泉鏡花 【いずみ・きょうか】
小説家。本名、泉鏡太郎。明治6年11月4日〜昭和14年9月7日。石川県金沢市下新町二三番地に生まれる。明治23年、小説家を志して上京。翌年、尾崎紅葉の玄関番として尾崎家に同居し、小説修行に励んだ。明治28年、「夜行巡査」、「外科室」を発表し、高い世評を得るが、翌年、それまでの観念的な作風を一転させた「照葉狂言」を発表。自然主義文学が文壇の主流を占めるなか、耽美的、浪漫的、怪異な作風を展開し、やがて「高野聖」(明治33)などにおいて、師・紅葉を凌駕するほどの人気作家となった。大正に入ってからは、「夜叉ヶ池」(大正2)や「天守物語」(大正6)など、戯曲においても超自然的な幻想世界を展開。以後も、日本文化の古層とも繋がるような唯美の世界で、日本近代文学史上に独自の地位を築いた。昭和14年9月7日、肺腫瘍により死去。享年65歳。代表作は「照葉狂言」、「高野聖」、「婦系図」、「歌行燈」、「天守物語」など。
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著作目録
小説・戯曲 : 発表年順
小品・紀行文 : 発表年順
談話 : 発表年順
エッセイ・その他 : 発表年順
回想録
紅葉先生の御臨終には鏡花先生は一寸の差で間に合はなかつた。丁度徹夜の御看護をすませて、神楽坂のお宅へ御かへりになり――横寺町から歩いて十分位――朝御飯を召上つてゐる所へ、急使が駆け込んできた。(其の日は丁度私は自分の学校の早稲田への途に、一寸先生のお宅へ寄つて、朝御飯だつたので、下の御座敷の方で縁に腰かけてゐた時だつた)いよ/\御臨終だと使の話をきいた時、先生はお膳の前で持つてゐた箸を投げだして、子供のやうに、
「うわア」
と声をあげて泣きだされたのだつた。
一門下生「番町の先生」
昭和16年3月
ひどく庶民的なくだけた体でありながら、ものごとに義理がたく、折目正しいところがあつた。法とか掟とかいふものには思ひのほかに慎重で、お役所向のことなどは自分に勝手がわからないからだとしても、間違つたことをしたくないといふ心づかひが人一倍強かつたらしく、文部省から何か通告があつたりすると、すぐ電話をかけて来て、あれはどういふふうに返事をすればいゝのか、ハガキでは悪からうか、といふやうに細かいことまで気にしてたづねるのであつた。
前はさほどでもなかつたが、晩年は字をかくことをおかしいほど気に病んだ。それは間違つた字をかきはしなからうかといふ心配から来てゐるので、酒の量が少し過ぎると、あくる日きつと電話がかゝつて、ゆうべ何か書きはしなかつたか、とそれはひどくきまりが悪さうに、電話も小声できく。大丈夫、筆も硯もなかつたといふと、それで安心するらしい。いや殊によるとそんな時は、また小村さんあたりへも電話がかゝつてゐたかも知れない。
鏑木清方「思ひ出今昔」
昭和15年3月
お嫌ひなものは、一に雷、二に犬、三に浪花ぶしである。
嘗てこれを先生に聞いた。いまをさる二十余年まへ、自然主義の文学が文壇的に横暴をきはめた時代、その派の人たちから先生は目のかたきにされた。いかに、かれらの、先生の存在を否定しようとしたかといふことは策動してかれら、出来るだけ先生に作品を発表する機会を得させまいとした。先生流の言ひ方をすれば、どこにも先生、「稼ぐ」ことの出来るところがなくなつた。さうなると一事が万事、たまたまある新聞から長篇の注文が来、やれうれしやと思ふとそれも束の間、あとからすぐ速達で、都合が出来たから見合せてもらひたい、たちまちさう断られたりしたなんぞあつた。さすがの先生もすつかりあぐねつくされた。
と、そのとき、ある娯楽雑誌から注文が来た。しかもそれにはいい条件がついてゐた。先生にするとのどから手の出るおもひだつた。書けばいい書きさへすればいい、さうすれば焦眉の急も救ふことが出来る。……先生はすつかり考へられた。が、敢然として先生はそれを拒絶された。――なぜなら、その雑誌、つねに浪花ぶしの速記を載せてゐる難誌だつたから……
久保田万太郎「先生と私」
昭和16年9月
泉先生も好悪は烈しかつた。殊に嫌ひの方は、雷、黴菌、犬その他、殆ど伝説化されるくらゐ有名で、既に“phobia”の域に達してゐる。ところが、その半面であるべき“mania”に関しては、あまり世間でも云はず、私としても、すぐ口を衝いて出るやうな、代表的な「何か」をもたない。
仕事、読書の儔(たぐひ)は更めて挙げるがものはなからう。酒もお好きに違ひなかつたが、「酒豪」「酒仙」などの名には値しない。女、――うつかりそんな呼方をしようものなら、不懌(いや)な顔をされる、勿論「御婦人」でなければいけないのだが、――その一事でもわかるとほり、寧ろ崇めていらしつた、と云つた方がよからう。これは、お作の二つ三つも読めば、誰にもすぐ納得がいく筈、無論女は大お好きだが、世に謂ふ「女好き」「助平」などとは、似ても似つかない好きさだ。もう一つ、度に於いて大したことではないが、あまり人が知らず、われ/\もよく不思議がつたのは、思ひのほかの「舶来」好きでいらつしたことだ。つまりなか/\のハイカラで、帽子はクリステイー、練歯磨がクロノス、煙草も、薩摩水府を常用なさる一方、葉巻、紙巻ともに舶来の上等品を愛蔵せられ、時をりお裾分けにあづかつた。湿布薬でも、エキホスといふやうな和製ではお気に入らず、アンテイプロデイステイン、汗疣(あせも)にはたきつける亜鉛化澱粉までアメリカ製と伺つたことがある。葡萄酒、ブランデー、ウヰスキー、ベルモツトなどにも、それ/″\お好みがあつたらしい。いかにも「鏡花世界」らしくないが、日常生活に、かういふハイカラな面もおありだつた。
里見ク「先生の好悪感」
昭和16年3月
泉さんに面と向かってお逢いした初めは、日比谷の議事堂の中の、虎の門に近い建物を借りて、白樺で泰西名画の写真の展覧会を開いた時、それを見に来られ、何でもゴッホの絵を並べたところで、初めて挨拶をした。ゴッホの画に一枚雨の絵があった。その前で泉さんは「やっと息がつけた」と言われた。つまり、ゴッホの絵が刺戟が強すぎて息苦しかったのをようやくほっとしたという意味で、いかにも泉さんらしい気がした。
その後、里見に連れられて一度、番町の家にお訪ねしたことがあった。二階の書斎兼座敷の床脇のちがい棚の真中に厚い紅葉全集が置物かなんぞのように、それだけならべてあったのを覚えている。その他、兎の玩具がたくさんあった。これは泉さんの酉歳から七つ目のもので、酉から数えても、卯から数えても互いに七つ目で、その七つ目のものを集めているということであった。
将棋をされるというので、私はあまりうまくなかったが、駒を並べ、さて始めようとすると、こっちの飛車と向うの飛車と、こっちの角と向うの角とが向い合っていた。注意するのは何となく悪いような気がして拘泥したが、そのままでは指せないので、遠慮しながら、注意した。泉さんはあわてて飛車と角とを置きかえられた。ところが、やってみるとどうもへんなので、よく見ると間違っていたのは私の方だった。これには自分ながら驚いた。
志賀直哉「泉鏡花の憶い出」
昭和14年10月
正直に云つて、晩年の鏡花先生は時代に取り残されたと云ふ感がないではなかつた。先生の如く過去に極めて輝かしい業績を成し遂げた人は、いかなる場合にも心の何処かに晏如たるものがあるから、あまり淋しさうにはしてをられなかつたけれども、老後の先生が久しく文壇の主流から置き去りにされてゐたことは否むべくもない。が、その人が既に故人となつた今、その著作には新たに歴史的な意義と、古典的な光彩とが加はつたと見るべきである。そしてわれ/\は今一度、近松や西鶴の作品を読むのと同じ観点から、此の、明治大正昭和の三代に亙つて生きた偉大な作家の、独特な世界を窺つて見る必要がある。
谷崎潤一郎「純粋に「日本的」な「鏡花世界」」
昭和15年3月
若い時は頗る寝坊だつたが、年と共に早起きするやうになつた。但し仕事の時は特別で、暁から寝て了ふから、起きるのは午頃か午後になるのは勿論だつた。此の仕事も、五十すぎからは余り書かなかつたので、先生の一日は、普通人のやうに、朝は早起して、夜は早寝をする毎日が続いてゐた。
先づ起きると階下へ来て、顔を洗ふと神仏を拝む。そして又二階へ急いで上つて、書斎の床の間に、四六時中掛けてある師紅葉山人の軸物の前に、恭々しく礼拝をする。それから茶の間へ来て、一服の後、塩の入つた番茶を一杯。是は必ず塩を入れるし、番茶は焙じ茶ときまつてゐる。(中略)
朝食は必ず喰べた。然も若い時から何十年、必ずおみをつけの中に玉子のきみを二箇入れる。是は病篤くして、朝食がとれなくなつた時まで、続けてゐられた。それから暫くすると、二階へ上つて行つて、本をよみだす。是は漢籍が多く、時に新刊書なども見てゐる。気楽に読むといつた時、たとへば其の儘、うと/\しやうなどゝいふ昼寝の時などは、草双紙本や種彦物。それに一九の膝栗毛だけは必ず、どんな時でも枕許に置いてあつた。
昼食は抜きで、決して喰べなかつた。
おやつには、虎屋の羊羹、饅頭類を好んで喰べた。それから銀座木村屋で売つてゐた城代と称するアンパンの餡をぬいたやうなパンが好きだつた。此の城代パンの喰べ方は、先生の潔癖から一種独特のもので、指でつまんで喰べて、最期に指のあたつてゐた部分だけをポンと捨てゝ了ふのだ。
夜食は、必ず一杯、煮い燗のぐら/\といふやつを、お宅ならせゐ/″\二合、それで相当べろ/\になつたものだ。晩年、病後の療養に稲田博士の勧告で、牛肉を三切四切位喰べだしたが、それまでは鳥以外、肉と名のつく物は一切口にしない。すべて魚だ。魚も油のない白身の上物ばかりで、ゲテ魚は大嫌ひ。上物でも刺身などは見るだにいやだといふのだつた。
寺木定芳「鏡花の一日」
昭和18年9月
鏡花夫人すずさんは、良人の鏡花に向つて、決して、「あなた」とは呼びかけないで、何時も「兄(にい)さん」とおつしやる。箇中の消息が即ち、婦系図の早瀬とお蔦の哀史の起る所以である。
鏡花が、奥さんと(奥さんは牛込の芸者であつたのであるが)こつそり寄合世帯を営んでゐることを、師匠の紅葉が聞き込み、二人の在宅を予じめ探知して置いてから、のつそり飛び込み、二人を前に置いて事もおごそかに、「紅葉門下が芸者風情を女房にすることは罷り成らん、たつて女房にする了見なら、師匠を棄てろ、」と一かばちかの小説にある通りの厳命を下してから、次に奥さんに向つては、「お前さんには気の毒だが、よく合点をして欲しい。尤も、惚れた同志が、会ひたい、見たいは別の事だがね」と粋を利かせ、再び鏡花に向ひ、「お前煙草入れが無いやうだね、まあその辺をぶらつかう、」と言つて、鏡花だけを連れ出し、神楽坂で煙草入と煙管を買つて鏡花に賜つたのださうである。
この師匠の一言が、鏡花夫婦の頭に沁み込み、さてこそ、妻ならぬ妻、夫ならぬ夫のいつまで立つても寄合世帯、さてこその「兄さん」なのである。泣かずには聞かれない哀史である。
登張竹風「鏡花の人となり」
昭和24年3月
泉さんのやうに行儀の正しい方にお目にかゝると、われわれごとき無作法な荒くれ男、全くもつて恐縮して仕舞ふ。近藤氏の紹介で初対面の挨拶を交はす時、羽織つてゐた御召の十の字絣の襟付の絆纏を、わざ/\脱つて挨拶せられたのには、痛み入つて仕舞つた。
その書斎には、人形や玩具や細工物なぞ細々としたものが沢山置き並らべてあつた。薄暗い寒い冷めたい部屋であつた。小さな机がキチンと据へてあつて、それに古代裂れの帯地らしいものが掛けてあつた。
そこで、泉さんは執筆に精進してゐられるのであらう。(中略)
泉さんの話は、だん/\と述懐めいて行く――
「とにかく時代は変つたもんです。昔は小説なんてものは、世間では謂はゞ道楽商売としか見てゐませんでしたよ。我家の女房なんか、お風呂へ行くと、あれが小説家のお神さんだよなんて、ヂロ/\見られたりして、よく真赤になつて帰つて来たもんでした。それがどうです、今日では――」
これには近藤経一氏、大分耳が痛かつたらしい。
溝口健二「泉鏡花氏に会ふ」
昭和4年2月
異常なる神経の所有者泉先生は、常に鬼神力に対して畏れをいだいて居る。鬼神力は宇宙間に瀰漫してゐるのだ。雷の鳴る時は前以てお腹が痛み、ひとたび雷鳴が聞えれば、見栄も外聞もなく蚊帳の中へもぐり込む。泉家に於る蚊帳の必要は、蚊の出る時節には限らない。知らない家で会合でもある時は、其処に蚊帳の用意があるか無いかが大きな心配になる。雷の次にこはいものには犬がゐる。散歩好きの先生も、これあるが為めにままにならない。そこで太いステツキを持つて出かけるが、そのステツキを犬が見つけて、かへつてあやしみはしないかといふ心配が起る。即ち向ふから犬が来ると、折角のステツキを袖でかくして逃出さなければならない。犬はよく人の心を読む、黙つて通り過る人には目もくれないが、真青になつて逃出す人間を見れば、追かけ度くなる本能が猛然と起つて来る。先生の恐怖は倍加される。止むを得ず女中を連れて歩く事を考へたが、これは万一犬が襲つて来た時、身がはりになつて貰はうといふのだから、人道上許せないと反省して、おやめになる。次には奥さんといつしよに散歩することを企てたが、夫婦いつしよに歩く事は野暮とされてゐるので、此の手も稀にしか用ゐられない。屈強な車屋でも雇つて散歩しようかと考へてゐると、しみじみ歎息してゐるのを聞いたが、実行されたかどうか未だ審かにしない。
蝿も恐い。既に「蝿を憎むの記」がある位だから、泉家に於ては、鉄瓶の口、煙管の吸口、その外いろいろのものに、奥さん手製の筒が着せてある。中には千代紙で出来てゐるのもある。みんな蝿よけなのだ。生ものはあたると恐いから一切食べず、御酒はぐらぐら煮立てゝ飲む。海老は溺死人を食ふからいけない、あれもいけない、これもいけないで、食物の種類は極めて少しに限定され、それも奥さんの手にかゝつたもので無ければなかなか信用しない。宿屋に泊つても食べる物は自分の部屋で煮かへし、汽車の旅で、車中アルコホル洋燈(ランプ)で饂飩を煮て食べるといふはかなさである。殊にコレラとか赤痢でもはやつて来ようものなら、豆腐と煮豆の外にはお菜(かず)がなくなつてしまふ有様だ。
水上滝太郎「鏡花世界瞥見」
昭和3年12月
私がその頃、十和田が、鏡花の小説論として、私に語ってくれたものが記憶にある。すなわち次のようなことで、ある日、十和田が質問した次第である。
「先生、小説って、いったいどんなものでございましょうか。」
「そりゃねえ、まっすぐつっ立っている人間を、じーっとよく見てごらん。気を付け―不動の姿勢をとっているといっても、よく見つめていると、本人のからだはぶるぶるふるえているもんだ。そのかすかにふるえていることに気づいて、そこを書くのが小説というものさ。」
「なるほど―。」
「町に果物屋があるね。色々な色、形のくだものが並んで店の前は綺麗だね。しかし裏へ廻ってみると同じ店でもそうでないね。小説はそこを見るんだよ。」
福田清人「鏡花巷談」
昭和49年1月
鏡花がどうしてあれほど子供っぽく黴菌を怖れたのか。少しばかり科学をかじった明治人の考えの荒唐無稽さが思われる。彼はアンパンを火にあぶってからでないと食べなかった。それも丸いアンパンの表と裏を焼くだけでなく、今度は横に立てて、ぐるりと一回転させ、おちなく火に当てるのである。そして、その一端を二本の指でつかみ、食べ終ってから、指でつかんだ部分だけは捨ててしまう。たぶん指のさきが如何に黴菌の巣窟であるかを吹きこまれたからだろう。魑魅魍魎にも似た黴菌どもが無数に乱舞しているさまを、彼はまざまざと思い描いていたのではなかろうか。
山本健吉「鏡花回想」
昭和48年12月
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