのである。口が奢つてもゐる。江戸趣味の愛好者でもある。殊に音楽に好い耳をもつてゐる。また旅行も好きである。東京をまめに方々歩いてゐるとほり、まだ見ない土地を始終旅行してゐる。今年も暮に東京を立つて、この頃になつて漸く帰京の噂が伝つたくらゐである。
徳田秋声「中々快活なお喋べり」
大正7年6月
絶えず老大家の言葉を聞きながら、今考へても一番心に残つてゐるのは、或る晩の正宗さんの言葉である。何でも、日本の文学を外国人に読ませる相談のあつた時だと思ふ。(中略)その時、正宗さんが、少し顔をつき出して、「一体明治以来の文学の中で、そんなに世界的に価値のあるやうな作品があるかね」といひ出した。「まあつまらないものばかりで、そんなものは一つもないやうに思ふね、何しろ僕は西洋崇拝だから、どうも日本の文学など、大したものぢやないやうな気がするね。」正宗さんは、やや早口で、皆の顔を眺めながら、大まじめでさういつて、ニヤリともしなかつた。一座は、正宗さんの放言に苦笑しながら、常談にまぎらせてしまつたが、私は、腹の中で、どうもすなほに受けとることができずに、その言葉をつい近頃まで持ちこして反芻しつづけて来た。(中略)
しかし、相当の人間までが、少くとも日本と西洋との対等可能性を信じてゐる時、西洋崇拝を口にするのは、よほど無邪気でなければできないことである。その上正宗さんの西洋ずきは、あくまで散文精神に徹してゐて、少しも劣等意識のにほひをもつてゐない。すきとなると、どんどん自分の生活を西洋流にしてしまふ。西洋流にしながら、西洋くさくもない。正宗さんは徹底的な散文家であるから、夢みがちな、力みがちな人間から見ると、時には皮肉なやうにも思はれる。しかし正宗さんには、天邪鬼がないのである。傍観者どころか、何でもやつて見て、さうかなるほど、と了解する。他人がさう了解しないのがふしぎな位であらう。およそ意地悪げのない人である。
中島健蔵「正宗白鳥の横顔」
昭和22年1月
先生は相変らず詰らなそうな顔をして、何でも評判では背中のリュックも逆さに背負ったままで、――それは時流にさからう先生らしい皮肉なのか、またはノンシャランスの現れなのか、それとも構わないというポーズのお洒落なのか、想像がつきかねたが――好奇心のおもむくままに、どこにでも姿を現して、若い私を驚かし続けた。先生のその「好奇心」たるや壮者をしのぐものがあり、青年をあきれさせたものだった。劇場の近くの座席に、先生の横顔を発見すると、視線が会わないように、私は身を縮めるのが常だった。何しろ私は感情が直ぐ顔に現れるたちだし、こんな下らぬ芝居に、今時の新進作家は感動するのか、などという冷たい感想を抱いて、こちらを観察されてはたまらなかったからである。また実際に、先生は客席に位置を占めると、先ず周りを眺めまわす癖がおありのようだった。
中村真一郎「正宗白鳥の思い出」
昭和58年6月
正宗氏の容貌、風采、言語、動作から得た私の第一印象は、「小さくて鋭い」といふ気持であつた。ひどく無愛想のやうに世間では噂してゐたが、先生と話す所を側へ聞きしてゐると、なる程テキパキと、簡潔に、句切りを短く話す指し振りに、味ひの乏しいやうな感じはあつたが、決して無愛想でもなければ寡黙でもないらしかつた。着物なんかには拘はない人とも聞いてゐたが、羽織などは高貴か何かの縞のしやれた物であつた。たゞ忙しく巻煙草を燻らせる手元にふと目をやつた時、縮緬のオリブ色だかの襦袢の袖口がお注連(しめ)のやうに切れてびら/\してゐたのが私を驚かせた。
先生(註、島村抱月)は正宗氏をあひ手に、その頃開かれてゐた何やらの美術展覧会の話をされた。正宗氏は思つた事をヅカ/\と言つてしまつたあとで、
『僕なぞは、美術も好きで、生半可の批評も致しますが、実際は全く何も解らんのです。』といふ風な言葉を付け足した。普通の人の言葉ならば、それが卑下か謙遜に聞える筈だつたが、その場合の正宗氏の言葉は「全く何も解らん」といふ投げやつた気持を明白に表してゐた事を、私は今も鮮かに覚てゐる。
中村星湖「第一印象及び其の他」
大正7年6月
夏の暑い日だつたが、その頃麻布の我善坊にあつた氏の住居に訪ねて行つた。そこは谷合のやうなところに同じやうな格子戸の二階家が幾つか並んでゐる一軒だつた。文壇の大家の家としては少々粗末過ぎるし、場所もごみ/\して殺風景なところだが、文学者といふものは昔からなかなか好い家には住めないものだ、と自分は父の柳浪が今までに住んだ家などを思ひ出しながら、そんな事を考へて頬笑んだ。(中略)
装飾らしい装飾の殆んどない、開け放した障子の外に、隣り近所の物干場などの見えるやうな二階の八畳だつた。小柄で、髪を五分刈にして、鼻が高くつて、痩せて、口が引締つて、眼が相手の眼をじつと見つめて、口の横の方がくる/\と渦を巻くやうにしてそこから苦笑的に笑ひが始まつて、早口にきぱりきぱりと物を云ふ。――突つ放したやうで、鋭くて、はつきりしてゐて、小気味の好い程歯切れが好い、さう云つたやうなのが一時に来る印象だつた。大家らしい取澄しなどは微塵もない、老書生と云つたやうな無雑作で、その癖キリツとした犯し難い威厳があつて、自分は対坐してゐて大変愉快になつて来た。
広津和郎「二重の意味での感謝」
大正13年12月
「F」という問題になった私の小説の時は、(白鳥は年寄りだから、やはり、あの小説は怒っているだろう)と私は思ったのである。事件の後、秋になって私は、ちょっと、東京へ帰ったことがあった。その時、白鳥の家へ、ちょっと寄って、
「あの小説は、僕は、書いては、いけなかったですねー」
と言ってみた。そうすると白鳥は、
「そんなことがあるものか、小説なんか何を書いたって、クチャクチャクチャ」
と言うのである。この、「クチャクチャクチャ」と言うことを聞いていると私は(正宗白鳥というのは共産党ではないだろうか)と思った程、その言うことは共産党に似ているのである。
それで私は、
「あの、センセイは、共産党は?」
と、これは(共産党の理解者ですか?)という意味と(共産党をどんなふうに考えているか)という二つの意味を含めてきいてみたのだった。
「ああ、ああ、ボクは共産党なんかじゃない、そんなこたァ常識だ」
と言うのである。白鳥は、私が(共産党員ですか?)ときいたのだと思ったらしい。
深沢七郎「正宗白鳥と私」昭和38年1月
(註、「F」という小説は「風流夢譚」を指す。)
十月二十八日(日)
四時、目をさます。のどぼとけが呼吸のために上下するのを見つめる。口、非常に臭し。綿を箸の先につけ、それを水に浸して口中を洗う。洗うのに痰がつまると窒息し、それきりになる故、どうかして口中のものを綿で取ろうと努力する。そのうち、胃よりチョコレート色の汚物を吐く。痰と牛乳(七日前に飲んだもの)がユデ卵のようなものになつて出て来る。医員三人、急に駈けつける。それより医者つきつきり。午前七時、医者より有三と近親に知らせよとの言葉あり、すぐに呼びよせる。八時になつても依然重態。九時半より口を開けて苦しそうに判らぬことばを言いながら何か手で私を探す。下顎呼吸。チアノーゼ(血管障害)。心臓からはなれた血管が障害され、血がまわらない。手、足、顔の皮膚の色がまつ黒になる。下顎呼吸の度数が漸次減る。五男氏が、病人が私を呼んでいるようだと言う。「つねです、私です」と手をさすり、脈搏を見る。弱し。頭をさすりしも呼吸が減じ、ついに息絶える。午前十一時。この人は死んでしまつた。
正宗つね「病床日誌」
昭和38年1月
正宗さんに親友といふものはゐないらしい。誰とも親しくならないし、他人の批評やお節介をするはうでなく、訪ねた人と話をするだけで自分から出掛ける方ではない。正宗さんへのなつかしさには、程度があつて短かい時間に対手をうれしがらせるが、それは続いてゐない。やはり正宗白鳥に限るなつかしさであつて、どこにも通用のしない純粋な、いはば文学のなつかしさであるともいへる。(中略)
何処から見てもあまく見られない人である。これが人をよせつけないもとなのだが、併し話をしてゐるとらくに話の出来る方でもある。対手を眼の前で遣付けるといふ子供らしさを持つてゐられないし、君達は勝手に喋つてゐたらいいだらうと、耳はそちらに向かないのだ。ここにも山中にはいつた剣士のそれがある。誰も邪魔にならないし誰とも仕合なぞしたくないそれである。
室生犀星「甘くない人 正宗白鳥」
昭和30年9月
文壇的長命といつたが、彼は作家として息が実に長かつた。一昨年の十一月末、私はテレビで白鳥と対談したことがある。その時、彼は憮然とした表情で、自分は明治時代の末から、新年号の原稿の注文をうけなかつたことはない。それが今年はじめてお座敷がかかつて来ない。自分もダメだな、と多少さびしそうにつぶやいていた。新年号は雑誌でいえばいちばん力をいれるものだろう。それに五十何年間も、しかも純文芸雑誌や総合雑誌の少い時代に、欠かさず注文をうけたというのは、昔のくるわでいえば、お職を五十年間はりつづけた太夫のようなものである。それほど彼の頭脳や感覚は老いを知らなかつたわけだ。
吉田精一「新聞記者時代の白鳥」
昭和38年1月
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