石川淳 【いしかわ・じゅん】

小説家。本名、石川淳(きよし)。明治32年3月7日〜昭和62年12月29日。東京市浅草区に生まれる。大正9年、東京外語大仏語科を卒業。ジッドなどの翻訳を経て、「佳人」(昭和10)により作家活動を開始。流暢な饒舌体で、閉塞した自意識からの脱却を試み、「普賢」(昭和11)により作家的地歩を確立した。しかし、「マルスの歌」(昭和13)が反戦思想のかどで発禁になるなど、戦時中は創作に制約を受け、江戸文学などの研究に没頭する。戦後は、「焼跡のイエス」(昭和21)など、戦後風俗と聖書伝説を重ね合わせた作品を次々に発表。太宰治らと共に無頼派と呼ばれた。昭和28年の「鷹」からは、作風を転じ、現代社会への反逆精神を神話的・幻想的イメージで描いた。晩年には10年をかけた大作「狂風記」(昭和46〜55)を完成させる。昭和62年12月29日、肺癌により死去。享年88歳。代表作は「普賢」「焼跡のイエス」「鷹」「紫苑物語」「狂風記」など。

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石川淳@近現代日本文学史年表



著作目録

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回想録

 思えば新橋のカストリ横丁以来の石川さんとのおつき合いである。あの時は、こちらも荒れていたが、石川さんも凄かった。元来不逞と礼節が同居しているような人だから、アルコールで礼節の方がさよならをすると、後はコワい。静かに盃を重ねているが、ある瞬間からガラリと変って、人の肺腑を抉るような罵声がとび出してくる。江戸弁と漢語がまじり合って、さわやかな毒舌となる。
「オマエのような、目に一丁字なきやからはな……」
 が出てくるに及んで、それはクライマックスであった。目がすわっているし、一寸勇しくなる。ここであばれても、対手は小さな人だから、たいしたことはないと思っていると、やがて静かになる。こちらが「しゃらくせえ」ことさえ言わなければ、まことにおだやかなお酒なのだ。
池島信平「石川淳さんと文春クラブ」
昭和37年3月



 もともとこの地番はかなり広い区域にわたっていたようで、すぐ隣の家の住民ではなかったけれども、まだ小学校低学年だった一九四三年生まれの私にとって、石川淳という大作家は、いわば「近所のおじさん」であったことになるわけだ。(中略)埃の舞いたつ砂利道で、私たちは毎日メンコや罐蹴りや水雷艦長をした。空が青かった。草ぼうぼうの空地にはトンボや蜜蜂がいっぱいいた。夕暮になると、拍子木の澄んだ音色がひびき、紙芝居のパフォーマンスがはじまった。
 そんななかを、ちょっと気むずかしそうな「近所のおじさん」が通りがかる。行く先は酒場か、出版社か、映画館か。ときには「家来」らしい美女をつれて、ホームスパンの上着にホワイトシャツに渋いネクタイ、ソフト帽をかぶって闊歩する初老の紳士の姿が、いまではなにかメルヘンの一場面のように思いおこされてくる。
 石川淳が間借りをしていたのはWさんの家だ。そのW家と私の家とはつきあいがあったので、ときたま子どもの耳にも作家のうわさがとどいた。なんでもちょっと変り者、というか「畸人」らしい。あまり口をきかず、クラシックのレコードをかけてとじこもっていることが多い。かと思うと新内流しをつれてきたりする。物資の乏しい時代だが、肉料理を盛大に食べ、コーヒーも欠かさない。酒はもちろん。これが入ると荒れることもある。そういえば近くの名代の鮨屋で、おやじと派手に喧嘩したというようなゴシップもあった。
巌谷国士「メルヘンの時代」
平成2年4月



 宵越しの金を持たない、いなせな老学者である。和漢洋に通じるおそろしく「学」の幅の広い深い人で、議論になったら、大抵の人はかなわない。亡くなった三好達治氏と大論争をやるところを見たことがあるが、三好さんもガンコ一徹だから、なかなかあとへは引かない。
「おめえみてえなバカヤローはねえ」と淳さんはへらへらしながらまくしたてる。片方は「いや、お前の方がまちがってる」と、あごを引いて二重あごにしてぶつぶつ言う。何とも奇妙な論争であった。
 近頃はさすがにひかえ目になったが、数年前まではまったくでたらめな呑みっぷりであった。とことんまで呑んだ。呑んであたりのものを罵倒した。それが実に痛快でさわやかで、気持がよかった。(中略)
 松葉屋の大広間で、大酒宴となることもあった。その頃はもう淳さんはベロベロである。涙を流し(泣いているのではない)よだれをたらし、「バカヤロー」を連発し、あごをつきだし、盃の酒を半分ぐらいこぼしながら呑みつづけるのである。
 夫人が同伴するようになってからも、かえって安心したように、あびるように呑んでいた。夫人が何か注意すると、
「うるせえ、おめえは下ってろ」と一喝して、呑んでいた。
巌谷大四「ベロン亭 石川淳」
昭和44年8月



私が会った日は午後三時頃、赤坂の料亭で酒がはじまり、速記はそこで終ったのだが、そのあと四谷、銀座、新宿とバーを流れ歩き、家へ帰ったのはいつものように深夜であった。この一夜の観察では、氏は行くさきざきで女と見ると口説きにかかるのだった。本気とも半本気とも気まぐれともつきかねる風貌と姿勢と文体において、しばしば聞いちゃいられない甘ッたるさで女を口説きにかかる。しかし、悪がらみはけっしてなさらず、途中でフッとやめてしまったり、酔って寝こんでしまったり、風の中の羽根のようであった。その自由さと猫撫声の口説の甘ッたるさの開きが奇妙であり、新鮮でもあった。
 しかし、氏と親しく接触している出版人の教えてくれたところでは、氏はなかなかのお酒落であり、紳士であるが、好悪がはげしく、カンシャク持ちであり、話をしていて気に入らなくなるといきなりべらんめえで相手を面罵するか、だまりこむかである。そうでなければその場にいる女を老若美醜にかまうことなく口説きにかかる。どなりつけるのは男だけで、女にはつねにとろとろに甘い。男をどなるときは“この低能野郎”か“バカヤロウ”、二つのうちのどちらかである。
開高健「隠者として、風として」
昭和63年4月



 石川淳もこの頃は、美しい、そして酒量に於ても飲みつぷりに於ても彼にひけをとらない奥さんを連れて歩いてゐるが、戦前はよく一人で、といふのは相手もなしに、出雲橋のはせ川で飲んでゐた。窓の外は、今は埋立てられてビルが建つてゐるが、その頃は三十間堀で、たまにアベツクの貸ボートが通つたりした。淳さんはその窓際で、東の空の夏雲にうつる夕映えを眺めながら、鰹の刺身か何かで一杯やつてゐた。然し知り合ひが別のテーブルヘ来て下手に話がはずんだりして来ると、突然「馬鹿野郎!」と大喝して仲間にはいつて来るので、その酔つてゐることが分るのであつた。
 或る時、そんな形で私は小林秀雄とさしでゐた。そしてたまたま蓮根を食べながら、それが好物の小林は各地の品の品評を初めた。すると向ふから淳さんが、「そりや、不忍の池のが一番さ」と口を出した。この二人のからみ上戸の話がもつれるには、あと二三回の応酬でこと足りた。小林は、「おい徹ちやん、こんな馬鹿がゐちや、酒がうまくねえ。出よう。」といひ捨てたまゝ、表へ出た。私は不様な格好で後を追つた。
河上徹太郎「蓮根論争」
昭和36年1月



 それから更にこの春二人(註、石川淳と河上徹太郎)が芸術院賞の文学部門に入選した。あの格式ばつた授賞式前後の諸行事に、彼が神妙な顔をしてつとめてゐるので、私もつき合ふのに気持が楽だつたといふものである。
 式の当日、資料室といふ所に受賞者一同がその作品を列べて、陛下の臨御を待ち受け、それぞれ自作の説明をすることになつてゐる。(中略)やがて十人余りの美術部門が終ると我々の番だ。それまでの話の工合から見ても、陛下は一応の予備知識を持つておいでの上に、仲々質問の上での名タレントである。(但し遺憾ながら愛嬌に乏しいのは惜しいものである。)その陛下が、高橋院長、池田首相、荒木文相等を随へて石川君の前へ現れるや、彼は開口一番滔々としやべり出した。「私の書いたこんなものは、もう全く行き当りばつたりで、何を書いたのだかさつぱり分りません。今からやつて見ましても、自分でも何も覚えてゐないのです。」云々。彼は文学作品の即興性といふやうなことが語りたかつたのである。そしてそこに文学の面白さがあるのを説きたかつたらしい。彼はそれを謙遜とユーモアのうちに諄々と述べたのだ。然し彼の話しっぷりは、今までの人達のと余りにも違つてゐた。陛下は一寸戸惑いした。そしてそれまで盛に口をついて出てゐた、例のお得意の「ア、そオ」がついに聞かれなかつた。それでも二三の質問があつて、彼の「謁見」は終つたのだが、この名タレントを絶句させたのは、石川君一人であつた。
河上徹太郎「石川淳と私」
昭和36年



 戦争中の石川淳は麻布の消防団員であった。警察へ出頭を命ぜられ、ムリに任命されてしまったので、
「むかし肺病だったが、それでも、よろしいか」
「結構である」
「下駄ばきで消火に当るのは、不都合であるから、靴を世話したまえ」
「下駄ばきでも不都合ではない。誰もお前が東京の火を消しとめるとは期待していない。すでに東京はあの通りだ」
 と云って焼野原の下町を示して見せたそうである。
 焼け残った銀座の国民酒場で、私はよく彼とぶつかった。我々は一パイのウイスキーをのむために必死であったが、彼は下駄ばきに、背に鉄カブトをくくりつけ、それが消防団員石川淳の戦備ととのった勇姿の全部であった。
坂口安吾「安吾巷談 熱海復興」
昭和25年7月



 その席で私は石川淳に初めて会った。石川淳は酔ってしきりと得意の毒舌を弄していた。私も酔っていたが、酔った私の耳に、石川淳のべらんめえ調が小林秀雄のそれとそっくりに聞えた。そこにいるのは石川淳でなくて、小林秀雄がいるかのように、酔った私に錯覚されるくらいだった。それは私が小林秀雄にはよくからまれて、その語調は聞きなれているが、石川淳とはそのとき初対面でその話しっぷりを耳にするのは初めてだったということもあったろう。するうち私はその毒舌に癇が立ってきて、矢庭に石川淳に向って、
「小林秀雄の口真似をするな」
 と怒鳴ってしまった。
 このごろ、つまり当時から十五年あまり経った今日、私は石川淳と文春クラブでよく会うが、酔払った石川淳の毒舌とそのべらんめえ調は初めて私が聞いたときのそれと変らない。石川淳と小林秀雄とは同じ東京生れなのであるから、似ているのに不思議はないのである。石川淳は浅草の生れで、小林秀雄は神田の生れである。
高見順「昭和文学盛衰史」
昭和33年3、11月



 あるとき、深夜におよんで、六本木のイタリー料理店へ連れていかれました。いろいろと料理の話があって、不意に
「料理は金だね。おまえ、百万円の料理をつくれるか」
 と先生
「いえ、お金ではありません。安いものでも旨いものは旨いものです」
 と、私がむきになって抗弁いたしますと、
「ばか。料理は金だよ。おまえ、百万円の料理をつくってみろ」
 と、何度もいわれます。
 当時なまいきざかりの私は、酒の勢いも手伝って、憤然と席を蹴って帰ったことでした。
 後日、奥さまにお目にかかりますと、
「あのときは、ほんとうに怒って帰ったわね。主人が、あのやろう、ほんとうに怒って帰ったなあと面白がっていたわよ」
 いまにして思えば、からかわれていたようでございます。それと先生一流の教えがひそんでいたのかもしれません。
辻義一「先生 ありがとうございました」
昭和63年4月



 石川さんは贅沢な人であった。身に着けるものも、口にするものも、その出没するところも、すべて第一流を選ぶという意味で、贅沢な人であった。たとえば、ウィスキーはスコッチのシーバス・リーガル、バーは銀座ならエスポワール、ホテルは東京なら帝国ホテル――。いつか、お茶を買うというのでデパートの食料品売場にお伴したとき、どんな種類のがよろしいかとの売り子の問いに、「いちばん高いのを」とそれだけを言った。
 その当時、年に五、六篇の小説と、同じくらいの数のエッセイしか発表しておらず、年に一冊か二冊の単行本の発行部数も少なかったのだから、収入は決して多かったはずはない。それでいての贅沢好みなのだから、当然、お金に困っていた。
野原一夫「第一次『石川淳全集』の頃」
平成元年12月



 税金未納のため、杉並税務署からの差押え処分を受けたのもこの頃である。
 杉並区清水町の、昭和初期の作家片岡鉄兵の旧宅の奥の洋間を間借りし、独居生活をしていたのだが、その十畳ほどの洋間には、ベッドと机と椅子と、ほかには、江戸の和綴じ本とフランス装の洋書をおさめた小型の本箱が片隅にあるだけで、税務署からきた役人は、差押え得る物件が一つもないのに驚き呆れたらしい。
 困った税務署は、関係出版社の未払い印税を差押えようとした。筑摩書房にも照会があった。「未払い印税!? そんなものがあるわけないじゃないか。いつ返済してもらえるか分らない前渡金ならどっさりあるがね」と経理部長は苦笑した。
 このとき石川さんは、「困窮証明書」なる奇妙なものを杉並税務署からもらった。この者、生活困窮につき云々という、税金免除の書類である。石川さんはその書類を私に見せ、くすりと笑ったが、このように奇妙なものを税務署からもらった文士がほかにいるとは、寡聞にして私は知らない。
野原一夫、同上



私達は長い編集会議をつづけて、ようやく夜遅く会場の横を通ると、階段のすぐ上のフロアーに頭を伏せたひとりの小柄な男が投げだされた魚のように延びて倒れているので、私達全員――平野謙、荒正人、佐々木基一、私の四人が(本多秋五はそのとき欠席)すっかり驚き、近づいて起してみると、それはかなりひどく殴られたらしく、膨れた傷あとを各所に覗かせている石川淳なのであった。
 戦後、数年間にわたっての石川淳は、酒をのめば、必ず、「馬鹿野郎!」だけを唯一の慣用語として用い、目の前にいる誰かをも、また、話にだけでてくる誰かをも、すべてひっくるめて、――例えば、すぐ眼前にいるものには、「お前は馬鹿野郎だ!」といい、話にでてきた遠い人物には、区別なしに、「あいつも馬鹿野郎だ!」と叫んでいて、やはり戦後畸人伝の一人にはいるに十分な資格があったと思われるが、その素朴簡明な「酒乱」ぶりは、数年後、いい酒がでまわるにつれて次第に漸減化し、そしてついに影をひそめてしまったので、戦後の畸人伝から「上って」しまったといわねばならない。
 ところで、その夜、石川淳はただに、馬鹿野郎! とまわりに向って単純素朴に叫んだばかりでなく、酔いにつれて自分の席から立ち上がり、付近のテーブルの上にあるコップや酒瓶や徳利を片っぱしからその華奢な片手でなぎ倒して歩いたのであった。(中略)伝え聞くと、本郷南天堂におけるアナキストの青春時代以来喧嘩慣れした岡本潤が真っ先に立ち上ったらしいが、その付近のものがわっと一斉に立って、ひとつ殴れば忽ち倒れるにきまっている石川淳を「寄ってたかって」、皆で殴りつけたのであつた。忽ちフロアーの上にぐにゃぐにゃした一物体として横たわってしまった石川淳の頭と足の両端をもちあげた彼等は、さて、階段の上まで酒漬けになった軟体動物を運び、そこで、「おととい来い!」とばかりに一斉に投げだしたのであった。
埴谷雄高「石川淳の全的読者」
昭和63年4月



 その翌年の春のこと、ちょうど学生の思想運動の勃興期で、その中心の大学生が全国高校に研究会を作ることを工作しだした。福高にもそれができた。麻生久が講演に来たが、学校当局はそれを許さなかった。一方、文部省は「思想善導」の名で、ある法学博士を派遣し、ある日の午後講堂で、その講演会が催されることになった。その前の時間が、石川さんのフランス語の時間であった。石川さんは、とつぜん、
「人は自分の立場をよく守って、他人の言説を聞かなくてはならないと思う。」
 と、テキストにないことを一言云った。石川さんは、テキスト以外のこと――われわれが期待した文学論議など、それまで一言もしゃべらなかったが、この注意は、それだけ印象に残った。その時は、なんのことかと思ったが、午後の「思想善導」の講演に対する批判の心構えと、その後うけとられた。
 その講演は、研究会の連中の烈しい妨害弥次、これと対立団体の応酬があり、混乱した。そして校長は妨害弥次をやった連中を放校、その他の処分にしたため、同情ストライキに発展、時は六月の末頃だったが、暑中休暇は早められた。我々は喜んで帰郷した。
 九月、新学期になって、私たちが登校すると、石川さんの姿はもはや、教室にあらわれなかった。すでに石川さんは黙ってその地を立去っていたのである。
「ストライキのうしろだてに石川さんがいるというので、学校で問題になっているそうだ。」
「いや、石川さんは別に指導したわけではないが、問題になった生徒が相談に行っていたのに同情したそうだ。」
「石川さんは、東京にひきあげる時、本をみな売ったが、フランス語の本だけは残しておいたそうだ。」
 玄海灘からの風がつめたさをおびる頃まで、そんな噂がながれていた。
福田清人「福高講師時代の石川さん」
昭和37年10月



 伝説は色々あるらしいが、その一つに夷斎先生が梯子酒のあげく薄ぎたない飲み屋で管を巻き、某氏と口論してその飲み屋の二階から投げ飛ばしたとか投げ飛ばされたとかいふのが有名である。僕はその真偽を知らない。しかし夷斎先生は酒癖が悪く直にからむから用心せよといふのは、先生に付き合はされる以前から僕の耳にはひつてゐた。何でも物の本によれば、石川淳は無頼派といふのに属するのださうで、この伝説は無頼派といふのにふさはしいやうに見える。
 僕を石川さんに紹介したのは窪田啓作である。窪田に拠れば、世に石川淳ほどの紳士はゐない。靴は編上靴しか履かず、しよつちゆう一流のホテルに滞在し、しかも何処へ行くにも大名行列ださうである。以上の二つの全く相反する伝説を聞いてゐたから、初めて高輪のお宅を訪ねた時にはびくびくしてゐた。昭和二十七年に僕は『風土』という初めての長篇を出して石川さんに送つたところ、折返しすこぶる長文の読後感が来て、それが九分九厘まで滔々たる悪口で埋められてゐた。その後のことだつただけに、僕がびくびくして出掛けたのも無理はないだらう。しかし石川さんは上機嫌で、まことに優しかつた。
福永武彦「石川淳伝説」
昭和36年9月



 まだ有名でないじぶんの彼に、「森鴎外」といふ良い著書があつた。間もなく「普賢」といふ作品で芥川賞を取つた。それにも拘らず彼は流行作家にはならないでゐた。菊池寛がそれから一年後に、「石川淳はちつとも書かないぢやないか、芥川賞をやるのではなかつた。」と次期芥川賞の席上で、菊池寛らしく眼の前に栄えを見せない石川淳にこぼして言つた。大抵は芥川賞の前後にはさかえるものだが、石川淳はそんなことに関係なく始めから今日までの石川淳の姿勢を続けて来た。石川淳はつねつても痛いといはないし、変なつねり方では応えない人である。こまかい散弾も受けつけない或る部分には、不死身のような固まつたからだを持つてゐる。
 石川淳と同期に出現した作家の中でも、文学者らしい大正肌を持つた人は石川淳一人ではないか。芥川ほどの大見栄はなく佐藤春夫の小囂しいところも見せず、例の反りのある胸だけで物を言つてゐる人だ、どれだけ物識りであるかをうつかり覗かせないで、いい加減覗きこんでも突つ放したり叱つたりすることもない、見たければ幾らでも覗いてゐろといふふうであり、自信のある図太さがあつた。
室生犀星「昭和の文人」
昭和36年1月

昭和23年10月 昭和35年7月 昭和56年3月


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