金子光晴 【かねこ・みつはる】
詩人。本名、金子安和。明治28年12月25日〜昭和50年6月30日。愛知県海東郡越治村に生まれる。大正2年より、早大、東京美術学校、慶大に入学、中退を繰り返す。大正12年、フランスの最新の詩法をとりいれた「こがね虫」を発表。昭和3年から7年にかけて東南アジアからヨーロッパまでを放浪旅行し、優れた紀行文として名高い「マレー蘭印紀行」(昭和15)を後に纏める。昭和12年、反権力・反俗の姿勢を鮮明にした「鮫」を発表。批判的リアリズムの一到達点を示した。戦中は反戦の態度を固め、発表のあてのない詩を多数書きためた。それらは戦後、「落下傘」(昭和23)、「蛾」(昭和23)として発表され、反戦詩人として一躍有名になる。晩年も創作意欲は衰えず、「IL」(昭和40)や自伝的小説などを発表した。昭和50年6月30日、急性心不全により死去。享年79歳。代表作は「こがね虫」、「鮫」、「落下傘」、「人間の悲劇」、「IL」など。
〔リンク〕
金子光晴@フリー百科事典『ウィキペディア』
金子光晴@文学者掃苔録図書館
金子光晴@近現代日本文学史年表
著作目録
*制作未定*
回想録
季節は忘れたが昭和二十五、六年頃のある日、私は金子光晴と新宿のある通りを歩いていて、彼よりも私の方が少しよく知ってる若い女の子に行きあい、近くの喫茶店にはいった。三人ともホットコーヒーを注文して、それが来ると、金子は砂糖壷を引きよせてスプーンにまず一杯の砂糖をすくい、いったものである。
「お嬢ちゃん、何杯、二杯ね、はい、じゃもう一杯。」
金子さんのあざやかなサービスぶりを、私はなるほどと感じ入って、いまも若い娘たちとお茶のみにはいったときなどあの日の彼の一寸気軽な調子と手つきを思い出して真似してみようとは思うが、といったのではすこし本当ではない。私はそのときはちっともそんなこと、気がつきもしなかったのだが、後日そのときの人といっしょに喫茶店で向きあった時、いわれたのである。
「金子さんのあの調子、親切、それにくらべると秋山さんなんて、まるで駄目ね。」
あっと思った私は以後金子先輩に見ならうことを心がけてはいるのだが、どうもぎこちなく、あの気軽で明るい調子にはとても追つかない。先輩は先輩、ついに先輩である。
秋山清「『鮫』のはなし他」
昭和50年12月
松本 そんな意味じゃ、いままたお金の話が出ましたけど、金に対しては、金子さん自身金が無くて辛いことが多すぎたんじゃないですかね。しかもお金がまわるようになると、ふつうの意味での散財ではなく、金に困ってそうな人にあげてしまう。それを受ける人の状況が適当か不適当かはともかくとして、まずバラまくんですね。いくら入るお金があっても常に……家族も不思議がってますからね。
清岡 自伝読んでもそうですね。若い頃大変なお金もってるときも、ほんとにバラまくようにして、すぐなくしてますね。だけど、スッカラカンがある意味では好きなんじゃないですか。中国、東南アジア、フランスを、金をほとんど持たずに放浪することを考えてみても、その要素がある。あんなすさまじい放浪において自己変革を遂げた詩人は、日本の詩の歴史において柿本人麿以来、金子光晴ただ一人(笑)。今後も当分いないんじゃないですか。
飯島 うんと金があったら、もう一遍生き直すんだったら、色男になりたいというのを聞いたですよ、わりあい晩年になってから。
松本 金子さんの希望としては、お金があって、女の子にもてて、そして自分の仕事ができてっていうふうなこと、これが最大の願いだったでしょうね。
飯島 それが詩とか文学とかそういうものじゃなくて、ただ金のある色男になりたいというふうでしたよ。
安東次男・清岡卓行・飯島耕一・松本亮「金子光晴の人と作品」
昭和50年9月
本気ともつかず冗談ともつかず「亡命したい」と口走られた。一番の原因は右翼からのいやがらせであったらしい。永井荷風の晩年とは正反対で、来る者は拒まず、従ってドスをのんだ右翼青年までまぎれこんでしまい、「まいったね」となるらしかった。ひんぴんとおどしに現れた右翼青年が次第に金子さんの人柄に魅せられて、恋愛ごとの相談まで持ちこむようになり、うまくまとめてやって、今はいい子、いい子と頭を撫でるしぐさをしながら語ってくれたことがあって、如何にも彼らしいエピソードとほほえましく聞いたことがあったが、すべてがそうであったわけではない。
「いささか」の会合でも亡命のことが話題になること多く、喘息持ちだから寒いところは駄目だ、ならばタヒチ島はどうだろう、亡命するにも金が要る。大出版社か大新聞社から借りればいい、そういうところほどケチであって、第一昨今、そんな太っ腹な編集長などいるわけがない、紀行文を書くからと前借りすればいい、もう書くのは厭だ、書かなくてもいいんですよ、あとはドロンすれば……「でも、おばあちゃんがいるからね」その一言でなんとなくみんなシュンとなって黙りこむというふうだった。この話が出るたび私はひそかな憤りを感じた。ひとにぎりの右翼にせよ、それは象徴的なことであって、結局日本の社会は、今に至るも一人の金子光晴を許容できない狭量さで満ちているのではないかと。腹だたしく、情なかった。
茨木のり子「最晩年」
昭和50年9月
ともあれ金子先生は女が好きであった。そして女達からも愛される方だった。ある時、先生はおっしゃった。「僕はね、別にどんな女が好きということはありませんよ、寝てくれれば誰でも恋人。寝てくれなければ恋人じゃあないですよ。」又、「僕は好みから言って末摘花のような女が好きで、そんな女たちの他人には気付かないしおらしいところを見つけると感じちゃうたちです。」
でも、これは先生の照れ隠しかも知れなかった。先生の美意識は潔癖で猶且研ぎ澄まされていた。更に言わせてもらえば、淫蕩などという言葉には程遠く、いじらしいほど純情でひたむきであった。
畢生の恋人は勿論、森三千代先生お一人であった。それは眼のある人達の悉く知るところである。その余の女はみな金子先生にとって笑婦であった。森先生への心中だてから、他の一人に限ることを嫌い、多くの美女たちを渉猟した。
その証拠に、先生の戯れに描く美人画は皆、森先生がモデルだった。「森先生に似ていますね。」なんていうと、「いやあ。」などと困ったように笑ってらした。事実、森先生のお若い頃の写真を見ると、今もお美しいけれど、又少し趣きを異にして、更に凄い美人である。当時のさきがけと言われた断髪がハイカラでぴたりと似あっていた。
上杉浩子「金子先生の思い出」
昭和50年12月
金子さんが個人的には誰彼の見さかいなくやさしく親切だったこと、しかし押しが弱く人の世話では極端に無器用だったことは、よく知られている。一方、大変遊び好きで、落語みたいにオチのついた他人の噂話や、小咄も好きだった。本職用のタイツをはいて座敷でバレーを踊ってみせたこともある。その遊びたるや、まことに無邪気、率直で、妙なはじらいなど一かけらも示さず、サービス精神いっぱいだった。金子さんといっしょに遊ぶとき、気取りや警戒心が雲散霧消してしまうのも妙で、僕らはいつの間にか共犯者に仕立てられてしまうのだった。
しかし、僕にとって一番の思い出は、映画『カルメン』のことである。僕が8ミリをいじりはじめた昭和二六〜七年の頃だったろう。どうせ撮るなら金子一家のオールスターキャストで、と、じゃあカルメンだ、脚本も字幕も金子さんが書く、と衆議一決、押入れをひっかきまわして衣裳や小道具を整えた。金子さんはマダガスカル更紗に面をつつみ、紅バラの一輪を唇にふくんだ、まこと妖艶なカルメンに化け、あたりを抱腹絶倒させた。撮影前日、僕が偶然連れていった田村隆一も仲間に引摺りこまれ、ホセの大役をあてがわれたが、光晴カルメンの奇怪な美貌と熱演に圧倒され、「二枚目大根」の美名(?)を永遠にとどめることになった。
河邨文一郎「コーセイアーナ」
昭和50年11月
金子光晴さんに、私がはじめてお目にかかった、というより金子さんを眺めたのは、昭和二四年夏のことで、現代詩人会(今の日本現代詩人会)の催しのときでした。金子さんは、当時はやり出したばかりの派手な極彩色のアロハシャツを一着におよんで、番傘を持って演壇に上られたのでびっくり仰天しました。若い詩人でも、こんな風体をする詩人はまだ一人もいなかったのです。ずいぶん、思い切ったことをなさる方だと思っていましたところ、ある日、銀座で金子さんにお会いしました。二度目のことです。冬のことで、金子さんは着ぶくれて、北川が「大きいんだなあ、まるで岩が歩いてくるようじゃないか」と呟いたほどのご風体でした。
金子さんには驚かされてばかりです。お急ぎでなければお茶でもとお誘いして、不二家におはいりいただき、四、五十分お話ししましたが、そのころの詩のお話しでしたか、それともパリのお話しでしたか、覚えていませんが、帰り支度に私が立ち上りますと、そっとうしろからオーバーを着せかけて下さるのでした。私はうろたえ、ろくにお礼の言葉も出ませんでした。それからしばらくして、私どもはヨーロッパに出かけ、あちらでは金子さんのなされ方はあたりまえのことなのを実地に見知りました。私は後にも先にも男の方からオーバーを着せかけていただいたことはあのときだけです。金子さんは見かけによらず紳士でいらっしゃるとつくづく思いました。
北川多紀「愛情こまやかな人」
昭和51年7月
ぼくは立川へきてから、二、三度用件があり、吉祥寺の金子さんを訪れた。最初のとき先ず、門は朽ちはてているのに玄関の誰の作か知らないが、すごく派手な浮世絵の屏風にびっくりさせられた。通された玄関わきの書斎は、古びてうす暗く、いかにも『鮫』以後の作品にふさわしい異様な雰囲気であった。だが、金子光晴そのものは、いたって明るく、ごく小さな卓をはさんで、膝を交えるばかりにして話し合ったが、眼ざしはやさしく、作品から受ける印象とはほど遠い。ぼくも人から同じことを言われるのだが、目の前の人物は自然のままの人間であり、作る作品は自然発生のものではないのだから、そうなのが当然なわけだろう。
はじめてのときだか、その次のときだか、金子光晴は立って、積み重ねてあるテーブルの山のなかから、古びた大型の本を抜いてきて、「これは江戸時代のものだが、このなかに、枸杞のことがずいぶんくわしく書いてありますね」とそこのところを開いて見せてくれた。誰の本かと背文字を見ると、それは滝沢馬琴の『近世説美少年録』であった。こんど金子光晴のいろんな散文集を見て、金子光晴が江戸時代のことについて、大へんくわしいのを知ったが、そのときは知らなかったので、金子光晴の読書の広いのにびっくりした。
北川冬彦「金子光晴モンタージュ」
昭和51年7月
わたしが最後に金子先生に会ったのは、この六月の二十一日のことである。金子さんは、わたしの弟の不幸についてしみじみと慰めてくれ、目の前の、ぶ厚いガラスの灰皿を指して、死体というものは、これよりももっとつめたい、引きこまれるような底冷えのするものでしょうとわたしにいい、「そんなことで酒なんか飲んではいけない。長生きして人間をみていなさい。それはそれなりにおもしろいながめですよ。」といってくれた。そういえば、あれは数年前、急に倒れた金子さんにつきそって、わたしはたまたま救急車に同乗して河北病院まで行ったのだが、その担架に仰向けに寝て、家を出るとき、ゆらゆらと頭はゆれながら、草の汁のような顔色をした金子さんが、「こうしてながめている景色もなかなかいいものですよ。」とわたしに話しかけたのだが、そこには、サービス、ポーズというにはふさわしくない、すぐれて凄絶な詩人の眼によることばがあったように、わたしはおもう。
暮尾淳「異和の詩人」
昭和50年12月
平野 金子は手紙を書くのが好きだったな。うまい漫画が封のところに書いてある。それが全部、性器の絵なんだ。(ト、持参の葉書、手紙を一同に見せる)
堀木 郵便屋も弱ったでしょうね。
平野 佐藤惣之助に二通ハガキを出したことがあるの。その宛名のところの下に、男性と女性の性器を細かく書いて出したわけ。そしたら、こんな手紙冗談じゃない! って、郵便屋が怒ったんだって。(笑)それに、佐藤惣之助の奥さんてのは、お琴の先生をしてて相当厳格な人なんですよ。彼女も、それを見て、こんな友達とつき合うことはない、って怒った。それで惣之助が金子に文句を言いにきたって。金子はそれをぼくに手紙で書いて寄こしてね、「ああいうのは俗人だ。だから君にはどんどん書くよ」。(笑)(中略)
平野 ストリップが好きだった。京都に行く時、名所は見ずにストリップしか見てこない。
佐藤 金子はね、どこへ行っても、あれを見るらしいですよ。
堀木 ただ、金子さんに対して、ストリップがご馳走だと、周囲のみんなが思ってしまったフシがありますよね。
佐藤 そうなんだ。他人からお膳立てされたんじゃ、見たくないんですよ。
平野 自分がストリップ好きなもんだから、ぼくも好きだと思ってたらしいよ。あんなの見るなら、ぼくは銭湯の番台の方がずっといい。奴ね、ぼくのことをうらやましい、うらやましいというんだ。というのは、ぼくの住んでる松戸の駅前に、「大宝」という特出しのストリップ小屋があって、ぼくが行くと思っているんだ。(笑)一度も行ったことないのにね。
佐藤英麿・竹川弘太郎・平野威馬雄・堀木正路「人魂でゆく気散じや夏の原」
昭和50年9月
ところで、この座談会の出席者氏名をつらねたページには、確かに金子光晴とあるのだが、金子さんの発言はどこにも記録されていない。三ページにわたって横に組み込んだ座談会の写真のなかにも、金子さんは写っていない。そのはずである。「……もう予定の時間もだいぶ過ぎましたので、残念ながら、これで閉じることにいたします」と木原さんがしめくくり、舌戦のあとのけだるい顔でみんながビールを飲み、雑談しているころ、やっと、いかにもひょっこりという感じで金子さんは現われたのだ。(中略)
当時、金子さんは六十三歳。あるいは大川内令子さんと大恋愛のさなかだったかもしれないが、そんなことはこっちはまるで知らない。大工の棟梁のような角刈りの頭。鋭い鑿でやや粗く彫り上げた感じの、しかし風雪に洗われて洒脱な顔。小さいが人を食ったしたたかさでギロッと光る眼。痩せて骨ばった体に着流しの和服姿は、なかなか粋なもので、若いころはいっぱしのヤクザだったかとも思えるような趣きだった。とにかく、そこに金子光晴がいる――それだけで、ぼくにはその空間が、湖水の表面が凍りつく直前のように、しんと冷たく澄んで感じられた。
座談会に遅れた言いわけも何もなく、席の端に金子さんはすまして坐り、がらくたの並ぶ骨董屋の店先をちょいとひやかす風に、無感動な表情で、じろりと出席者たちを見た。それだけで、こいつは凄い人間だな、とぼくは肝をふるわせた。「座談会は終わっちゃいましたが、速記の者に記録させときますから、金子さん、何かひとこと……」と木原さんがいうと、金子さんは、「何もいうことはないな」と答えたきり、口をへの字に曲げて黙りこむ。それが、傲慢でも侮蔑でも何でもなく、至極当然という印象を与えるのが妙だった。間もなく、そばの壷井さんや村野さんと何かひとことふたこと、ことばを交わし、それでとにかく義理ははたしたと心得たようで、注がれたビールの泡にさえ口をつけずに、金子さんは、すっと消えてしまった。
嶋岡晨「凄い人間」
昭和51年11月
私が、それまでずっと金子さんの詩に抱きつづけて来たある疑問を、思い切ってたずねたのもその頃だった。それは、『こがね虫』とそれ以後の詩では、若い私にはまるで別の人が書いたように思えたからで、その詩風の違いのようなものの理由をたずねたのである。その時、金子さんは即座に「こがね虫は、あれは捨てたのだ」と言ったのを今でも憶えている。よく知られているように『こがね虫』はヴェルハーレンの影響が強い。端的に言うなら、金子さんはそう言われるのが厭だった。「捨てたのだ」という言葉の背景にはそうした事情があるような気もする。
事実、金子さんは私が出入りしはじめた時から詩壇で流行していた外国語の翻訳詩みたいなものをひどくきらっていた。今では一家をなしているといわれる詩人たちの詩をいちいちあげ、これはエリアールの真似ごとだ、これはシュペルビエールの書き写しだ、彼等はエリオットの糞をなめているようなものだ、これはまるでお経だよ、なぜこんな詩が読まれるのかなどとしきりに首をかしげていた。聞いていて、多少疑問の残るところもあったが小気味よく爽快だった。
新谷行「金子さんとのこと」
昭和50年12月
それでもとにかく金子さんは入院したことにすっかり参っていて、病院というところは食事をわざと不味く作るのだと悪態をつき、明日にでも退院できるようなことを繰り返えしていた。だが、やはり実際はだいぶ悪そうで、胸に両手をあてて、両側にいる私たちに首だけあっちこっちと向けて話し、精一杯のサービスをしようとしている金子さんは見ていて痛々しかった。
その日から上杉は少しでも金子さんの身のまわりの世話ができればと病院にちょいちょいと行くようになった。よくおすしを買いにやらされたらしいが、そんなある日、上杉は病院から帰ってくると笑いながら「金子先生ったら、キスしてくれって言うのよ、若い女の人とキスすれば元気になるんだって……」と言った。「それでお前はしてやったのか」と私が言うと、彼女は悪びれもせず「してあげたわ、だって、それで元気になるのならなんでもないと思って……」という。金子さんらしいなあ、と私はその時笑って済したが、内心ではそんなことに金子さんの本質のようなものを感じて怖れた。
金子さんが女に異常なほどに執着するのは、ちょうど樹木が大地から養分を吸収するように、金子さんは女から自分の養分を吸いとっているようなところがあり、金子さんのことを考えるとき、それは見のがせない部分だと私は思っている。
新谷行、同上
金子君は、僕のことを書く限り、絵の事はわからないが……と前置きをするが、僕から見れば、金子君は立派なポルノのイラストレーターであった。江戸末期の浮世絵に心酔していた位だから、北斎の妹が描いた春画などに興味を持った事は、推して知るべしである。我々絵かきが巴里へ行った時期(一九二九年)には旅客機は無かったし、船で四十日もかかって、マルセーユに着くわけだが、それでも我々は、「港々に女あり」なぞと嬉んでいたが、金子君には、「港々にヌード絵のファン」が待っていた。全くこと程さように、金子君の浮世絵風の裸女線描は、上手なものであった。金子夫妻が上海を振り出しに、無一物で巴里迄たどり着けたのは、この隠し芸のお陰だと言っても過言ではなかろう。僕なども其のファンの一人で、金子夫妻がクラマールの僕のアトリエに訪ねて来られる前から、春画の名人が巴里に現われた、と言ううわさが流れて、僕など、人を介してやっと一枚入手出来たが、友人に見せたら、其の出来栄えに感嘆して、二、三日貸せと言って持って帰って、それっきりになってしまった。どうもああ言うものは門外不出にして置かないと駄目らしい。
永瀬義郎「光晴夫妻と巴里での出逢い」
昭和50年12月
この『こがね虫』を金子からじかにもらった時は私はもう東京に戻っていたが、数日後に金子がまた来て、「僕の詩集、ちょっと借してくれよ」と言う。これは私のところだけでなく、川路柳虹その他何人かの寄贈先を歩いて、かなりの冊数をとり戻し、一まとめにして古本屋に売りとばしたのは何か金の必要があったからだろうが、川路もこのことを笑って私に話していた。本来誰にしても手放したくない自分の詩集を、さっさと売り飛ばすなどは出来ぬわざだが、金子という男は若い時から自分をも含めて世の中を茶化していて、奇想天外な逸話も多く、この癖と飄逸さは晩年まで残っていた。一つだけ御紹介しよう。これも昔のことだが、市ヶ谷見附のあたりで山ほどの荷物を引かせている荷馬車の馬が喘いでいるのをフンガイして馬子に食ってかかったら、逆に喧嘩を売られた。すると金子はひょいとふところから新聞を取出すとべらぼうな大声で広告欄の朗読をやりだし「宝丹、淋病薬、大学目ぐすり、貸間あり何区何町何番地敷金二つ、化粧薬は」と息もつかずまくし立て、相手が面くらっている間に「あばよ」と立去るという具合で、当意即妙の機転で難を免れていた。神楽坂の毘沙門様の横道で立小便中、巡査に肩を叩かれた時も、べら/\しゃべりながら小便をすましてしまうとアッという間に疾風の如く遁走した。
中西悟堂「悪友金子光晴と私」
昭和51年11月
父の葬儀の前日、一無名のファンから手紙がとどいた。ささやかな香典と共に、一枚の短い書簡箋が同封されていた。それには、「先生は弱者の味方、私たち権力なき側に立ってくれる人でした」としたためてあった。生前、父が少しでも原稿料が入ると、インドのマハラジャのように使ったり人にやったりしてしまうらしいので私が文句を云うと、「ぼくは近くの鼻より遠くのへそのほうが可愛いんだよ」と父はうそぶいた。万事家庭第一と考える私のプチ・ブル根性を内心軽蔑していたのだろう。私は前述の一ファンほどにも、なぜ父をもっとよく理解してやれなかったのだろうか?(中略)
月に一回くらいの割合で我家の門前に立っていささかの喜捨を乞う刑務所帰りの浮浪者、サンドウィッチマンをして生計を立てている画家志望の青年、毎年春になると必ず一度は精神病院入りをするちょっと発育不全のような文学少女を父はこよなく愛した。もとより彼らが弱者のせいもあるが、遊客がわざとカサ病みの遊女となじんだり、カゼひき男に目やみ女を美の極限とする江戸末期のデカダンスに共感するようなところが父にはあった。
森乾「「六道」のこと」
昭和50年9月
太平洋戦争が始まる前後から敗戦にかけての四、五年、反戦の詩人だった父は、軍国主義の世間に反目しておよそ外っ面の悪い人だった。それが戦争が終ると、父は水を得た魚のようにはしゃぎ廻り、家によりつかなくなり、特に晩年は余り人づき合いがよすぎて、メロメロになってしまったようなところがあった。(中略)
父の柩がまだ我が家にあった時、雑誌社の若い人が弔問にきて、「仕事の性質上、ずいぶんえらい文壇の大家の人たちの家にも出入りしなければならないが、なかには玄関で足のすくむ人もいる。ところが金子先生の家へ来る時は心がはずみ、駅前から駈け足になりました」と打ち明けられた。この言葉は父にとって光栄であろう。
もっとも父は仮面の多い人だったし、根本的に肌が合わないとけぎらいした人も多かったろう。特に戦争中の父のヒューマニズムを評価してくれた真摯な読者の中には、父が一部のマスコミのおだてにのって、悪乗りしすぎ、節操を失ったと幻滅した人もいたようだ。
ただ遺族として釈明しておきたいのは、父は謹厳な学者や道徳家ではなく、ガス台の湯わかしが沸騰しているのに気づくと、「おやっ、やかんに毛が生えているよ」と滝亭鯉丈の「滑稽本」の口まねをしてみせたり、路傍で大きな放屁をし、通りかかった主婦が柳眉をさか立てると、面白がって悦に入ったり、町内に半鐘が鳴ると、深夜でも飛び起きて火事見物に走り廻らざるを得ぬ衝動にかられる市井の庶民であったことだ。
森乾「消えたステッキ」
昭和52年1月
森 少し話をしているうちに、おちつかないから、うちは鍵をかけておけばかまわないんだから、表に出ようかというので、神楽坂の紅屋という喫茶店へ行ったんです。そこでいっしょにコーヒーをのみました。その時金子は、大きなノートを一冊特ってきてまして、それをひろげて、今度これをまとめて一冊の本にしようと思うという話をしました。それが『水の流浪』だったんです。(中略)それから外へ出て、江戸川べりへ出たんだと思います。道々歩きながら、暗い――暗いというのは、人通りのない川べりのさびしい道で、いきなり、僕はあなたが好きなんだけれど、恋人になってくれませんかと、そんな意味のこと言ったんです。それで私、実は、吉田一穂さんとのことがあるんですと打明けて、吉田さんとのことを気持の上ですっかり解決して、吉田さんに会って事情を話してから、それからご返事しますから、といったんです。そうしたら、気持だけは、いますぐはっきり返事してくれって。でもそんなこといわれてもと、困っていたの。すると、気持だけでもはっきりしないのなら、今このノートを、川の中に叩きつけちゃうなんて、突然その分厚いノートを川へ放り込もうとするんですよ。びっくりして、ちょっと待ってちょうだいというわけです。いいわ、ウンというから、ということになってしまって。ずるいのね(笑)。そういうところはやんちゃですね。
森美千代(註、金子の妻)・松本亮「金子光晴の周辺」
昭和50年10月〜52年1月
松本 そのころ乾(註、光晴・三千代夫妻の長男)さんはどうしてられました? 学校は?
森 もう学校へいっていなかったんです。家でぶらぶらしてました。そこへ召集令状がきたんです。何月何日何時にどこそこに集合しろと。それで金子と乾と私とで相談したんです。なんとかして、少しでも引き止めておく方法はないものかと。乾はもともと体力のあるほうではなく、戦争にいったら、もう弾丸にあたるまでもなく死ぬかもしれないと思いましてね。それにもうその当時は悲観的な戦況でしたから、そうしている間に戦争はおしまいになってしまうかもしれない。そうしたら、いかなくてもすむかもしれない。そんなわけで、息子は病気だからと断わりに私がその集合場所へ出かけましょうって、引き受けたんです。本人はとにかく喘息がちょいちょいでる体質で、ちょうど風邪をひいていたんです。(中略)そういうことでお医者さまを呼びにいって、さっそく診断書を書いていただくことにしたんです。だけど金子は念が入っていますから、お医者さまを呼びにいく前に、おまえ、裸になって寒い外に立っていろなんていって。(中略)
松本 医者の診断書は翌日もらったんですか、その日の夜もらったわけですか。
森 その晩おそくにです。ですからお医者さんを呼びにいく前に念のために、また応接室で少し松葉をいぶして咽喉を痛めさせ、リュックサックに本を入れて担がせて、家の前の道を往復させたりして。それからお医者さまを呼びにいったんです。(中略)そんなことで診察していただいたんですが、やっぱり喘息かというわけで、すぐ診断書を書いてくれました。
森美千代・松本亮、同上
■ひとつ前にもどる