梶井基次郎 【かじい・もとじろう】
小説家。明治34年2月17日〜昭和7年3月24日。大阪市西区土佐堀通五丁目に生まれる。大正13年、東京帝大文学部英文科に入学し、翌年、中谷孝雄、外村繁らと同人雑誌「青空」を創刊。「檸檬」(大正14)、「城のある町にて」(大正14)など、深い自己凝視と、高い詩的完成度を持った作品を発表する。大正15年より、病気療養のため伊豆湯ヶ島温泉に滞在。川端康成をはじめ、多くの文学者の友人に恵まれ、「冬の蝿」(昭和3)など、この地での体験はその後の多くの小説に活かされることになる。昭和3年に上京するも病状が悪化し、同年に大阪の両親のもとへ帰郷。昭和6年、小説集「檸檬」を刊行。翌年の1月には商業誌に「のんきな患者」を発表し、本格的な文壇デビューを飾るものの、3月24日、肺結核により死去。享年31歳。代表作は「檸檬」、「城のある町にて」、「桜の樹の下には」、「冬の蝿」、「交尾」など。
〔リンク〕
梶井基次郎@フリー百科事典『ウィキペディア』
梶井基次郎@文学者掃苔録図書館
著作目録
小説 : 発表年順
エッセイ・その他 : 発表年順
習作・作文・草稿 : 執筆年順
回想録
梶井君が非常な西洋音楽通であつたことは、既に誰かゞ書いたであらうか。兎に角、梶井君はシムフオニイの総譜も読め、ケーベル博士のやうにつれ/″\に名曲の譜を読んで楽しむことが出来たらしい。梶井君が高等学校時代を送つたのは大正十年前後で、漸く一般に洋楽熱が勃興しだした時である。したがつて、当時、大戦後の不況から欧羅巴の一流音楽家が陸続として来朝したのにも拘はらず、音楽会へ出掛ける連中のレヴエルは低かつたのである。殊に、梶井君が高等学校時代を送つた京都では、なほさら左うであつたらしい。梶井君は音楽会へ出掛ける時には必らず譜を揃へて持つて行つたさうであるが、曲目が終ると同時にじつに巧みに拍手を送り、一般聴衆を驚かしたとのことである。といふのは、一般聴衆は曲目が終りに近附いてゐても、それに気が附かぬのである。梶井君の拍手を耳にして初めてわれに返り、拍手を送るといつた案配なのだ。
これは高等学校時代、梶井君と一緒によく音楽会へ行つた僕の弟の話であるから、間違つてはゐないとおもふ。
浅見淵「梶井君について」
昭和10年9月
梶井の名作の殆んど凡ては、湯ヶ島で書かれたものでした。「もの分りの好い小父さん。」若いのにも拘らず、さう言ふ印象の彼と、それらの作品とは、一眼では繋がりの分らないものでした。私もときどき、瀬古の滝の彼の宿へ遊びに行きましたが、机と茶盆と煙草の吸殻のほかには何もないその部屋に、ウヴィガンの香水の空壜があったのを、異様なこととして、いまでも覚えてゐます。仕事をしてゐる気配は少しも見えないのに、紙屑籠には夥しい原稿の書き損じがありました。書けない、と言ふことさへ、人には気付かれぬ風をしてゐたかと思ひます。
(中略)
或るとき、そのときはおほぜいの仲間たちと一緒でしたが、皆で散歩の途中で、川の流れの激しいところを通りかかりました。「こんなに瀬の強いところでは、とても泳げないなァ、」誰かがさう言ったと思ひます。梶井は例の眼を細めた笑顔をして、「泳げますよ。泳いで見ませうか。」と言ふが早いか、さっと着物を脱いで、橋の上から川に飛び込みました。この人は危い、と私が思った最初でした。それから間もなくのことです。「梶井さんが見えなくなった。」と言って、村中の人が探しに出かけたことがありました。前の日に、天城を越えると言って出掛けたきり帰って来ないと言ふのです。
しかし、梶井はひょっこりと戻って来ました。そして、村中の人が探しに出掛けたと言ふことが分っても、平気でゐたと言ふことでした。何のために、どこへ行ったのか、誰も訊いたものはありませんし、彼もまた語りませんでした。
宇野千代「私の文学的回想記」
昭和47年4月
廿三日、今日も朝から息苦しい。然し、顔や手の浮腫は漸々減退して、殆んど平生に復しました。これと同時に、脚や足の甲がむく/\と浮腫みを増して来ました。そして、病人は肝臓がはれ出して痛むと言ひます。(中略)病人は暫くうつ/\としてゐましたが、其処へ弟がやつて来ますと、早速その声をきゝつけて、直ぐ医者へ行つて頓服をもらつて来てくれと言ひます。弟が、今頃行つても医者は往診で不在だから駄目だと言つても「さがして呉れ――自転車で――処方箋を貰つて来て呉れ――」と、止切れ/\にせがみました。弟はやむを得ず「ようし」と引受けて立上りましたが、直ぐ台所へ廻つて如何したらよいかと私に相談します。私は引受けた以上は病人のために医師を探してやるのが当然でもあり、またこれが最後となつては心残りだからと言つて、弟を出してやりました。
陰うつな暫時が過ぎてゆきました。其処へ弟が汗ばんだ顔で帰つて来て「基ちやん、貰つて来たぜ、市営住宅で探し当てた。サアお上り」と言つて薬を差出しました。病人は飛び付くやうにして水でそれを呑み下しました。然し最早や苦痛は少しも楽に成りません。病人は「如何したら良いんでせう」と私に相談です。私は暫く考へてゐましたが、願はくば臨終正念を持たしてやりたいと思ひまして「もうお前の息苦しさを助ける手当はこれで凡て仕尽してある。是迄しても楽にならぬでは仕方がない。然し、まだ悟りと言ふものが残つてゐる。若し幸にして悟れたら其の苦痛は無くなるだらう」と言ひますと、病人は「フーン」と言つて暫し瞑目してゐましたが、やがて「解りました。悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と仰臥した胸の上で合掌しました。其儘暫く瞑目してゐましたが、さすが眼の内に涙が見えました。それを見ると私は「あゝ、可愛想な事を言ふた」と思ひました。病人は「お母さん、もう何も苦しい事は有りません。この通り平気です。然し、私は恥かしい事を言ひました。勇に済みません。この東天下茶屋中を馳け廻つて医師を探せなどゝ無理を言ひました。どうぞ赦して下さい」と苦しげな息の下から止ぎれ止ぎれに言つて、あとはまた眼を閉ぢ、たゞ荒い息づかひが聞えるばかりでした。どうやらそのまゝ眠つてゆく様子です。
やれ/\眠つて呉れた、と二昼夜眠らなかつた私は今夜こそ一寸でも眠らねばならぬと考へて、毛布にくるまり病人の隣へ横になりましたがちつとも眠れません。ふと私は、一度脈をはかつてやらうと思つて病人の手を取つてみましたが、脈は何処に打つて居るやら、遥か奥の方に打つか打たぬかと思ふ程で、手の指先一寸程はイヤに冷たく成つて居ます。呼吸はと見ると三十位しか無い「はて、おかしいぞ」と思ひましたが、瞳孔を見てやらうにも私は眼が悪くてはつきり解りません。(中略)
医者は直ぐ駆けつけて呉れましたが、最早実に落着いたものです。「ひどう苦しみましたか……たいした苦しみがなければ、先づ結構な方です」といつた具合で、私がもうこれでお仕舞ひですかと訊ねますと、まだ一日位は保つだらうと言ふのでした。然し、医師を見送つて行つた者に向っては「あと二時間」とハツキリ宣告したとの事です。危い処で私は病人の死を知らずにゐる処でした。
やがて、一同が枕頭に集つて、綿の筆で口の内外へ水を塗つてやりました。私が「基次郎」と呼ぶと、病人はパツと眼を見開きますが「お母さんだぜ、分つて居るか」と言つても何の手応へもなく直ぐまた眼を閉ぢて仕舞ひます。漸々と出る息が長く引く息は短く、次第々々に呼吸の数も減つて行きます。そして、最後に大きく一つ息を吐いたと思ふと、それ切りパッタリと呼吸がとまつて仕舞ひました。時に三月二十四日午前二時。
梶井久(註、基次郎の母)「臨終まで」
昭和7年5月
梶井君も私もが伊豆にゐた頃、梶井君は私の作品集「伊豆の踊子」の校正をすつかり見てくれた。誤植や私の字癖の細かい注意を彼から受けながら、私は少からず狼狽したのを覚えてゐる。
送り仮名の不統一をとがめるやうなことならば、熟練した校正掛は鋭いであらう。そして私は、読めさへすればどうでもいいと、面倒臭がるであらう。梶井君の細かい注意にも、私はどうでもいいと答へた。しかし、私がさう答へたのは、校正といふことを離れて、自分の作品が裸にされた恥しさのためであつた。彼は私の作品の字のまちがひを校正したのでなく、作者の心の隙を校正したのであつた。さういふ感じが自然と私に来た。彼は静かに、注意深く、楽しげに、校正に没頭してくれたやうであつた。温い親切である。しかも作品のごまかしはすつかり掴んでしまつた。彼はさういふ男である。
手紙を書くのも、他人の作品を校正するのも、創作するのも、梶井君の気持は同じである。
青森の林檎を幾つか、女房が梶井君に上げたことがあつた。彼は温泉宿の一室で夜通し果実の肌を磨いて床の間に飾つた。翌る日、三好達治君がその一つを噛つた。梶井君はものも云はずに、いきなり三好君の頭を殴つた。
梶井君は菓子も茶も好きであつた。物惜みはなく、高い玉露をどつさり摘んで、入れかへ入れかへするといふ風であつたが、味ふともなく味ふ贅沢さに、彼の高貴な深さがあつた。それは彼の作品のいたるところに現れてゐる。
彼の友人達は彼にいい菓子なぞを実にしばしば送つて来た。彼は必ずその度毎に半分を私の宿へ持つて来てくれたものである。
川端康成「梶井基次郎」
昭和9年9月
梶井が私や淀野隆三のゐた麻布へ越して来たのは、翌年(大正十四年)の六月であつた。それから私達は毎日のやうに往き来するやうになつたが、この麻布時代の中頃までが、その健康も小康を保つてゐたやうだし、「以前京都にゐた頃は毎年のやうにこの季節に肋膜を悪くしたのですが、此方へ来てからはそんなことはなくなりました。」(橡の花)梶井にとつては一番明るかつた生活だつたやうに思はれると。いふのは、何より、その頃梶井はしつかりと文学に立命してゐたし、またその厳しい情熱を持ち続けてゐた。だから、勿論、梶井は私達と銀座のライオンや、プランタンや、本郷の百万石などで酔ひ痴れ、新橋の橋桁を渡つたり、電車の運転手の名札を奪つて、運転手に追ひかけられたり、相変らず馬鹿気たこともしてゐたが、最早京都時代のやうな、あの大童になつて、苦悩と、自暴と、後悔の間を彷徨するやうなことはなかつた。さうして、例へどんな激しい苦悩も、あの絶望的な病気へも、じつと凝視して動ぜぬ、作家の眼が出来てゐた。
その頃の梶井の生活は、実に豊であつた。花を愛し、樹を眺め、芭蕉を慕ひ、音楽を好み、(音痴な私は、音楽について語ることは出来ない。)雪舟や、セザンヌや、ゴツホを娯んでゐた。また梶井はその室内を自分の好みの道具類で飾つた。ある時、梶井は私に西洋皿を見せながら、その思ひつきににこにこしながら言つた。
「これ、エリザベス朝時代の皿だよ。」
梶井の耳には、汽車の車輪の音も、雨の音も、鉛筆の走る音さへも、楽しい音楽に聞えたり、時には我慢出来ない音楽に聞えたりした。また彼の目は、空の色を、雲の色を、椎茜の色を、さうして闇の色さへも見分けられた。さうしていつも楽しさうにそれを話した。
外村繁「梶井基次郎のこと」
昭和16年9月
これは又別の日、梶井君は僕の下宿へやつて来て、僕に檸檬を呉れたことがある。それはもう大分手垢によごれてゐて、冴えたレモン・エローの色ではなく、形も幾らか崩れてしまつてゐた。
「それ食つたらあかんぜ」
梶井君はそんなことを云ひながら、僕にその檸檬を渡した。
「うん」
私は梶井君のその言葉にかなり不快を感じながら、彼の侮蔑を弾き返すやうな調子でその果実を机の上に投出してしまつた。そして、私たちは直ぐまた一緒に街へ出かけていつた。その後、その檸檬は二三日私の机の上に投捨てられたまゝになつてゐたが、ある日下宿の子供がそれを見つけて、それはやがて、子供の玩具になつてしまつた。
その後、梶井君が「檸檬」を書いた時、僕はそれを読んで最後の所までくると、(畜生、そんなつもりだつたのか)と思はず歯の根を堅く噛みしめねばならなかつた。彼の檸檬は丸善の棚を木葉微塵にする程の爆弾であつたのだ。然も、この小説の主人公がそれを丸善の棚に据ゑつけたといふのは、どうやら作者の虚構であるとしか思へない僕には、その苦渋な気持は、何んとも遣場のない物として、永い間忘れることが出来なかつた。
中谷孝雄「「檸檬」の思ひ出」
昭和9年6月
私たちは直ぐ舟を返して街に出ることにしたのであるが、街に出ると直ぐ酒であつた。そして酔つぱらつたあげくが、梶井にとつては始めての遊廓であつた。私ともう一人の友人とは、その前から時々そんなところへも足を踏入れてゐたのであるが、その夜それを云ひ出したのは梶井であつた。
「俺に童貞を捨てさせろ……」といふやうなことを怒鳴りながら梶井は、祇園の石段下の電車通りへ大の字にねて動かうともしなかつた。そこで私たちは直ぐ近くの遊廓へ彼を連れていつたのであるが、女がくると梶井はひどくげろを吐いて、散々女をてこずらせた。幾分か故意にしてゐるやうな様子も見えたが、そのうちにおとなしく部屋へ引きあげていつた。
翌朝三人の金を計算してみても何程も残つてゐなかつたので、近所の質屋へ梶井のウオルサムを入れることにしたが、それきりその銀時計は彼の手許へ帰らなかつたのではなかつたかと思ふ。それ以来梶井は時々その夜のことを呪ふやうな口吻を漏らしたが、「純粋なものが分らなくなつた」とか「堕落」だとかいふ言葉には、私は全く取合はなかつた。不思議なことであるが、その夜のことがあるまで梶井は、私と英子との間をたゞの友人だと思つてゐたのださうである。信じられないやうな馬鹿々々しいことであるが、その後も話が当時のことに及ぶと、きまつてそのことを云ひだしたところから見ると、恐らく嘘ではなかつたのであらう。それ程当時の梶井は純真だつたとも云へるであらうが、何といつてもそれは梶井のうかつさである。
「瞞ましやがつたんや」と梶井は云ふのであつたが、私は何もかもおほつぴらにやつてゐたので、そんなことを聞いて私こそ面喰つたのである。
中谷孝雄「梶井基次郎―京都時代」
昭和15年11月
ところが、そのうちに、汽車通学の往復で、度々一緒になる同志社女学校専門部の一生徒に、ひそかな思ひを寄せ始めたわけです。どうして知つたのか、相手の名前だけを覚えてきて、日に幾度となくその名前を口にしたり、どうすれば無事にこちらの意中を先方に通ずることが出来るかといふやうな相談ばかり持ちかけるやうになりました。さうした事がしばらく続いたある日のこと、珍らしく上機嫌でやつてきて、いきなり「とう/\やりましたよ!」と嬉しさうに言ひますので、私は何だか不安になつてきて一体どうしたのかと尋ねますと、梶井さんは少し得意になつて自分のして来たことを話されました。それは、ある英詩集の中の一節に、恋を知つた一人の男が相手の女性に自分の至純な愛を訴へる処があるのださうで、梶井さんはその一頁をひき破つて、おとなしく三等車の片隅に腰かけてゐる先方の膝の上へ「これを読んで下さい」といつておいてきたといふのでした。話終ると、まるで男一匹が重大な仕事をなし遂げた時のやうな顔をして、あの大きい掌を宙に振りあげながら「細工はりゆう/\」などゝ言つて居りました。
処が、翌々日だつたか、今度は大変しよげてやつてきました。理由は、その朝ブリツヂの処で女に逢つたので、恐る/\「読んで下さいましたか」と尋ねたら、相手は大変迷惑さうに「知りません!」といつて横を向いて仕舞つたからださうで、梶井さんは、その「知りません」を、いかにも感に迫つた句調で二三回真似てみせたのでした。
どうして私が、特にこのやうな事を取り立てゝ書かねばならないかといふと、梶井さんはその事件の直後、生れて始めて小説を書いたからであります。たしか、二十五六枚のものでしたが、内容はその折の事件をモデルにしたもので、矢張り、胸を悪るくしてゐる一人の青年が主人公でした。その頃の私に、小説といふものゝよしあしなどが解る筈はなかつたのですが、読まして貰つてなか/\面白い小説だと思ひました。主人公が夜中熱に浮かされて、両手を宙にさしあげ、弱々しく誰かに救ひを求めるといふやうな場面が、ひどく私の心を打つたやうに記憶します。その小説の題は忘れましたが、表題の右肩に、例の達筆で「習作」と書き、反対側には「この拙なき一篇をT・N(女の名)に捧ぐ」と書いてあつたと思ひます。
平林英子「梶井さんの思ひ出」
昭和10年9月
梶井君に会ったのは昭和二年であった。私は尾崎士郎君に誘われて、その夏伊豆の湯ヶ島に出かけて行ったが、そこで病気を養っていた梶井君と知ったのである。(中略)
梶井君はその世古の滝から始終湯本館までやって来たが、私は暫くは梶井君が呼吸器をやられている人であるということに気がつかなかった。というのは、よくサルマタ一つで急流を渡ったり、当時小学生であった私の長男をつれて、裸かのまま釣りの餌にする岩虫を探しに一時間も二時間も川の縁を歩きまわったりしていたからである。後に解ったのであるが、八度位熟があっても、そうして裸かで歩きまわっていたらしい。
一寸見には胸に厚みがあり、岩乗そうに見える身体つきであったが、淀野君や三好君は、梶井君の病気が相当に進んでいることを心配していた。
梶井君は自分の病気の悪さを人にも感じさせまいとし、自分にも感じさせまいとして、そんなように振舞っていたのではないかと思う。
世古の滝の梶井君の宿に近いところに一軒の貸別荘があり、丁度それが空家になっていたが、みんなでその家に上り込み、そこで話していたことがある。その時、一個の西瓜が真二つに割られて、それがわれわれの前に置かれた。それを幾切れかに切らずに、どうして二つに割ったまま置かれたのかは、今は思い出せないが、兎に角、二つに割ったのを、サジでみんなで食べることになったのである。すると梶井君がいきなりサジをその一つに突っ込んで、赤い部分を掬い出し、口に持って行って、又そのサジを西瓜の中に突っ込んだ。
それで人々は手を出さなくなった。
これも梶井君が自分の病気を人にも自分にも感じさせまいという例の気持からやったのであろうが、併し一瞬間座の白けるものがあった。これは梶井君の計算違いから起ったものであると考えた私は、その白けた空気に何かはらはらするものを感じたが、併しその空気は長くは続かなかった。それを感じたに違いない梶井君が、感じない表情で押し通したからである。それで却ってみんなが救われたのであると思う。――これは梶井君の神経のなみなみならぬ強靭さを示すものと云って好いであろう。「これはえらいぞ」と私は感じたものである。
広津和郎「梶井君の強靭さ」
昭和34年7月
梶井君は気持の優しい人で、そのことは「若き詩人の手紙」(角川文庫)に収められた彼の友人たちやその夫人たちに送った数多くの手紙の美しさにもはっきりと現れているが、その風貌は決して優男ではなかった。むしろ魁偉の方だった。そして、根は正直な人だったのだろう、次のような挿話も残している。
それは、その年の秋の終り頃、私が一度大阪に戻って、また湯ヶ島へ行った時だった。ある日、彼はちょっと上京して来ると私に告げ、半月ほどして戻って来るのだが、その間に、当時大森に住んでいた尾崎士郎・宇野千代夫妻(間もなく離婚)を訪ねて行ったらしい。というのは、その夏尾崎・宇野夫妻は湯本館に来ていて、梶井君と心安くなっていたらしいのだ。
さて、訪ねて行ってみると、夫妻は家にいず、近くのダンス・ホールにいるというので、梶井君はダンス・ホールに行き、彼らに会った。「人生劇場」の作者がダンスなどするわけがなく、踊ったのは宇野千代さんで、尾崎さんは友人とホールのバーで飲んでいたらしい。梶井君もこれに加わった。その挙句、酔ってしまった梶井君は、ホールにひびき渡る大声で、先輩の尾崎さんに向って叫んだ。
「おい、尾崎士郎。浪花節みたいな小説書くのん、止めろー」
これは後日私が宇野千代さんから聞いた話だから本当らしい。
藤沢桓夫「梶井基次郎の面影」
昭和48年7月
丸山 梶井君は、中谷君とつきあっていて、学校の古ダヌキでしたね。ほんとうに旧制高等学校生徒のイメージにはまりこんだような男で、わりあい制服制帽が好きなんです。ある日、ちゃんと制服を着ているのだが、足ははだしの男が、悠然と裏門から入ってくるのを、あれが梶井基次郎だ、とだれかが教えてくれたのが、彼を知った最初です。(中略)
彼は、弊衣破帽のくせに、いつもバックスキンの袋にネビー・カットかなんかつめていて、パイプで吸ったり、巻いて吸ったり、とにかくすることがしゃれていました。これは個性の強い人だなと思いました。
ところが、彼が話すことは、いつも試験の心配なんです。(笑い)またこんども留年になるのではないか、と。卒業のときは、こんど駄目なら退校というところだったと思う。そういう心配、悲しみみたいなものをいつも背負っていました。僕は、そういう梶井君が気の毒で、たぶん卒業できないだろうと思っていたけれども、ともかく及第して東大に入った。たいへん安心したことを覚えています。
河盛 梶井君が、あんまり汚いので、同級生が金を出しあって散髪をさせたという話がある。(笑い)中谷君については、よく覚えている。あれは独法で、見るからに不良じみていましたね。
丸山 三高の生徒がよく行った栗めしを食わせる「清滝」では帰りの夜道にお土産に小田原提灯みたいなものをくれましたね。
ところが梶井君が清滝に行くと、お断わりなんです。それは梶井君が、いつか、ここで暴れたらしい。泉水に碁盤をほうり込んだり、自分も飛び込んで、池の鯉を追っかけ回したことがある。「みなさん活発でいいけれども、梶井さんだけはお断わりだ」ということになったらしい。(笑い)それで梶井君は、人のマントのなかに隠れて上がったと、たしか中谷君に聞きました。やはり、彼は胸を病んでいたから、爆発的に悲しみが出るんでしょうね。ただの乱暴狼藉ではないものがあったのでしょう。
丸山薫・河盛好蔵「紅、燃ゆる」
昭和44年2月
「冬の日」は一九二七年三月の発表となつてゐる。作者は二十六歳。この前年の暮れに彼は病に耐へずつひに東京を去つて伊豆の湯ヶ島に赴いてゐる。転地と半途退学とをくどく奨めたのはこの私であつた。彼はまだそれまで籍のあった東大英文科を卒業するつもりでゐた。私はそれが健康の上からいつても彼のためには殆んど無意味に近いことを説くと、彼はひどく不機嫌になつて口を緘してしまつた。しばらくして彼は、これまで永らく、自分はとり分け母に苦労をかけて学校の方をここまで来たのを、今さらあつさり放擲しては、母はどんなに驚き悲しむだらう、そんなことをしては何とも申訳がない、といつてまた私から眼をそらしてむつつりと口を緘した。その夜はそんなことで話は結着しなかつたが、間もなく私が冬休みで郷里に帰つた、その後で彼はやはり伊豆へ転地をしたのであつた。さうしてそのまま、学校の方は、自然半途退学といふ結果になつた。彼が決心にぐづついたのも無理はなかつたが、事情は全くやむを得なかつたのを、お母さんも後には得心されたであらう。(中略)当時私たちは、麻布の狸穴に、一つ家の二階に、二部屋きりのその二部屋を占領して暮してゐた。ある晩彼が唐紙越しに私を呼んだ。
――葡萄酒を見せてやらうか……美しいだらう……
さう言つて、彼は硝子のコップを片手にささげるやうにして電燈に透して見せた。葡萄酒はコップの七分目ばかりを満して、なるほど鮮明で美しかつた。それがつい今しがた彼がむせんで吐いたばかりの喀血だつたのは、しばらくして種を明かされるまで、ちよつと私には見当がつきかねた。彼にはそんな大胆な嫌やがらせをして人をからかつてみる、野放図と茶目つ気の入りまじつた何かがあつた。
三好達治「梶井基次郎」
昭和25年2,3月
■トップにもどる