井伏鱒二 【いぶせ・ますじ】

小説家。本名、井伏満寿二。明治31年2月15日〜平成5年7月10日。広島県福山市加茂町に生まれる。大正6年、早大予科に入学。仏文科に進学し、同人誌などに習作を発表しはじめる。昭和4年、旧作に加筆した「谷間」「山椒魚」の発表により、新進作家としての地歩を確立。ユーモアとペーソスをたたえた作品を多く発表し、「ジョン万次郎漂流記」(昭和12)では、直木賞を受賞した。戦時中は陸軍に徴用され、日本軍が占領したシンガポールにおいて、日本語新聞の編集に携わった。戦後は、戦争体験から生まれた「遥拝隊長」(昭和25)や、市井の世態人情を描いた「珍品堂主人」(昭和34)など、リアリズムの冴えた作品を多く発表した。広島の原爆に取材した「黒い雨」(昭和40)は、その集大成といえよう。平成5年7月10日、死去。享年95歳。代表作は「山椒魚」「さざなみ軍記」「遥拝隊長」「珍品堂主人」「黒い雨」など。

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井伏鱒二@近現代日本文学史年表



著作目録

*制作未定*



回想録

 私が井伏君に会ふと、たいてい、文字の表現だの、風景だのの話と共に、最もしばしば、恋愛や骨董の話をするのだから、彼が恋愛と同じやうに、骨童が好きだといふことは言へる。私の知る限り、井伏君の好きなものを挙げると、釣り、将棋、恋愛、骨董などであらう。(酒は入れないことにして。)ところが、この四大趣味のうち、前二者と後二者は自ら趣きをかへてゐる。即ち、釣りと将棋を彼は雄々しくも実行してゐるが、後二者は専ら語ることの方に重点がおかれてゐるやうである。少くとも、近年の井伏君が恋愛を実行したといふことを私は寡聞ながら知らないし、印税全額を一個の壺のために擲つたといふゴシツプも聞いてゐない。そのくせ、彼は恋愛談のやうに骨董談を好む。人が恋愛せずに恋愛談を好むのは分るが、骨董を買はずに骨董談を好むとは、よほどその物が好きな証拠である。
青柳瑞穂「井伏鱒二氏の骨董観」
昭和28年12月



 その井伏鱒二といふ人の風貌姿勢で、友人としてみて、私はなんといっても一ばん印象的なのは、彼の眼であらうと思ふ。かなり強いらしい近視のメガネの上からでもさうだが、時たま、メガネをはづして、タマをふいてゐる時など、彼の眼ダマが直接に見えたりすると、特別ひどいもので、ドロンとして、にごつて、まるで眠つてゐるやうな眼で、それが何を見つめてゐるとも思はれないのである。
 鋭い眼、澄んだ眼――といふのは、おほよそ詩人、小説家にとつて名誉あるほめ言葉であらうから、ここで、ドロンとした眼、濁つた眼を、小説家井伏鱒二氏に呈上するのは、名誉毀損になりはしないかと少し心配だが、ただ、彼の眼がいかにドロンとしてゐたところで、彼がおどろくべき観察者であることにかはりないのだから、私にとつては、あの濁つたやうな眼で、事物をどうしてあのやうに明確にとらへうるか、ただそれだけがふしぎでならないのである。
青柳瑞穂「井伏鱒二の眼」
昭和39年11月



 井伏さんは演説は大の苦手だが、座談は名人だから、一緒に坐つて話を伺ふとたいへん面白い。酒が入らなくても面白いが、入ると一段と面白い。それから、話が面白いと云ふ理由の一つに井伏さんが物識りだと云ふこともあるから、それに関聯して二、三、エピソオドを紹介したい。
 以前、井伏さんが庭木を下さると云ふので、うちに来る植木屋の親爺に運んで貰つたことがある。親爺はお宅で先生と話込んだらしく、あとで、
 ――あの旦那は小説の先生ださうだが、植木のこともよく御存知だね。いろいろ教へて頂きました。それに滅法話の面白い方だ……。
 と頻りに感心してゐた。荻窪に魚金と云ふ釣天狗の魚屋がゐて、この魚金が井伏さんと魚に就て何か論争してゐるのを聞いたことがあるが、最后は魚金が、
 ――あつしも大抵のことは知つてるつもりだつたが、先生には敵はねえ、シヤツポを脱ぐよ。
 と降参したから、おやおや、と思つたことがある。もう一つ、吉祥寺に甲州黒駒生れの飲屋のお神がゐて、甲州のことなら何でも知つてゐると自慢してゐたが、或るとき井伏さんと甲州の話を始めたら、お神は、
 ――あら、そんなことあるんですか? あたしはちつとも知らなかつたわ、まあ、驚いた……。
 と井伏さんの物識りに呆れてゐた。
小沼丹「清水町の先生」
平成2年12月



小沼 僕が学生の頃伺っている頃、まだ将棋なんか始める前は、葛西善蔵、あれを読めって盛んにおっしゃってたな。小説を書くんなら葛西善蔵を読まなきゃいかんって。
庄野 これはずっと後のほうで変ってこられたんじゃないかな、葛西善蔵観というのが。そうでもない?
小沼 後でだいぶ評価が下がりましたけどね。その頃はそうでした。
庄野 プーシキンの『大尉の娘』、あれがお好きだった。
小沼 うん。先生、好きだったなあ。それからトルストイの『コサック』ね。
庄野 僕が井伏さんのお宅へ行くと、仕事してますかっていって訊くんですよ。チェホフも自分のところにやってくる若いお弟子さんに、書いていますかっていって訊いたというのは本にもあるね。そして書いてませんというと、チェホフは不機嫌になったっていう。井伏さんは、仕事してますかっていって、書いておりますというと、嬉しそうにしておられた。
小沼 うん。先生、チェホフ好きだったからね。ずいぶん読まれたようだから。
小沼丹・庄野潤三「思い出すままに」
平成5年9月



 第三巻の月報に藤原審爾君が書いていたように、井伏さんはなかなかの勉強家で、自分の作品がマンネリズムに陥ることを常に警戒している。いつか志賀直哉先生の消しのある原稿を半日かかって研究して、志賀さんはテニヲハの使いかたに実に苦心してられると、話していたことがあった。
 それでいて、井伏さんの書斎というか、仕事部屋には本が一冊も置いていない。井伏さんの家で私は書棚というものを見たことがない。井伏さんはいったい本をどこにしまってあるのだろうか。そういう疑問を起すのは私一人ではないようである。
 ひとつの仕事に取りかかるときには、必要文献を丁寧に調べるらしいことは、井伏さんの作品を読めばすぐわかるが、作品ができ上ると、そんな文献はすぐどこかへ処分されてしまうらしい。そして全く新らしい気分で次の作品に取りかかるのであろう。ここにも渋滞を嫌う井伏さんの心構えがうかがわれる気がする。
河盛好蔵「常に新らしく」
昭和40年3月



 太宰君の葬儀のとき、井伏さんが烈しく慟哭したのを私はこの目で眺めているが、晩年の太宰君を井伏さんは弟子というよりも親愛なライヴァルとして見ていたような気がする。「ヴィヨンの妻」が発表されたとき、「僕は太宰に抜かれたと思った」と言われたことを私はよく覚えている。
 井伏さんが同時代の作家で心から敬服し、尊敬していたのは志賀直哉先生であった。それだけに太宰君が「如是我聞」で志賀先生に毒づいていた時は、本当に気にして、腹を立てていた。
 私が井伏さんと本当に親しくなり、腹蔵なく話せるようになったのは、太宰君が死んでからであったことはまちがいない。
 井伏さんは同業の小説家に特別の親愛の情を抱いていて、とりわけ、中央沿線作家と呼ばれていた私小説作家に好意を持っていた。井伏さんがあまり評価しなかったのは大学出のインテリ作家であって、高見順君には特にきびしかった戦後、阿部知二君が私に、「君は近頃井伏君と親しいようだが、あんなこわい人とよくつき合えるネ」と言つたことがある。小説を書くことの恐さむつかしさを本当に知っている人から見れば井伏さんは恐るべきライヴァルだったに相違ない。その点、気楽につき合うことができ、その上、小説について、いろいろ貴重なことを教わることのできた私は非常に恵まれていたと云わなくてはならない。
河盛好蔵「山路こえて ひとりゆけど」
平成5年9月



 その駅前食堂で、かねてから伺いたいと思っていたことをお聞きしたことがある。「井伏」という姓は関東では珍らしいが、福山辺には多いのだろうか、ということである。
「まちがえてイブシと読む人もいます」と言うと、先生は、先祖はイブシと言っていた、と答えられた。しかも「猪武士」と書いていた、というのである。先生の先祖は山口の大内方に味方して毛利方に亡ぼされ、落ちのびて現在のところに住みついた。我家はそれ以来のプロレタリアートであるというお話であった。大内方で毛利に亡ぼされたといえば、日本が内乱に明け暮れしていた頃のことであろう。その頃は、姓はお互に当字を平気で書いていたそうだ。「猪武士」ではあまり武張っているので「井伏」と字を変えたのかもしれぬという御説明だった。
 先生は万事について慎重な方だと私は思っている。慎重というより周到と言った方がよいかもしれない。どちらにしても「猪武士」では困る。井伏と変えられた先生の先祖の処置は、結果として賢明だったと私は思った。
米田清一「名前のこと」
昭和50年7月



 彼の作品は面白いが、人を面白がらせようとは一切しない。だから彼の作品の中で新聞小説は驚ろくほど少ない。毎日短い掲載量で、読者を喜ばせ、明日を期待させる技巧を弄することはしないし、したいとも思わぬ人だからだ。彼が年をとって気むづかしくなると、始めて彼を芸術家のように思うのだから、文学とは正常に、或いは素直に理解され難い芸術である。
 井伏は年をとって気むづかしくなったのではなく、始めから気むづかしかったのだ。だから自分の好きな片隅に独りいて、外に眼を向けたがらなかった。気分が鬱屈すると旅に出た。それも余り人目につかぬ甲州あたりの山の湯へ行って、ひっそりと湯につかっていた。そして人の善い旅館の番頭や、峠の茶屋の小母さんや、荻窪の飲み屋の親爺を相手に心安く酒を飲んでいた。つまり彼の好きな片隅は、人間関係にも及んだし、つき合い方にも、酒の飲み方に彼らしい選択があった。その片隅から一歩出ると気むづかしくなった。当然のことである。
今日出海「かけ心地の悪い椅子」
昭和39年10月



 井伏さんは地震が嫌ひで(好きな人もゐないわけだが)、お家に居られて、地震があるとすぐに庭へ飛び出される。ただ、飛び出すだけではなくて、つくばひの水がどういふ具合に波打つてゐるかを見て、震源地の見当をつける。
 もつとも、これはつくばひの水を見るために飛び出すといふよりも、先づ飛び出して、それからつくばひの水に注意するといふ順序ではないかと思はれる。
 井伏さんの奥さんは、いつか地震のあとで伺つた時、
「井伏は私が立つてゐましたら、突き飛ばして逃げるんです」
 と云はれたことがある。
 私のところでは、家内が先に庭へ飛び出し、私は、
「大したことない」
 と云ひながら、いま梁が落ちて来ると危いか、と考へてゐる。逃げ足が早いやうでなくては(小説家として)いけないのかも知れない。
庄野潤三「地震・雷・風」
昭和39年11月



 ことしの夏、私はすこしからだ具会いを悪くして寝たり起きたり、そのあいだ私の読書は、ほとんど井伏さんの著書に限られていた。筑摩書房の古田氏から、井伏さんの選集を編むことを頼まれていたからでもあったのだが、しかし、また、このような機会を利用して、私がほとんど二十五年間かわらずに敬愛しつづけて来た井伏鱒二と言う作家の作品全部を、あらためて読み直してみる事も、太宰という愚かな弟子の身の上にとって、ただごとに非ざる良薬になるかも知れぬという、いささか利己的な期待も無いわけでは無かったのである。
 二十五年間? 活字のあやまりではないだろうか。太宰は、まだ三十九歳の筈である。三十九から二十五を引くと、十四だ。
 しかし、それは、決して活字のあやまりではないのである。私は十四のとしから、井伏さんの作品を愛読していたのである。二十五年前、あれは大震災のとしではなかったかしら、井伏さんは或るささやかな同人雑誌に、はじめてその作品を発表なさって、当時、北の端の青森の中学一年生だった私は、それを読んで、坐っておられなかったくらいに興奮した。それは、「山椒魚」という作品であった。童話だと思って読んだのではない。当時すでに私は、かなりの小説通を以てひそかに自任していたのである。そうして、「山椒魚」に接して、私は埋もれたる無名不遇の天才を発見したと思って興奮したのである。
太宰治「『井伏鱒二選集』後記」
昭和23年3月



 ある初夏の夕方であった。着流し姿で井伏さんが新聞社にやってきた。わざわざ着流しとことわるまでもなく、そのころの井伏さんは洋服とはまったく無縁であった。従軍の写真を除いて、私が井伏さんの洋服姿をみたのは、終戦後、疎開先から帰ってきた時分がはじめてであった。白シャツに白ズボンというかっこうで有楽町を歩いていたのにばったりと出あった。それから最近まで洋服の回数がだんだんふえてきたが、そのときはびっくりした感じで井伏さんを眺めたものであった。戦前の和服ばかりの井伏さんも時代とともに変ったものだと思いながら立ち話をして別れた。話はわき道にそれたが、着流しの井伏さんが私を訪ねてきた用事は「きょうは原稿料がはいったから、いっしょに呑みにいこう」ということであった。行きつけの銀座裏のおでん屋へでもいこうかと考えてふたりで外へ出た。すると井伏さんは「銀座はよそうよ。ちっとももてないから……。きょうは僕につき合って沿線へきてくれ。とてももてるんだよ」と、無理矢理に中央沿線へつれていかれた。阿佐ヶ谷のピノチオという店だった。永井竜男さんの兄さんがやっているというその店に、どっかとすわりこんで夜遅くまでお互いにクダをまいていた。なるほどここへくると、いれかわり立ちかわり井伏さんに話しかけてくるひとが多い。ちょっとした沿線の小親分であった。
高橋四郎「三十年前」
昭和40年4月



 戦争のとき、陸軍の徴用を受けた井伏さんは、いつときシンガポールで学校の先生をなさつたことがあつた。生徒は子供から年寄まで年齢を問はず、男女の別も問はず、おまけに中国人、印度人、馬来人、欧亜混血人と滅多やたらな人種の羅列で、見渡したところ、「菅原伝授手習鑑」の寺小屋に国際色をつけ、それに養老院をつけ足したやうな趣きがあつた。その名は日本学園、校長さんが詩人の神保光太郎さんであつた。
 その神保学園で井伏さんは日本史を講述された。戦争は途方もない浪費に違ひないが、それにしてもこれは勿体ない話で、価値の錯倒のお手本みたいなものである。寺小屋であれ大学であれ井伏さんに演説を使はせる法はない。戦前佐藤春夫氏の推挽否みがたく文化学院の講師にされたときも、教壇に立つとは名ばかりで、実は欠席した学生の席をみつけて舞ひ降り、雑談でお茶を濁したとか伺つたことがある。それもほんの二三回で遁げ出したとも伺つた。だから神保さんだつて気が気ではあるまいとしきりにわたしも気が揉めた。
 しかし井伏さんは毎回ノートを作つて神武天皇の御東征だの橿原神宮の御即位だのを講義された。何分生徒が生徒で日本語では無理だつたから、軍属さんがそれを英語に通訳した。その軍属さんは、戦前マニラあたりで長いこと大工をしてゐた人であつた。鋸か鉋でも使はせるとか、木遣りでも唄はせたら、恐らく一流の棟梁だつたらうに、惜しいことをしたものである。
田代継男「あれこれの記」
昭和40年3月



 一度二人で私のそだつた尾道へ講演旅行に行きましたが、誰にでも好かれる人らしく、待合によばれて行つて、芸者たちに、此人は杵屋佐吉さんですよと云ふと、みんな本気にしたほど一寸よく似てゐて、佐吉より井伏さんの方が若いのですが、ダンゼン大変もてました。(中略)
 井伏さんのお家は庭が一寸広くて、寺の母屋みたいな瓦葺きの平屋で、夏冬涼し気に見える構えで、あんなお家だつたらお仕事が出来るだらうと思ひます。一寸眼のいゝひとなら深夜に及よんで低い垣根ごしにのぞいて御覧なさい。きつと、むつとふくれた顔で井伏さんが頬づゑついてるに違ひありません。井伏さんは草花よりも樹木の好きなひとで、庭中樹を植ゑてゐられるやうです。だから、井伏さんの作品はどれもこれも樹木のやうで、朽助のゐる谷間と云ふ作品なぞは、まるで杉の大木のやうな気がしてなりません。
 井伏さんが街をはいかいしてゐる時は、あれは何も考へてないからつぽの井伏さんのやうな気がします。横光さんにお逢ひすると、作品がいつぱい充ちてゐるやうなのを何となく感じるのですが、井伏さんの街での姿は、まるで蝉のぬけがらみたいにふは/\して、一種はいかいしてるみたいなポーズに見えます。
林芙美子「井伏鱒二さん」
昭和9年9月



 井伏さんがお仕事最中のお部屋に闖入していったのは、これまでに、三、四回ぐらいではなかったかと思う。むつかしいお顔で、原稿用紙にペンを走らせて居られたことは唯の一度もなく、たいてい、原稿用紙を前に、眼をショボつかされながら、ただぺンをお持ちになっていただけのような気がする。それから、おもむろに、闖入者のほうをふり返られると、急にお顔の表情は和らぎ、静かにペンを置かれ、やおら、眼鏡を外され、傍らに置いてあった別の眼鏡に掛けかえられる。たしか、井伏さんは、当時四個の眼鏡を用意されている筈である。執筆用、読書用、将棋用、そして面談用の四個である。
 つい最近、お目にかかっていた時に、あれっと思った。眼鏡の形がまるで違うのである。その眼鏡は、鼈甲色の上部が平らな今様の形だった。井伏さんの眼鏡は、これまで、全部が全部同じ形である。つまり、今ではクラシックというほかない真ン丸の形ばかりだったのである。早速、おや、眼鏡が変りましたね、と申し上げたら、眼鏡をこわしてしまってね、眼鏡屋に行ったら、真ン丸の縁が無いので、止むなく、これにしたんだが嫌だなアとさも不愉快そうな顔をされた。その後で、これを作ってから、東京では、上野の池の端にただ一軒、まだ丸い縁を売っている眼鏡屋さんがあることを教えてもらったけどね、と顔をほころばされた。
伴俊彦「井伏さんから聞いたこと」
昭和40年1月



 井伏さんの聡明なこと、ゆたかな天分については、よく知られているが、亦、まことに努力の人でもある。
 一昨年の夏のこと、庭先からわたしがのぞくと、仕事部屋の中で、井伏さんは寝ころび、本を読んでいた。枕許のあたりに数十冊の本がつみかさねられてある。岩波の少年文学全集である。
 あがって挨拶すると、書きだしが意に満たないので、ありあわせのそれの書きだしの部分を、朝から一日読んでいたそうである。上気して、青年のように顔があからんでいる。そして、
「ユーゴーがうまいね」
 と言った。
 むろんそれは、気分をとゝのえるための操作なのだが、それにしても数十篇の書きだしを読むのは、なみたいていのことではない。それに、そういう努力のしかたに、真摯な方式があり、そういうものが井伏さんの作品のゆとりをつくっていると思われた。
 わたしは、井伏さんのそういうところが、実に好きである。
藤原審爾「井伏さんのこと」
昭和39年12月



カフエーに立寄り、酒を飲み、私は、諳誦をしてゐるプラトンのソクラテスの演説「アテナイ人諸君よ」と叫び、クリトンを引き出し、デモスゼネスを拉し来つて、とろとろと鱒二の罵倒演説を試みた。(中略)私の演説は次第に激して、内々彼から聞いたことのある彼の遊蕩を難ずるに至つた。新婚の可憐なる妻を自家に残して遊里に出没するとは何事ぞや、いつぞや浅草を彼と散歩してゐたら背後から、「イーさん」と呼びかけた年増女があつた、あれは確かに吉原のヤリテ婆に相違ない、ああいふ女性に肩など叩かれてヤニ下つてゐる鱒二の姿を写真にとつてやりたい――その他のことを私はしやべつた。
 ところが後になつて彼が私に伝へるには、あの演説の個所で最も痛かつたのは、遊蕩云々の事であつた! と云つて憾みを述べた。何故ならば、あのカフエーのマーガレットは井伏を聖者のやうに敬ひ、また彼自身も左様な仮面をかむつて遊里などといふものの存在さへも知らぬ気な態度をもつて、常に人生の悲哀を語つてゐた由であり、以来面目を潰したと、今度は此方に喰つてかかつた。
 好い気味だ!
牧野信一「彼に就いての挿話」
昭和6年1月



 先生は、初めてお宅へ伺ったときそうだったように、その後も別れしなに、「君、酔った?」と訊かれることがあった。私は、その都度、「はい、酔いました。」とお答えした。実際はほとんど酔っていなかったのだが、御馳走してくれたひとにちっとも堪能しなかったとはいえないのである。
「そんならいい。飲んだときは酔った方がいいんだ。飲んで酔わないと、からだに悪い。」
 と先生はいわれる。時には、
「飲んだら、仕事をしないことだな。」ともいわれた。「よく飲みながら原稿を書くというひとがいるが、あれはよくないね。酒の勢いで書くのはよくない。僕は飲みはじめたら飲むことに専念するんだ。将棋も指さない。」(中略)
 先生の随談は、面白くていつも聞き惚れてしまうが、お酒が入ると、その面白さは倍加してちょっと席を外すのも惜しくなる。ただ面白いばかりではなく、これは憶えておいた方がいい、これは憶えておかなくてはいけない、そう思われることがいくらでも出てくる。聞き流してしまうのは、勿体ない。とても、酔ってなんかいられない。一語も聞き洩らさぬように心して耳を澄ましていなければならない。
三浦哲郎「師・井伏鱒二の思い出」
平成10年10月

大正12年 昭和22年 昭和61年7月


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