牧野信一 【まきの・しんいち】

小説家。明治29年11月12日〜昭和11年3月24日。神奈川県足柄下郡小田原町に生まれる。大正8年に早大英文科を卒業後、児童雑誌の記者となるが、同年、友人らと同人雑誌「十三人」を創刊。その第二号に発表した「爪」(大正8)を島崎藤村に激賞される。初期には「父を売る子」(大正13)、「父の百ヶ日前後」(大正13)など、両親を題材とした私小説を多く発表したが、やがて「吊籠と月光と」(昭和5)、「ゼーロン」(昭和6)など、夢と現実の交錯する奔放な幻想文学へと転じた。昭和6年、小林秀雄、河上徹太郎、坂口安吾らを集め、編集責任者として季刊誌「文科」を創刊。この時期が牧野のもっとも得意の時代であった。その後、神経衰弱の徴候があらわれ、「鬼涙村」(昭和9)など、作風にも陰鬱さが漂い始める。昭和11年3月24日、縊死自殺。享年39歳。代表作は「父を売る子」「西瓜喰ふ人」「吊籠と月光と」「ゼーロン」「鬼涙村」など。

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回想録

 牧野の家は、贅沢な家ではなかったが、つつましい作家が孤独に生きるにはふさわしく七八十坪の畑もあり、庭には湧き水があふれて、田舎風の池もあった。梅の花は白く咲いていた。東京の春は遅かったが、南国小田原には春が早くきていたのだ。しかし部屋に入ると、牧野の痩せほそった遺骸が、寒々と浴衣をかぶせられて、床の間の前に横わっていた。牧野とかつて親しかった中戸川吉二がいた。
 線香をあげて、私は遺骸の傍により、ややしばらく瞑目した。そして彼に最後の訣別をするために、顔にかぶせ(ママ)た新らしい手拭いをとってみた。首には深く縄の喰い入ったあとがあった。そして彼の顔は、歪み、唇は苦しそうに反り曲っていた。
 牧野は、何か不愉快なことがあると、眼をしかめ、唇を大仰にゆがめる男だった。その感じを死後にまでのこしていた。心の苦みに追い詰められて死んだのであるから、死後にもその表情が正直に現われているのは当然なことであろう。
浅原六郎「自殺した牧野」
昭和11年4月




 今のやうな世の中は、自己を殆んど殺さなけれは生きて行けないことがある。殺さないまでも、出来るだけ妥協し、出来るだけ自己以外の他の強制に順応する才能をもつてゐなければ生きて行くに難しい。牧野にはこの自己以外の他の強制にアダプト(ママ)る性質が少なかつた。これは潔癖なる作家として尊敬すベきことでもある。然しこの現実の生活に於ては、悲劇的なことでもあつた。
 単に書くことの上に於てだけでなく、人と人との生活に於ても、牧野はこのアダプテーションがなかつた。正直で潔癖すぎたのだ。そのために、あらゆる友人と喧嘩をしたと云つてもさしつかえない。それは損徳などは全然計算しない喧嘩であつた。妥協することが生活の巧利的な方法と考へてゐる者の多い現代に於て、牧野のやうに喧嘩の出来た男は嬉しい限りだ。然しそれが彼の生を(ママ)めた一つの素因であつたかも知れない。終りには母とも喧嘩し、妻とも喧嘩し、終ひには、十幾年つれそつた細君にまで離なされてしまつた。
 春休みに、離別した妻の処から遊びにきた子供に、これは友人鈴木十郎のはからひで牧野の許に、帰つたのであつたが、その子供に牧野は
「もうお母さんの処に帰らないでこゝにおろ」
 とたのんだ。そしたら子供は厭だと云つた。その時、牧野は実にふかく暗い顔をしたさうである。子供まで俺の心と一緒ではないのかと想つたのであらう。

浅原六郎「牧野のこと」
昭和11年5月




 牧野信一氏の死はまさしくわたしの血管の中での事件に相違ない。わたしは牧野氏と傾蓋の識すらなく、ある事情で逢ふをりをえたいと望みながら今はそれもむなしくなつてしまつたのであるが、氏の棲息してゐたらしい(あや)しい光の世界ほど気がかりのものはなかつた。奇しい光といつたがこれは出来合の文句で、じつは何といふべきか適当なことばが見あたらぬ始末であるのはわたし自身わけのわからぬもやもやのうちに沈潜してゐるためで、気のきいたことのいへる余裕をもつ見物人の位置に遠い証拠であらうか。かくまで痛切な問題である以上、ここで牧野氏について惜しいとか、生きてゐてもつと多くの作品を示すことが望ましかつたとかいふとすれば、それは単にお座なりの挨拶であらう。はつきりことわつておくが、わたしは今後の作品を通して顕現されたであらう牧野氏の姿に大作家を期待してはゐなかつたのだ。しかし、重要なことはこの掛替のない作家が大作家であるか否かといふごときけちくさい詮議ではなく、そのやうな品定めに気を取られるのがそもそも愚劣だといふことだ。さらにはつきりいへば、牧野氏が生きてゐようと死んでしまはうとどうにもならぬはなしであるが、氏の死んだといふことはどうでもよいなどと息を入れる隙間とてはないきびしさで、そのことのみが胸を打つのだ。

石川淳「牧野信一氏を悼む」
昭和11年5月




……牧野信一氏のことはよく知つてゐるやうな気がする反面に、その正体は掴めてゐないやうな気もする。一時はしげしげ会つてゐたが交際した期間も短いし、牧野さんは酒をのまなけれは温厚な青年そつくりで絶えず手持ち無沙汰のやうな様子を見せてゐた。それが酒を飲むと、こちらで二の句がつげないほど辛辣なことを云ひ出すのである。しかし開きなほるといふやうな態度ではない。さりげなく話を持ちかけて、だんだんに痛いところに触れて来る。こちらは錐を揉み込まれてゐるやうな思ひをする。たとへば、こんなやうな調子である。
「おい、こなひだ新潮に書いたお前の小説、面白かつたよ。ちよつと面白いね。でも一生懸命に書いて、せいぜいあの程度かね。さうだらう、あれでも本気で小説を書いたつもりかね。おい、恥かしかねえか。」
 ときにはまた「おい、揉んでやらうか」と薄笑ひを浮かべながら持ちかけて来ることもあつた。私は牧野さんに何回もやりこめられた。一度は、久保田さんや河上の見てゐる前でやりこめられ、わあわあと声をあげて泣いたことがある。それでも牧野さんは手加減してくれなかつたので、もう夜がふけてはゐたが私は部屋の外に逃げ出した。ついでに、その料亭から逃げ出した。ちやうどそこへ、魚河岸にトラックが通りすがつたので、それを呼びとめて便乗さしてもらつた。

井伏鱒二「牧野信一のこと」
昭和25年11月




 ひところ、牧野さんは原稿を書かうと思つても書けないときには、書く気持を呼ぶために膝栗毛を読むと云つてゐた。それでも書けないときにはプラトンを読むのだと云つてゐた。アテナイ人諸君、書けないときには書けないのだと云つた。月日がたつにつれて作品を発表する数が次第に少くなつて行つた。その頃たまた逢つたときの話では、書きたいことが喉もとまで出かかつてゐるが出て来ないといふことであつた。俺はアゼンスの町の広場で噴水を見てゐる老人だと云つた。俺はビヤ樽をころがして行く男の気持で書くのだと云つた。「嘘でなし誠でなし、半ば笑ひ半ばまじめな顔で、ビヤ樽をころがして行く男がある。それだ」と云つた。私にはその真意が呑みこめなかつたが、何か従来にないやうな作品に思ひを致してゐる気持だけはわかつた。身すぎ世すぎの書きなぐりなど出来なかつた人である。それに今まで書いたやうなものは繰返して書きたくないとなると、真の意味の明窓浄机を念ずる気持とはいへ、焦躁の気持は堪へ難かつたことだらう。身も細る思ひといふやうなものであつたらう。

井伏鱒二「牧野信一」
昭和31年8月




 牧野が葛西と如何に親しかつたかといふ事はこの短い文章では書き尽せないから、あれほど親しかつた二人が、葛西の死ぬ二年程前に、どうして仲違ひをしたかに就いて述べよう。それはかういふ話である。
 或る日、牧野が、葛西を尋ねた時、近頃かういふ本を愛読したが、と云つて、岩波文庫版のプラトンの『ソクラテスの弁明』を葛西の前に置くと、葛西は表題だけ見て顔を顰めながら、「さういふ本よりかういふ本を読んだ方がいいでせう、」と云つて、これも岩波文庫版の、世阿弥の『花伝書』を牧野に見せた。すると、牧野は、癖のクスクスといふ響きを立てる、笑ひ方をして、手垢でよごれた『花伝書』の初めの方を明けて、
「一、稽古はつよかれ、情識はなかれとせ。」と読んで、「クスクス、あんた流だな、」と云つた。それから、葛西が手を触れようともしない『ソクラテスの弁明』を取り上げて、牧野が、その本の或る頁を開き、彼独特の節をつけて、
「この事を信じていただきたい。アテナイ人諸君、私がかかる名誉を博したのは、ただ私に一種の智慧がある為めなのである。……」と読みつづけようとすると、葛西が、これも亦彼独特の調子で、
「止めてもらはう、そんな本、持つて帰つてもらひませう」と云つた。
 ざつとかういふ事で、牧野は葛西と仲違ひしたのである。

宇野浩二「一途の道」
昭和13年12月




 昭和十一年の三月二十四日の夕方の五時頃、――いつも瀬戸の来る頃、――五分すぎても、十分たつても、時間の正確な瀬戸が、姿を見せなかつた。それは、牧野が、こんど小田原の生家に帰つてから、なぜかひどく恐がつた『たそがれ時』であつた。(三月二十四五日頃は、凡そ旧暦二月二十日頃であるから、午後五時をすぎると、薄暗くなる。)
 午後五時十分ごろ、その時この家に来てゐた、これも牧野の嫌ひな叔父が、牧野があまり寂しがるので、同じ部屋(あの八畳の座敷)にゐたが、「ちよつと鴨宮に行つてくる、」と云つて、座を立つた。すると、牧野が、この叔父にまで、病床の上から細い手を上げて、
「叔父さん、今日は瀬戸君が来ないやうですから、内にゐてくれませんか、」と云ふと、
「工場へ行くのだから、止める訳にいかん、」と云つて、叔父は、そそくさと出て行つた。
 叔父が出て行くと、牧野は、そつと起きて、甥のために置いてあるピンポン台の据ゑてある部屋まで、ゆつくり歩いて行つて、そのピンポン台の網にしきりに首をのせる真似をした。と、たまたま側を通りかかつた牧野の母は、それをちらと見ながら、知らぬ振りをしてゐた。が、甥は、牧野のそばに行つて、「伯父さん、何してんの、」と云つた。
 すると、牧野は、腰をかがめて、甥の耳の側にロを持つて行つて、ささやくやうな声で、
「ク、ビ、ツ、リ、」と云つた。
 その時、一たん部屋を出た牧野の母が、戻つて来て、孫に、
「海岸まで散歩に行つて来よう、」と云つた。
 それを聞くと、牧野は、ピンポン台の側から大儀さうに歩きながら、母のそばに行つて、
「お母さん、どうか出かけないでください。僕を一人、――『置而行堀(おいてけぼり)』にしないでください、」と、母の袖にすがりついて、云つた。が、母は、それには答へないで、孫の手を取つて、
「さあ、行きませう、」と云つて、さつさと出かけて行つた。
 それが午後五時四十分ごろであつた。
 その時、内には、牧野のほかに、女中が一人ゐた。さうして、その女中は台所で夕食の支度をしてゐた。
 さて、母と甥が帰つて来たのは午後六時十分頃であつた。
 はじめに「伯父さんがゐない、」と云つたのは甥であつた。
 甥が、帰ると直ぐ、伯父の寝てゐる部屋に駈けて行くと、いつも伯父が寝てゐる寝床の上に、肝心の人間がゐなかつたからである。
 そこで、びつくりして、一ばん熱心に家の中ぢゆうを探したのは女中で、その次ぎは甥であつた。

 納戸で、梁から兵児帯(後で英雄の物とわかつた)をぶらさげて縊死してゐる牧野を見つけたのは女中であつた。女中について行つた甥は駈け足でそれを祖母に告げに行つた。それが午後六時十二分頃であつた。
 三人のうちで、人工呼吸法を知つてゐたのは母ひとりであつた。が、母は、梁からぶらさがつてゐる痩せ細つた子の体を、ちよつと引つ張るやうにさはり、後は、じつと見上げてゐるだけで、手をつかねてゐた。そこで、女中が、たまりかねて、兵児帯の罠から首をはづして、牧野の体を下におろした。
 母が、人工呼吸をしかけた時に、女中が駈け足ですぐ近くの医者を呼びに行つた、その間、甥は廊下をあちこちしてゐたので、納戸には母が一人しかゐなかつた。
 医者が来たのは午後六時十七分頃であつた。医者は、死者を診察しながら、頸をひねり、不審さうな顔をして、「惜しいことをしましたね、」と云つた。

宇野浩二「牧野信一の一生」
昭和33年1月




 酒もあんまり愉快な酒ではなさそうだった。燥ぐこともあったようだが、何だかとってつけたような陽気さだった。あの人はどっちにしても自分の腹を出さなかつた。いわねば腹膨るるという言葉もあるが、いうくらいなら死んでしまえ、という気であったかも知れぬ。友だちもあったようだが、やはり孤独な人だった。
 一度何かの話で、一しょに旅行をしようかと言ったことがあった。何でも九州に昔知っていた女がいるとかで、眼をかがやかしてその話をしたことがあった。いまそのときのことを思い出すと、あれが私の知っている中ではあの人の一番いきいきした瞬間だったような気がする。でもやはり、その旅行は止めになったが。
 よくオートバイの話をした。白いジャケツを着てオートバイに乗っている牧野さん。私は見たことはなかったが、その明るい快活な姿を、あの人も持っていたのだろうか。作品もずうっとその以前にはひどくモダンな明るいものもあったらしいが、どこかでだんだん気むずかしい厭世家になってしまった。年齢のせいでもなく、もっと根本的なもののためのようだった。
 あの人は厭世家だが、気の弱い厭世家だった。あのお坊っちゃんらしい気の弱さ。

宇野千代「牧野さんのこと」
昭和11年3月




 中学生牧野信一は、小柄な美青年であつた。少年なわけだが、こちらが小さかつたから青年に見えた。小柄な少年にあり勝ちな浮いた風もなく、無口の方で多分にはにかみやの風が見えた。下級生をいぢめるといふやうなこともなかつた。小田原生え抜きの「お花畠連中」といふのがあつて、威容校内を圧してゐたが、そんな仲間に入つてゐても、少年牧野にはヨタ気は見えず、尋常な生徒で、乱暴者たちからも何か一目置かれてゐる風があつた。
 オシヤレであつたことは確だ。身なりも気持も、今から憶ひ返しても甚だオシヤレであつたやうだ。或はすでにその頃、氏のうちで文学的なものが萌してゐたのかと思ふ。
 運動などは余りやらなかつたやうだ。鉄棒にぶら下つたり、剣を構へたりした氏の姿はどうしても浮ばない。ただ、フツトボールを蹴る氏の姿だけは憶ひ出せる。ボールが大き過ぎるといふやうな、下手な蹴り方だつた。ボールは余り飛ばなかつた。
 武装行軍のときは、いつも先頭に立つて進軍ラツパを吹いた。僕等下級生は、剣を下げた小隊長より何より、銃を荷やつかいらしくバンドで肩にかけた氏のラツパ卒姿に目をみはつたものだ。甚だ伊達な姿で、僕もラツパを習はうと思つたことがあると憶えてゐる。

尾崎一雄「牧野信一氏のこと」
昭和11年4月




 ここに於て問題は一応「社会的」外観を呈する。するとさういふ獲物を待つてゐた一部の批評家はすぐとびかかる。「純文学では食へない。」とか「自分本位の心境小説では創作の世界がすぐ行詰る。」の類である。これは亦一応の真理だ。然し私はここで再び久保田さんのたんかを借りる。さういふ風に片付けて何が面白いのか? それであなたは満足出来るのか? ではあなた方が文学で食へるのは妥協なのか? 純粋さを適当の不純さでのばして、それで日常性を背負つてゐるのか? 純粋さとは結局人間性の弱さと同じものなのか? 御望みならこの詰問にまともに答へなくてもいい。然し漫然とでもかういふ問題を考へてゐると、我々の良心は或る瞬間に何かの意味で牧野氏に負債を感じることがあるに違ひないのだ。自分に都合のいい所だけ資本(もとで)を借りてそれで仕事をし、後の責任は逃げてゐるといふ感じだ。この債権者は「文学の鬼」である。我々はその世話になり乍ら利息だけは牧野さんに払はせてゐるのだ。所でこの鬼は自分に、供物を備へることが多ければ多いだけ、その人をとつて食ふのだ。その点彼は旧約のエホバの如く「怒りの神」である。牧野さんはその壮烈な犠牲者だ。全身がこの鬼に憑かれてゐるのである。「バラルダ物語」以下数々の傑作。あの傑作がなければ、牧野さんは死ななくてよかつたのだ。
 牧野さんの死は人事(ひとごと)ではない。我々の中の最も中枢をなすものが、われとわが身を滅ぼしたのだ。

河上徹太郎「死んだ牧野信一」
昭和11年5月




 彼は、酒によつて常に、その小説に出て来るエキゾティックな騎士的詠嘆調をかき立てようと努めてゐた。然しその実、彼程古風な飲み手を、私は文士仲間では知らない。久保田万太郎、久米正雄などの先輩と飲んでも、気がおけないばかりか、若やいだ、銘々が自分の気分を発揮出来るお座敷が現出する。然し牧野信一の場合には、絶対彼が暴君である。例へば彼は、その顔に似ず先輩後輩の礼儀についても、私以下の年輩の者は一切構はない習慣になつてゐるだけに、一寸戸惑ひする位口喧しかつた。それに又、自分の好きでない後輩の作品を批評する時など、手厳しく絡んで来た。そして一般に、青臭い議論や、若い者の生意気な酔ひつぷりには、不潔なもののやうに苛立つた。だから暴君といつても、理不尽な我儘者だといふのではなく、自分の感受性を絶対信じてゐるからさうなるので、筋も通つてゐて、それだからあれだけ若い者が取巻いたのだらうが、酒飲みといふものはさういつも相手の気分や話題を尊重してゐる訳にはゆかぬもので、段々彼を敬遠する人達も出て来た。或る時私が彼と二人で飲んでゐる所へ、三好達治がはいつて来たことがある。二人は初対面だつたが、互に書く物の上では一目おき合つてゐたので、忽ち話ははずんだ。然しそのうちきつかけは忘れたが、遂に二人の殴り合ひが始まつた。それが明らかに牧野信一の暴君振りと三好達治の気鋭狷介さとの衝突であつたことはよく憶えてゐる。

河上徹太郎「牧野信一」
昭和24年3月




 牧野さんは小田原の良家の出だけど、当時はもう生家の補助を受ける余沢はなく、生活は相当苦しかつた筈である。しかもその窮乏を全く表に現さなかつたのは、勿論世間体の上での虚栄心ではなく、精神的なダンディスムによるものであつた。氏はこの愁ひを酒で紛らはすといつたものではなかつた。酒はこの貧しい生活の純潔の保障であり、高揚された精神の持続であつた。勿論そのため家計は一層苦しくなり、健康は蝕まれたけれど、決して伊達からでなく宅の内でも外でも人の顔を見れは酒であつた。といふより、氏は独りで飲むことは先づなく、酒となると相手に不自由をしなかつた。
 それは正々堂々たるデカダンスであつた。私の身近に、しかも窮乏のうちに、こんな豪華完璧なデカダンスがあることは、文筆生活を始めたばかりの私には驚異であつた。第一、氏の身辺には被ふべくもなく一種のエキゾチシズムがあつた。勿論氏はこれを衒ふどころか、逆に当時の文士生活の薄ぎたなさで包み隠してゐたが、然しその白皙で貴公子風な風貌に自づと滲み出てゐた。

河上徹太郎「わがデカダンス(三)」
昭和36年4月




 尾崎士郎氏の「九十九谷」(行動)と牧野信一氏の「剥製」(文藝春秋)との批評を書きあぐねて、私はまた頭が痛くなつた。これらの作品が分らないとは思はない。その印象がいひ現しにくくて、ヒステリツクになつて来るのだ。批評といふものの空しい味気なさが、私の胸に穴をあけるのだ。こんな作家には、私は永久の負債を負はねばならぬ。重苦しいことだ。それでも尾崎氏に対しては、分るんだよ、おい、と尾崎氏の肩でもどんとたたけば、それでさつぱりしさうな気もするが、牧野氏の作品となると、もう作者の顔を見るのも厭だ。会へば私はいつでも妙な顔をする。批評家といふものは、自分が完全に理解してゐる作家に対してだけ、まともに向へるのだ。従つて私の批評は借用証書ばかり書いてゐるやうなものだ。苦しい借金のいひわけに過ぎぬ。そこを汲んでくれないで、私の批評を批評する人があつたつて、向う横町の子供の馬鹿囃子としか聞えない。天下太平の他人事である。
 先づ尾崎氏になり、牧野氏になり、聞いてみるがいい。自分の作品が満足に理解されたと思ふ批評に出会つたことがあるかと。多分否と答へるだらう。無理解の評価の下で、彼等は十年以上も作家生活を続けて来たのだ。恐ろしいことである。二人に限らず、多くの作家がさうであつた。これは日本の作家達の胸に巣食ふ厳然たる事実である。批評家の理解を作家が殆ど期待しないありさまは、なんと抗弁しようとも、批評家の罪である。

川端康成「評価と理解」
昭和9年7月




 牧野の自殺。……わたくしは、これを、二十四日の晩の八時すぎ、時事新報の金行君からの電話で知つた。
 が、
「ほんとですか?」
 電話口でわたくしは聞き返した。わたくしには遽かに信じられなかつたのである。……といふものが、その前の日、わたくしはかれから本をもらつてゐる。……その本を、……『酒盗人』といふ新刊を、勤めさきの玄関でうけとるとそのまゝ、小包のなかだけ出して風呂敷の中に入れ、毎月の二十三日の会にわたくしは出席した。……その日はいそがしい日で、その外に、もう一つ、川口松太郎の出版記念会があつた。……それへまはつて、夜遅くわたくしは帰宅した。……その間、わたくしは、一日それを抱へてあるいてゐたのである。(中略)
 金行君は来た。疑ひをもつ余地のないことがわたくしにはッきり分つた。……わたくしは、金行君の質問にこたへて、その自殺の原因の、生活苦にもなければ、家庭苦にもなく、病弱苦にもないことを力説した。
「では、芸術上の行詰り……といつたやうな?……」
「さうも思ひません。……あれだけの才分をもつた男にそんなものゝ来るはずがありません。」
「しかし、最近、小説が書けない/\としきりにいつてゐたといひますが?……」
「書けないからといつて、すぐに行詰りが来たとはいへないとおもひます。……行詰らなくつたつて書けなくなる場合があります。」
「と、あなたは、何を原因だとお考へになります?……」
「生きてゐることがいやになつたんだと思ひます。それだけだと思ひます。」
「しかし、その、生きてゐることがいやになつた……その原因は何かといふことになると?……」
「いろ/\あるでせう、それは。……でも、自分にも分らないことだらうと思ひます。……まして、外から、窺ひ知ることの出来る秘密ではないと思ひます。……とすれば、生きてゐることがいやになつた。……生きてゐるのに堪へられなくなつた。……それだけでいゝと思ひます。」
 間もなく、金行君は、嘗て牧野の借りてゐた五反田のアパートへ行くといつて帰つて行つた。

久保田万太郎「牧野の自殺」
昭和11年3月




 牧野の生前、ぼくは、かれのためにひらかれた出版記念会に、二度出席してゐる。
 一度は、大正十年八月、“父を売る子”が新潮社からでたときで、一度は、昭和五年十一月、“西部劇通信”が春陽堂からでたときである。
(中略)
 なぜ、ぼくは、こんなことをいふのか?
 まへの“父を売る子”の会のときと、あとの“西部劇通信”の会のときとをくらべて、あまりにもその出席者の顔ぶれのちがつたのにおどろいた記憶をもつてゐるからである。
 といふのは、まへのときは、若い、有望な新進作家として、既成文壇の人々から、いたはりとはげましの声にむかへられたかれだつた。が、あとのときは、さうした因襲的な世界から脱しての、かれよりも若い作家、批評家たちによつて、その孤高不羈の精神の拍手されるにいたつてゐたかれがそこにみいだされたのである。
 それほど、かれの作家としての運命は転化し、変貌し、飛躍したのである、わづかその五六年のあひだにあつて……

久保田万太郎「切抜帖 牧野信一」
昭和37年4月




 この作家の心は、芸術上の理智派(アンテレクチユアリスト)の心である、と言へば変に聞えるかも知れない。芸術上の理智派といへば、人々は死んだ芥川龍之介氏を思ひ出すだらうから。牧野氏の作品から、飄々たる酔漢の歌を夢み、何かいなせで而も舶来牧歌の匂ひのする恋愛を夢みてゐる人々はけゞんな顔をするであらう。併し、私がこゝで理智派といふ言葉で言ひたいのは、教養ある知性といふ意味ではない。牧野氏の教養を芥川氏の教養に比べる事は出来ない。表現の上での知的映像の鮮明度ともいふべきものを言ふのである。私はこゝで、多彩な彼の全貌を語らうとはしない。急激に格調を破り、光彩を増した彼の近作に就いて、書きたい。
 百足凧の製作に身心をすりへらした「鱗雲」の主人公が言ふ、「私ははつきり展開されてゐる私のあの幻の中にだけに生きた」と。牧野信一が生きた幻は、凧でもない、芸術でもない、言はば理智の幻である。鮮明に展開される理智の夢である。
 例へば人は、最も精密な理論を辿りあぐんで、緊張した理論の裡にゐる時、理論そのものが欲情をもつて、君の知らない歌を歌つてくれる様に思つた事はなかつたか。対象が限りなく解析されて行く時、理論の糸も遂に切れねばならぬ、人はもう対象のない解析の力だけしか感じることは出来ぬ、そんな時、この力が君の知らない理論の影像を、突然見せてくれる様に思つた事がなかつたか。牧野氏は、さういふ事を、殆ど本能的に感じて、これを楽しんでゐる詩人である。
 かやうな言はば理論の一種の眩暈を知らない理智は、牧野信一の作品を読んでも無駄事であらう。「吊籠と月光と」はこの詩人の製作理論である。「西瓜を喰ふ人」以来、彼の作品はすべて詩論であるといつても過言ではない。

小林秀雄「滝井孝作と牧野信一」
昭和5年9月




 牧野信一氏「武者窓日記」――この雑誌(「経済往来」)の創作では最もすぐれたものだ。面白く読んだが苦し気な作者の顔も想像した。このアレゴリイに使はれてゐる道具だては作者がこれまで屡々使用して来たものではあるし、かういふ道具を使ひこなすこともいよいよ作者には楽になつて来てゐるとはみえたが、一方作者の主観はますます苦々し気に複雑なものとなつて、かういふアレゴリイには確然とをさまり切れぬものが出て来た様に読んでゐて感じたのだが、どうかしらん。もつと複雑な形式が必要になつて来たのではないだらうか。でなければいつその事極く尋常なリアリズムの形式にひと思ひに飛びかゝるか。うまく言へぬが何か最近のこの作者には主観とその表白形式との間に苦しみが存する、といふ様な気がした。しかしかういふ問題は機微にわたるから書くより会つた時に語り合つた方がいゝと思ふ。

小林秀雄「『文藝春秋』と『経済往来』の作品」
昭和8年11月




 私は近年牧野さんと文学上の見解を異にしあまり往来しなかった。私は詩人から小説家になった。すくなくとも、なろうとしていた。私達は詩と小説の食い違いで会えば必ず(いが)みあった。然し牧野さんは理論を持たない人だから単に悪罵になるばかりでお互に気まずい思いをするばかりだから、自然会うことも少くなり、会っても最近は文学を談じたことは全くなかった。それでも今年になってから私は三度牧野さんを訪れた。牧野さんは普段と変らぬ元気だった。むしろ奥さんが若干ヒステリイ気味で、牧野さんの居ない時を見はからって、近頃彼の神経衰弱のひどいこと、酒に酔うと乱暴で昨日も先日も椅子をふりあげて殴ぐられた、などと訴えられたのである。又周期的にやっているな、と思っただけで、時間が経過するうちに再び健康と平和がもどるものだと思っていた。
 私が始めて牧野さんを知ったのは二十六歳の夏で、その時牧野さんは三十六だった。その春私は自分のやっていた「青い馬」という同人雑誌に「風博士」というのを書いた。私は斯様なファルスが一つの文学であることを確信はしていたが、日本に先例のすくない作品であり世評もわるく自己の文学上の信念に疑惑すら懐きはじめていた。ところが文藝春秋で牧野さんがこの作品を激賞した。私はむしろ唖然としたばかりで、自分の信念にひびの這入った私は牧野さんを訪ねる勇気も手紙を書く元気もなく、とにかく自分を立て直すつもりで「黒谷村」というのを書いたが、新聞の文芸時評で牧野さんは再び「黒谷村」を激賞してくれ、同時に遊びに来ないかという地図入りの手紙(この地図の出鱈目さったらない、道の方向が全然逆であった)を呉れた。その時はじめて牧野さんに会ったわけだが、当時彼は大森山王に一戸を構え、丁度春陽堂から「文科」の発刊される時で、私は初対面の日「文科」に長篇を連載するよう慫慂を受け、いろいろ激励を受けた。私が文学の先輩に会った最初の日である。

坂口安吾「牧野さんの死」
昭和11年5月




 彼の死ほど物欲しそうでない死はない。死ぬことは、彼にはどうでもいいことだった。すべてはただ生きることに尽されていた。彼の生は「死」の影がすこしも隠されていない明るさのために、あまりにも激しく死に裏打されていた。生きることはただ生きることそれだけであるために、彼の生は却って死にみいられていた。だから、彼の死は自然で、すこしも劇的でなく、芝居気がなく、物欲しそうでないのだ。即ち純粋な魂が生きつづけた。死をも尚生きつづけた。そうではないか、牧野さん。生きるために自殺をするというのは多くの自殺がそうであるが、牧野さんは自殺を生きつづけたと言うべきである。彼は生きつづけてしまつたのだ。明るい自殺よ。彼の自殺は祭典であった。いざ友よ、ただ飲まんかな。唄わんかな。愛する詩人の祭典のために。

坂口安吾「牧野さんの祭典によせて」
昭和11年5月




 私は電報がきて小田原へ行ったが、私がついてまもなく、その日の新聞で良人の自殺を知った女房が帰ってきた。彼女は私にちょっと来て下さいと別室へつれて行き、箪笥からとりだしたのか、喪服に着かえながら、
「あいつ、私を苦しめるために自殺したのよ」
「そんなことはないさ。人を苦しめるために人間も色んなことをするだろうけど、自殺はしないね。ヒステリーの娘じゃあるまいし、四十歳の文士だから」
「うそよ。あいつ、私を苦しめるためなら、なんだってするわ。いやがらせの自殺よ」
「まア、気をしずめなさい」
 私はふりむいて部屋を去った。私には彼女が喪服を持っていたのが不思議であった。どうして喪服だけ質屋に入れていなかったのか、着る物の何から何まで流してしまった生活の中で。
 私がそんなことを考えたのも、女の喪服というものが奇妙に色ッポイからで、特別それを着つつある最中は甚だもって悩ましい。そういう奇怪になまめかしく色ッぽいのがポロポロ口惜し涙を流して、あいつ、私を苦しめるために自殺しやがった、という、私もこれには色ッポサの方に当てられたから、さっさと逃げだしてしまった。まことにお恥しい次第である。

坂口安吾「オモチャ箱」
昭和22年7月




 或晩十二時頃に僕が外出先から帰つて自分の書斎に落つくと、隣の家の牧野の居る部屋から深夜を憚らぬ高笑ひが聞え、軽快なる蓄音器が響いて来た。「例の如く飲んでゐるな。それにしても夜中の十二時の蓄音器はひどいな。」僕はさう思ひながら、やりかけてある為事のために机に向つた。さうして一時間ばかり熱心に為事をして、不図気がつくと、隣の蓄音器と高笑ひとは、前より一層盛んに――必ずしも盛んになつたのではない、が、世間が静まり返つてゐる為に、盛んに耳について来て仕様がない。「もう止すだらう、何ぼ何だつて。」さう考へて僕は為事を続けてゐたが、中中に止す気配がない。一旦気にしだすと耳ざわりで仕様がないので、僕は少し悒鬱になつて来た。それでも尚一時間近く我慢をしてゐた。がまだ止さない。人家が細密の中にあつて、午前二時の蓄音器――僕はとうとう近隣の迷惑を代弁するつもりで、牧野のところまで出かけて行つた。「君、二時だぜ、止さないか。」さういつてひよつと覗くと、牧野と一緒に飲んでゐるのは水守亀之助氏だつた。水守氏は、僕を認めるときよとんとした目をして、「ヘヱ、二時ですか。」と云つたが、忽ち破顔一笑すると例の風風来来たる手つきをして「飲みませう。」と来た。牧野は、「さうかい、そんなに遅いかい、ぢや止さう。」と蓄音器に蓋をした。が、彼の長男英雄が――名詮自称英雄だけあつて午前二時だのに、この赤ん坊は起きてはね廻つてゐるのである、――「何とか何と(むにやむにやむにや)。」英雄が何とか云ふと、牧野は、「もう駄目だつてさ、遅いんだから、――いけないね、あの小父ちやん、チクオンキいけないつて。いけないね。英坊、あの小父ちやんぶつておいで。さア。」――僕は幸ひ、英坊に打たれもしないで、三十分ばかり酒座にゐて帰つた。世間は静かになつた。

佐々木茂索「牧野断片」
大正13年9月




 このM子とK子と二人の女性を対象としての恋は、M子の方が純然たる素人娘でありながら何分年齢が信一君より上であり、しかもこの女性が相当爛熱した娘であっただけに、これとの仲は極めて肉体的なものであったのに対し、のちのK子との仲は相手が花柳界の女であるにも拘らず、むしろ極めて純情で、淡い精神的な恋であったと私は思っている。
 信一君は元来、女性には非常に好かれる魅惑的なものを持っていたとでもいうのであろうか、この二人を最初として、その後何人かの女性との関係があり、それぞれに特色があって面白いが、今はそれを一々語る余裕はない。このように彼の女性についての話題は極めて豊富である。おそらくそれはどの作家よりも豊富であると言えると思う。
 それにもかかわらず、彼の生涯の作品の中で、自身の恋を直接扱ったものはもちろんのこと、かりにもそれらしい題材をとり扱ったものは皆無と言えるのではないかと私は思う。ただあるものは全く架空の女性で、しかも淡い、恋とも親しみともつかぬような、極めて漠然とした空想のようなものが主題となったいくつかの作品があるばかりである。それはことに彼の初期の作品に多く見受けられるものである。(中略)それらのほとんど大部分は私に言わせると、全く彼の空想の中に生れた世界であり、彼はいかなる時でも、彼自身の現実の姿を現実の形のままで作品の上に現わすということを全くしていない。
 そこに彼の作家としての非凡さがあり、また他に類のない特異さがあった、と私は言いたいのである。

鈴木十郎「空想の中の人生」
昭和37年3月




 去年の初夏の或る夜、私は久しぶりで銀座の喫茶店で牧野氏に逢つたのだが、そのとき牧野氏は私のそのとき発表した「昭和絵巻」その他一連の同じ傾向の小説について、平素の牧野氏とは思へないほどはつきりとした態度で私にいろいろと忠告してくださつた。それは「読売新聞」や「早稲田文學」で批評して下つた言葉の注釈のやうなものであつたが、鮮やかにいまでもおぼえてゐることは、私たちの社会的関心の濃厚な文学的傾向に大いに賛意を表されたことである。――このことは意外とする人があるかも知れないがたしかにその頃、牧野氏は大きな転機にぶつかつてゐたのではなからうかと私は思ふのだ。さうして暫く喋つてから、しらふではまだ充分語り足りないから後から来給へ、うんといはうといつて裏通りの或る飲み屋の名を教へて出て行かれた。私は要事を済ませてから急いでそこへ電話したのだけれど、時間が少し遅すぎたので、気遣つてゐた通りもうさつきお帰りになりましたといふ女中の返事である。それきり、私はこの先輩と逢はずに終つてしまつた。

田村泰次郎「牧野信一氏の死」
昭和11年5月




 昭和六年頃か七年頃であったと思う。私は当時本郷の菊富士ホテルに執筆所を持っていたが、そこに突然牧野信一君が訪ねて来た事がある。
(中略)
 牧野君は紺飛白の著物を著ていた。暫く会わなくても老けた感じはなく、相変らず何処かにまだ学生気の抜けないところがあって――そこが又よく紺飛白の似合うところであるが――若々しいが、併し妙に意気が揚らずに、背を少し猫背にしているような感じがした。『随筆』以来これが二度目の訪問で、滅多に来ない人がどうして訪ねて来たかと考えていると、牧野君は例の気の弱そうな眼を伏せながら、いきなりぽつりと、
「広津さん、僕の原稿を何処かに売って下さい」と云った。
「君の原稿を?……君の原稿が売れない?」と私は驚いて云った。
 牧野君は評判な作家である。文壇でも相当重きを置かれている作家である。その牧野君の原稿が売れないという事は私には考えられない。
 牧野君は処女のようなはにかんだ顔をして眼を上げ、ちらりと私の顔を見たが、
「僕何処からも頼まれていないのです」
 一寸笑おうとしたが笑えずに頬がひきつったと云った感じである。子供の表情で、泣こうとしているのか笑おうとしているのか、見当のつかない頬の筋肉の動かし方があるが、牧野君のその時の表情も丁度それであった。
「そうかなあ。自分でそんな風に決めているんじゃないかな。滅多に書かないものだから、何処からも頼みに来ないというだけで、何処でも牧野君の原稿なら喜ぶんじゃないかな」
 私は実際そう思ったのでそういうと、牧野君は眼を伏せたまま黙っていた。
「つまり今直ぐ金が要るんですね?」
「ええ、そうなんです」
 牧野君は小声で云ってまた子供のようにはにかんだ顔をした。

広津和郎「牧野信一について」
昭和23年8月




 細君のことを述べるのはどうかと思ふが、牧野の場合、単に日常の生活ばかりでなく、その作品にも、細君がかなり重要な役目を勤めてゐると自分には考へられた。(中略)細君といふ人は、一口に云ふとかなりモダーンだ。かなり賢い人で、それ以上に非常に明るくて快活な性格の持主だ。牧野のむつつりやとは反対に、お喋舌りで、時に出しやばりで、又騒々しくもあるが、といつて調子外れといふのではなく、少しも反感を挑発しはしない。趣味も多方面で、たとへば、キネマの話、流行の話、等等、さういふ話になると牧野よりもよく談じた。彼女はさういふことに眼もありよく知つてもゐた。まつたく彼の家の空気は細君によつて醸し出され統一されてゐた。細君なしには彼の家――彼の日常生活といつてもいい――を想像することは出来なかつた。自分は時々、趣味などの話で牧野から聞いたのと同じ意見を細君からも聞いて驚くことがあつた。牧野の好みには何となくアメリカの臭ひがする。そしてそれは細君にもある。どちらがどちらへ影響したのだらうか? それはわからないことかもしれない。が、それは兎に角、有形無形に、細君のあの近代的な明るさや快活さがかなり牧野の本質的なものに触れて行つたらしいことは自分には十分想像されるのである。

藤森淳三「文壇新人論(五)・牧野信一論」
昭和2年6月




 亡兄の埋れた作品を探しだす役をひきうけて三十五年も昔の小説を読んでいるうち、どうやら私も信一の亡霊にとりつかれてしまつたようだ。亡兄と私とは、二人きりの兄弟なのに、十三も年齢差があつて、一しよの家に住んだ記憶といえば、小田原の生家で少年期を過した間しかなかつた。彼は四十歳で死んだから、晩年には私も漸く話相手になれた筈だが、もうその頃彼は、すつかり神経をすり減らしていた。私の方へ向いてきた彼の顔は、いつも苦渋にみちて孤独な印象ばかりが強かつた。
 信一のたつた一人の息子英雄は、終戦の年に未教育の補充兵で召集され、六月頃ニューギニアのビアク島で戦死してしまつた。戦死の日時や状況をずいぶん調べてみたが、ビアク島の近くで、弾薬輸送の舟艇が敵襲をうけた時、百数十人いつしよに全滅したことだけがわかつた。それが原因で亡兄の妻、節子は精神異常となり、いまだに病院生活をおくるような不幸がつづいている。

牧野英二「亡兄牧野信一像」
昭和36年11月




 牧野は常に元気な青年達を敬愛し、共に語り遊ぶのを非常に好みました。快活に笑ひ、屈託を知らぬげに、私をつかまへて、喜劇は悲劇よりも深刻だ、(俺は深刻と云ふ言葉は大嫌ひえだ)笑はせる事は、泣かせるよりもむづかしい、笑ひの極地と、涙の極地とは窮極の処一致すベきものなり、と盃をかたむけ、アノ喉で笑ふ、クツクツクツとの声をたてて、目にいつぱいの涙をためて語りました。「アア、誰の前でも声高く朗読出来るやうなものを書きたい、どこから読み始めても面白く、どこで終りにしても親しめるやうな――俺は小説を書きたいよ。」それは沁々とした秋の調べ、春の歌、人生の生活の歌でなければならなかつたのでありませう。宇野様のお仰言るやうに牧野のお腹の中には笑ひの虫と云ふものがあるなら、人より一匹や二匹余計にゐたのかも知れません。どんないやないざこざも、意地の悪さも、憂欝さも、牧野の話頭に一度登れば、滑稽と化して、人々を笑はせてしまひます。それは多くお酒を飲み、又は心おけない人々の前だけの談笑の折ではありましたが。あの小田原のがらんとした家で夜半過ぎ飲んだお酒もさめかける頃、俺――落語家にならうかしら、いやいやなかなか落語家と云つてもむづかしいぞ、一つ、やつてみるから聞いてゐろ、柳家小さん、馬楽、しん生、と次から次へと語る面白さ、(それはネストルの化身かとも思はれるやうな)女房である私は物語ればかたるほどに、聞いてゐればゐる程に寒々としたものにとりかこまれて、涙は溢れ、気持だけではなく、肉体の苦痛を感じ、とめどもない牧野の哀しい(牧野の心情を思へばそれは限りなく哀しい)お喋りに蓋をしなければなりませんでした。折々、憂欝に取り憑かれて、それは底なしの憂欝でした。地獄の底にでも通じてゐるやうな、暗い暗い顔付をして、終日、いや幾日も過さなければなりませんでした。涙脆く、気が弱く、素直な、悲しい心になりました。瞳は力なく瞬きましたけれど、うつくしく澄んでゐました。

牧野せつ「つぶやき」
昭和12年6月




志賀・葛西・滝井等のいわゆる私小説作家達が例外なく身に著けていた峻厳の文体を犠牲にして、殊更己れが夢見た心象風景の中を游泳し、常に夢の中の登場人物として半ば戯画化された姿に自分を擬せねばならなかったのも、もともと彼が描き出そうとした世界が素朴な意味での身辺のことではなく、いわば彼の全世界であったことを示すものである。自分の一挙手一投足が宇宙的な意味を持つそういった世界が、彼の脳裏には何時の間にか形成されていた。「俺の小説は宇宙へ出す手紙だぞ」と酔ってはたびたび放言した。
 そのように自分自分の全世界の構築を意図する逞しい力を支えているものは、絶えず幸福を求める若々しいロマネスクな彼の精神である。我々は彼が終生失わなかった精神の若々しさに驚嘆の眼を見張るのである。そのような青春性の持続は、私は岡本かの子を外にしてはその例を知らない。

山本健吉「牧野信一」
昭和16年10月




 牧野信一ファンというものが、戦争中、私たちの年代にはたしかに存在していた。牧野信一の作風は、その短かい生涯で幾度も変化をみせたといっても、自虐と自恃の心象風景をくりひろげてみせた点では一貫している。しかし、当時の私は、彼の中期の作風、ロマンチックな背景のもとでくりひろげられてゆく作品を、とくに愛好した。
 地上はカーキ色の軍服と国民服の氾濫で、空は日夜B29に覆われている日常生活においては、老馬「ゼーロン」にまたがって「鬼涙村」へ出発することは、けっしてたわいのない白昼夢でも、また逃避でもなくて、むしろ積極的な行動であった。ここに、牧野信一が戦争中私たちの年代の一部を熱烈に惹きつけた理由がみられるとおもう。
 現在の私は、彼の作品では後期の「泉岳寺附近」などの系列に惹かれるが、それは私が齢をとったせいか、あるいは時代のせいか、そこのところは改めて考えてみたいとおもう。

吉行淳之介「牧野信一ファン」
昭和37年3月

早稲田大学時代 大正11年頃 昭和9年12月



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