純文学余技説 (冒頭部分)
久米正雄/初出「文芸春秋」(昭和10・4)
前号の放話(「身辺」昭年十年三月)の末尾に、鳥渡その問題に触れたら、大分の心ある人々から、一燦を博した事がある。即ち、純文学余技説である。つまり私は、今通俗小説を職業とし、ゴルフを道楽とする者であるが、夜半夢醒めた心身寒き時、自から泌々として「余技」としての純文学を考へるといふ点、その論をもう少し力説してみたい。是は比頃流行の、逆説的効果を狙つた意味ばかりでなく、鳥渡した正論だと思ふからだ。
▽第一、純文学と言ふものの外部的社会存在――即ち市価に、間違へた考を起すのは、その純文学を、是非とも職業化しなければならないと考へるからである。純文学を職業として考へるからこそ、大衆文学を目の敵にし、障害視しなければならなくなるので、是を余技として考へれば、自からその市価などは、範疇が違ふ事を知るに相違無い。
▽既に、余技としての純文学を考へれば、一頃流行つた、どうせ聖地の奪還は出来ない文学十字軍や、恐るべき大言壮語「純文学と共に餓死する」の説などは、姿を消すに違ひ無い。私は此の「餓死文学」の説を以て、当時、心ある人から物嗤ひの種となつた。「焦土外交」論と、軌を一にするものと見える。こんなベラ棒な話は無い。餓死する所に文学無く生活無き所に存在価値の生じやうは無い。
(続きは書店または図書館にて...)
近現代日本文学史年表