開高健 【かいこう・たけし】

小説家。昭和5年12月30日〜平成元年12月9日。大阪市天王寺区に生まれる。昭和24年、大阪市立大学法学科に入学し、同人誌などに小説の発表を始める。昭和29年、サントリーの宣伝部に入社。コピーライターとして活躍する傍ら、小説の執筆を続け、組織と人間の関係性を寓話的に描いた「パニック」(昭和32)、「裸の王様」(昭和33)により新進作家としての地歩を確立。以後は執筆業に専念し、行動する作家として国内外を精力的に巡り歩き、社会性の高い骨太の作品を多く発表した。昭和39年にはベトナム戦争臨時特派員となり、その際の凄烈な体験から、ルポルタージュ「ベトナム戦記」(昭和40)、小説「輝ける闇」(昭和43)などが生まれた。また、無類の釣り好きとして知られ、昭和55年にはアラスカから南北アメリカ大陸を釣りをしながら縦断した。平成元年12月9日、食道癌により死去。享年58歳。代表作は「パニック」「日本三文オペラ」「ベトナム戦記」「輝ける闇」「夏の闇」など。

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開高健@近現代日本文学史年表


著作目録

*制作未定*


回想録

 なぜ開高健とつき合わなくなり、むしろ避けるようになったか、というと、ベトナムとかノン・ポリだけではなく、やはりソウウツ気質ということがある。(中略)
 わたしもこれの激烈なのに二度罹り、もっぱらクスリで治したが、開高健はウイスキーで一日一日を「うっちゃった」らしく、それではカラダをこわしてしまう。
 ある夜、彼は新宿からの帰途、上機嫌で、「オレの家へ来い」と言う。ところが自分の家の入り口が見えたとたんに、機嫌は激変し、コワイ眼をして黙りこみ、家に入ると自分の部屋にこもってしまった。冨士真奈美と二人でコタツで話したのは、この夜だったかも知れない。牧羊子が困った顔で何か呟いたようでもあったが……。
 たしかその頃から、会わなくなり、やがて開高健は太ってきた。
 ソウウツとソウウツでは所詮、ツキ合いは無理であった。ソウウツの相手は分裂気質かテンカン質の人に限ると思う。
飯島耕一「三十歳のまだ痩せていた彼と」
平成2年7月



 いつだったかある雑誌の新人賞の選考の折りに、私は氏の「夏の闇」を評価しているのだが、あなたはもうとても三部作とかいうこの作品の続きを書けないだろう、あなたは実際にベトナムにいってあの戦争とそこにいる人々を目にして、日本で喧伝されているそれと実際の戦争がいかに違うか、日本でのベ平連などの反戦運動がいかに独りよがりのものでしかないかを知ってしまった限り、あの小説を最初の思惑のようには完成出来はしまい、私もまた実際にベトナムの戦場を覗いてきたものとしてそれがよくわかる、といったことがある。
 その時氏が浮かべた微苦笑の深さを今でも覚えている。
 そして何かをいいかけながら氏はついに何もいわなかった。それは氏が鋭敏なジャアナリスティックな感覚でベトナムの戦争を素材として取り込んだとしてもなお、氏の本物の作家としての視線があの戦争を巡る日本においてのもろもろの騒ぎの嘘を見通していたからに他なるまい。
 そこらが、あの他人の戦争騒ぎではしゃぐだけはしゃぎ他人をアジっておきながら、現実の結末を目にしながらも、今では口を拭ってそ知らぬ顔でいるあのえせ作家やえせインテリたちと氏が画然と異なる所以でもある。
石原慎太郎「あの時代に」
平成2年2月



 もっとも、そのとき開高健は、あまり元気があるとはいえなかった。開高の魚釣りについて、私が「なんかちょっと、哀しい感じもあるんだ」といったのがきっかけになり、石原(慎太郎)が「ジェニュインなものがない」といい出したり、大江(健三郎)が「小説を書いてもらいたい」と注文をつけたりして、開高はしばらく防戦に余念がないという趣きがなくもなかったからである。
 まったく、そういえば、開高健という作家は、ちょっと風変りな作家だった。れっきとした小説家でありながら、いつも小説から逃げまわっているように見えた。いや、小説から逃げるためなら、ヴェトナムにでもグルメにでも魚釣りにでも、手当りしだいかつ饒舌に、没入してみせるというところがあった。“行動的”な作家という世評にも拘らず、肝心の小説を書くという行動は、容易に起したがらないというふうであった。
 このうち、“行動的”や饒舌の方は、あるいは開高を悩ませていた一種の神経症のあらわれだったかも知れない。つまり、それは、絶対に動きたくない自分に、直面することをためらいつづけるという神経症である。(中略)
 だが、およそ二十年ほど前、開高はこの神経症から立ち直り、見事な小説を書いたことがあった。いうまでもなくそれは、『夏の闇』である。「新潮」誌上でこの作品に接したとき、文字通り私は息を呑んだ。開高がここでは、絶対に動きたくない自分に向い合いつづけていた。彼は才気に富んだ饒舌ではなくて、沈黙を内に秘めた深い声で語りはじめていた。そして、その沈黙の底を覗き込んでみると、そこには何かが死滅したあとの、焼けただれた風景がひろがっていた。昭和ひと桁の人間なら、誰もが心の底に隠し持っているはずの、あの荒涼としたもの淋しい風景が。
江藤淳「近頃は宝石に……」
平成2年2月



 父の私生活は、父が家族を宣伝することを潔しとしない人であったから、父が大阪で結婚し、三年たらずのうちに東京に出て、芥川賞をとって以来、十年ごとに大病を患った事実に、あまり気付く人はいないのではないかと思う。
 父についてのグルメにしてグルマンぶりや、そのころまでは人の訪れがなかった辺境の奥地で、巨人ぶりを発揮した開高健は理解されるが、その同じ人が自宅で胆石を患って、油汗を流し苦痛に堪えている図や、タイで朝早く釣りのぬけがけをしようとして桟橋から落ち、車椅子で羽田空港に帰ってきたときの家族の驚きと、帰国後、一年ばかり妻牧羊子が付きっきりで介護に当たった苦労については、日常の暮らしをともにする子どもの私以外は語る権利を持ちにくいと思われる。
 芥川賞をもらうと父はすぐに黄疸にかかり、毎日ほうれん草とシジミ汁の食事療法で、三ヶ月で完治した。このとき主治医は母をご立派と誉めた。執筆活動はその間止めていない――目と頭と手はフル回転可能だから外見には判らなかったろうが。
 そのつぎはべトナム戦争の従軍報道記者として、秋元カメラマンと二人だけで現地の最前線に参加したときのことだ。丁度私が慶大の中等部入試の日にベトナムの父の消息が断たれて、行方不明の記事が朝日新聞に載った。楽天家でノーテンキな私も、このときばかりは頭頂に斧の一撃をくらった劇痛で、さすがに、しばらくは息も止まった。しっかりとこの記憶は刻まれ、今でも時折、夢の中で恐怖の息詰まりに、もがいて目覚めることがある。
開高道子「父開高健から学んだこと」
平成6年12月



 彼が我が家に泊まっていたときのことだ。私たち欧米人はよく、英語の卑猥な歌を作ってはふざけて楽しむのだが、それが面白いといって彼はすっかり感心していた。このとき私が替え歌にしてみせたフランス国歌が、フランス通の彼にはひどく気に入ったらしく、それこそ腹を抱えて笑っていたっけ。
「フランス人が便所に行って……」からはじまるまことに汚いその替え歌の歌詞を、開高さんはすっかり覚え込んでしまったのだ。フランスにとっては国辱ものだが、それでもまあ、英国とフランスの間でまた百年戦争がはじまるよりはましだろう。
 それからしばらくして、帝国ホテルのロビーで彼と会うことになって、私は五分ほど早めにそこに到着したが、開高さんのほうがそれよりも早かった。彼が約束の時間よりずっと早くから来ないではいられない人だということを、そのときの私はまだ知らなかったのである。
 ロビーの向こうから聞こえてくるのは、あの間違えようのない彼の大声だ。例のフランス国家のリフレーンと、それからあの歌詞……。
「フランス人が便所に行って、すてきなクソをたれたのさ……」。
 一瞬私の頭の中はパニックに陥ったものだ。笑うべきか、身を隠すべきか、それとも一目散にその場を逃げだすべきか。
C・W・ニコル「開高健氏を偲ぶ」
平成2年2月



 開高健氏は肥ってしまった。どうしてあんなに肥ってしまったか。男はすべて痩せている人が好きな私は、肥りつづけてとどまるところもしらないような開高さんを見るのが悲しかった。しかし、開高さんと講演旅行を一緒にして、その健啖ぶりに、つぶさにつきあうに及んで、これなら肥るのが当り前だと思った。
 開高さんの話術は面白く絶品で、話題が超現実的で壮大なので、聞いているとすっかりこっちまでいい気分になり、まだ見ぬ外国の神秘的な湖のほとりの古城で何ヶ月も寝て暮し、美酒珍肴に飽食し、釣などして眠気をさまし、またしても美酒珍肴に舌つづみをうっているような夢見心地にさせられるから不思議である。ひとえに開高さんの話術の妙のせいであろう。
 私は想像力があるので、開高さんのおかげで、世界の美酒をのみつくし、またとは得難い美味を舌にしたような想いを度々させてもらった。
瀬戸内晴美「朝のコーヒー」
昭和48年12月



 一週間ぐらい釣れないのは平気なんです。三、四日は「まだまだ」「ぜんぜん」とかいってね。四日目、五日目になってくると「明日はどうやねん」「いける。いけます。いけると思います」とだんだん語彙が少なくなって「大丈夫でしょう」とかね、「明日はいけるんじゃないですか、先生は今まで二日や三日で釣れたことないじゃないですか」ってごまかしてね。
 それが一週間過ぎ、十日過ぎてくると顔を合わせないようにしてそむけて、別の話題、別の話題を探すようになってくるわけ。「オイ、高橋君」「ハイ」「そろそろ煮えてきたぞ」「あ、そうですか、すいません、どうも」なんかわからないけど謝ったりして……。
 一九八八年は完璧に二度ふられてるんですよ。中国の奥地に巨大魚がいるっていうんでいってね、そのあとスコットランドにいって、それも完璧にふられた。この時はもう釣れる釣れないというより、開高先生のなかでは、過ぎちゃってるんだなって感じがちらっとしましたね。それまではなにがなんでも釣らなくちゃという意気込みというか、思い込みがあったんですけれども……。
 とくにそのあとのカナダにいった最後の旅では、もうほとんど釣ることがしんどいというか、釣れても釣れんでもええわ、と達観しちゃったみたいでしたね。パワーがなくなったのかと思ったけど、そうじゃなくて、「大きいのでも一匹、小さいのでも一匹、一匹は一匹、女は女や」といったりしてましたものね。「もう、ええねん」という感じがしてました。
高橋f「開高健と旅して釣りして」
平成2年8月



 開高は、ほとんど先天的に、身近かな誰それをめぐっての噂話が下手だった。まったく興味を示さなかった。同時代人ではあっても直接の関係がない人びと、そして時空をこえた大きな存在、その種の話題は好きであり豊富だった。しかし、彼がなによりも嫌ったのは、湿気をおびた浮世のシガラミであった。体をふるわせるようにして斥けた。よほど好みにあう人の場合でも、その言及は断片的であり淡白だった。
 そこで、二人にとってのキズナである村元に少し触れたあと、儀礼を終えてせいせいした面持ちで、さっそくに文学談がはじまった。広津和郎の回想によると、宇野浩二は、話柄が俗事に及ぶや否や、それより文学の話をしようよ、と、急いでさえぎった由であるが、それに劣らず、若き日の開高も、文学談しか好まなかった。のち、『夏の闇』で自分を完成させてからは、逆に、文学談を拒絶するようになるのだが、それまでに、彼は、こと文学談に関するかぎり、生涯の予定数を終了したのかもしれない。そうとでも言いたくなるほど、若き日の彼は、会っている間じゅうずっと、文学談でこってり私を苦しめた。
谷沢永一「回想開高健」
平成3年12月



山崎 『裸の王様』で大江健三郎さんの『死者の奢り』と争った、昭和三十二年度下半期の芥川賞のときは凄かったんでしょう。
谷沢 発表の当日、マスコミはひとり残らず板橋の大江健三郎の下宿に行っていたんですよ。開高のところには誰も来ていなかった。彼は下井草の家でひとり報せを待っていた。すると、おもてで「オーライ、オーライ」と言う声がする。彼は思わず「来たーっ!」と。
山崎 ……? 
谷沢 マスコミの取材車が家の前の狭い露地に入って来たんですよ(笑)。開高に賞が決まった途端、たちまち押し寄せて来たんです。「オーライ」の声で彼は自分の受賞を知ったというわけです。
山崎 なるほどねえ(笑)。でもその直後に例の『なまけもの』事件があったんですよね。
谷沢 あの作品はもともと「群像」に渡したものだったんです。それを手直しのためにたまたま持ち帰っていて、机の上に乗っていた。そこへ芥川賞の報せがきたわけです。当然、さあ受賞第一作は、という話になる。当時、「文学界」と受賞第一作というのは切り離して考えられないものだったんですね。それで、その『なまけもの』は「文学界」にいってしまった。「群像」側は激怒して、以後、彼を誌面に登場させないという措置を取った。これが昭和四十八年の九月号まで続いたというわけです。
山崎 不運としか言いようがないですね。
谷沢 しかし開高は一度もつらいとは言わなかった。このことに限らず、彼はある時期から身辺のこと、特に自分がつらいとか苦しいことについては全く口にしなくなったんです。
谷沢永一・山崎正和「その一生その文学」
平成2年2月



 才能を感じさせる人はままいるけれども、才能と同時にたしかな存在感を持った人はめったにいない。が、開高健はその両方を併せ持つ稀な人であると、私はつねづね感じていた。
 私が彼に会うのはパーティの席ぐらいのものであったが、彼がそこにいるとたしかにいるという感じがした。からだも声も大きいが、たんに大きいというだけでなしに、一個の優れた才能がそこにデンと存在しているという感じがしたのである。陽性で、たえず笑いを浮べ、会話は機知とユーモアに富み、あとからあとから何かがほとばしり出てくるようであった。ああいう人を私はほかにほとんど知らない。
中野孝次「追悼開高健」



向井 彼が世間的に有名になったのは、釣り紀行、「オーパ!」からですよね。それがあってテレビに出たりしたから。それまでは文壇という狭い枠の中でしか評価されてなかった。ほんとに彼の本は、あんまり売れなかったんです。人気作家になったのは、釣り紀行を書いてからでしょう。でもそれを通じて読者が彼の文学の世界に入っていったというのは、いいことですね。
日野 十年くらい前に聞いた話ですけど、誰かが名古屋に行ったら、デパートの周りに長蛇の列が出来てて、それが階段を上がって、六階か七階までずうっと続いている。何だろうと思って行ってみたら、「開高健先生サイン会」って書いてあって、そこに開高健が現われたら、長蛇の列が、一斉に「ウォーッ」と叫び声を上げたので、もうぶったまげたと。
向井 何かそう叫ばせるようなところが、彼にはありましたね。
日野啓三・向井敏「開高文学の“輝ける闇”」
平成2年2月



長篇『夏の闇』を完成するときだったか、開高さんは何ヶ月かにわたって新潮社のクラブにこもっていたことがある。その直後に、私もおなじクラブにとまることになったとき、たしか開高さんは置き手紙をして、クラブの近所のたべものやのどこのなにがうまいかを、手に取るように書きのこしてくれたものである。新潮クラブは朝飯だけは管理の小母さんがつくってくれることになっていたが、昼飯と晩飯は出前をたのむか、自分でたべにでかける建て前になっていた。うまいもの好きの開高さんは数ヶ月滞在した豊富な経験をフルに活かして、うまいものやを私のために書きのこしておいてくれたのである。これは釣のアナ場を他人に教えるみたいなことで、誰にもできる親切とはいいがたいだろう。無論、私がこの開高さんの親切な忠告を、百パーセント利用したことは断わるまでもない。
平野謙「開高健の親切」
昭和49年6月



丸谷 ……これは一度書いた話だけれど、山形県は酒田の港の突堤で、ル・ポトフーという料理店の調理人二人が夜釣りに行っていたら、釣れないって愚痴をこぼす一人の男がいる。その愚痴の主な部分は大阪弁であって、そのほかにギリシャ、ラテン、英独仏語が入り、物凄く声が大きい。一体この男はなんだろう、こんなに大きな声を出したら釣れる魚も皆逃げてしまう、なんて変な人がいるんだろうと思っていた。その翌日、東京の小説家で開高健という人がその料理店に食事をしに来た。それがゆうべ見かけたのと同じ人であったと(笑)。そういう話があるんです。
吉行 よくできた話だけれど。
丸谷 ところが、開高健の書く釣りの随筆を読むと、大きな声を出して釣っているという感じはまったくない。森閑とした宇宙の中で、ひとり一竿を携えて静寂を釣っている哲人、といったような感じで彼は書いている。この違いは何か。彼の力量をもってすれば、さんざん罵りながら釣っている彼自身を書くぐらいなんでもないわけでしょう。ところがそこに、やはり文学の伝統というものがありましてね、釣りの文学の伝統は昔から静寂がつきものだったでしょ。太公望の伝説でもそうでしょう。だものだから、つい文学の伝統に引っ張られて、開高健は自己欺瞞を、結果的にやっているのである(笑)。
丸谷才一・吉行淳之介「大声について篇」
昭和56年5月



 彼と会った最初は、昭和三十一年だった。「このひとは最近大阪から来たばかりなんだよ」といって、痩せた黒縁の眼鏡の青年を紹介してくれたのは、安部公房だったと記憶している。寿屋の宣伝部員として東京に出て来た開高は、すでに小説を書きはじめていたものの、文学上の知人は殆どいなかったらしい。
「どうやって暮していいものか、教えてくれる人もなくて、途方に暮れていた。知人らしい知人もなく、先輩らしい先輩もいない」、
 と彼は最後の作品となった『珠玉』のなかで、当時をふりかえって書いている。
 そんな環境におかれていたせいか、しばしば電話をかけて来たし、長い手紙もくれた。英語塾の教師をしていたときには、べつの教室の講義をあらかじめこっそりきいておいて、それをそっくりそのまま受講生のまえで喋ったというようなはなしを、この「焼跡派」の独得な話術に感心しながらきいたりした。
村松剛「駆け抜けて行った男」
平成2年2月



 開高の第一印象は、実に卒直な男だということだった。初めて会って、五分も経つと、いきなり彼は、友人としての私に斬り込んでくるという感じがあった。その感じは痛快だった。(中略)
 当時の寿屋の、東京の茅場町支店は、これがあのサントリーであるかと目を疑うようなオンボロの木造社屋であり、出勤に関する管理はもとより、服装についても(社員は紺の上っ張りを着せられた)、社内での言動についても、なかなかにヤカマシイ会社であった。言ってみれば、特に営業部などは、酒屋の丁稚の感があった。
 そのなかで、開高健一人が、野放図で、イキイキしていた。それが許されたのは、なんといっても、彼が、わが社のワンマンの、エースのコピーライターであり、彼の力を全社員が認め、全社員がそれに期待していたからである。彼の書く一行のコピーで売上げが倍増するという期待があった。それほどに、坂根進のプラン、柳原良平のイラストレーション、開高健のコピーという寿屋の広告は、ひとつひとつが粒だっており、跳ねあがり、冴えわたっていた。
山口瞳「職場での開高健」
昭和49年3月

昭和31年 昭和40年2月 昭和54年


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