散りぬるを (冒頭部分)
川端康成/初出「改造」(昭和8・11)
瀧子と蔦子とが蚊帳一つのなかに寝床を並べながら、二人とも、自分達の殺されるのも知らずに眠つてゐた。少くともはつきりとは目を覚まさなんだ。――といふことは、無期懲役を宣告された加害者山辺三郎も一昨年獄死し、もう事件から五年も経た今となれば、私を一種の阿呆らしい虚無感に落すよりも、むしろ一種の肉体的な誘惑を感じさせるのである。私は彼女等の骨も拾つてやつたこととて、彼女等の肉体を灰にするために、火葬場の釜へ電火のはいる、ごおうといふすさまじい音も聞いたのであるが、彼女等の若さは、やはり私から消え去らない。うつかりすると、今でも私は目の前のそれをとらへようとする思ひにかられてゐることがある。
その当時、犯行の動機がいかにもたわいないので、裁判長は被告の精神状態の鑑定を求めた。その結果、山辺三郎は変質者といふことになつた。また、はじめに短刀が瀧子の胸に突き刺さつてから後のことは、加害者の意識溷濁中に行はれたといふことになつた。でも、無期懲役の判決が下つたのを見ると、この鑑定が酌量されて、刑が軽くなつたとは思へない。事実また、鑑定書によつても、調書によつても、三郎は特に変質者と名づけるほどのことはない。殺人の動機はほんの戯れに近いものであつた。
三郎は犯行を素直に認め、また陪審をも辞退した。
(続きは書店または図書館にて...)
近現代日本文学史年表