福永武彦 【ふくなが・たけひこ】
小説家。大正7年3月19日〜昭和54年8月13日。福岡県筑紫郡二日市町に生まれる。昭和13年、東京帝大仏文科に入学。昭和17年、同世代の中村真一郎、加藤周一らと文学同人「マチネ・ポエティク」を結成。戦後、この3人で「1946年・文学的考察」(昭和22)を刊行し、幅広く豊かな文学的教養によって注目を集めた。戦時中から起稿していた小説「風土」(昭和23〜26)が高い評価を受け、「草の花」(昭和29)により文壇的地位を確立。戦場での体験や左翼運動を経験した戦後派作家とは距離をおき、知的抒情によって織りなす作品世界を展開した。昭和41年から連載を開始した「死の島」は、現代文学のひとつの可能性の実現として高く評価されている。また、加田伶太郎の筆名で推理小説も多く書いている。昭和54年8月13日、脳内出血により死去。享年61歳。代表作は「風土」、「草の花」、「忘却の河」、「海市」、「死の島」など。
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著作目録
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回想録
昨年の暮だったろうか、父はぼくの仮のすみかに電話を掛けてきてくれた。ぼくは外国での二年半がほとんど至福と呼んでもよいほど楽しかったことを話し、父はそのしばらく前にぼくが出した詩集をほめてくれた。ぼくは欣喜した。父の声も愉快そうだった。ぼくにとって作品を一つ発表するということは、常に文学者としての福永武彦の呪縛から一歩だけおのれを解きはなつことを意味したし、父はそれをよく知っていた。その時父は「もう少し注目されてもいいよね、賞でもとれないかな」と言った。親馬鹿めとぼくは思った。それと同時に長いあいだ背負っていた荷を一つおろしたように、気持が軽くなった。
ぼくは異邦で生れた娘のことを話した。この娘が誕生した時、比較的珍しい名前をつけ、父に報告の手紙を書いた。おりかえし返事が来た。それによると、ぼくが三十数年前に生れた時、父は女の子を予想してある名前を用意しておいた、そしてその名はぼくが娘につけた名と奇しくもまったく同じであったという。そんな娘のことだから父は喜んで聞いた。父は自分のことはあまり話さなかった。
池澤夏樹「遠方の父」
昭和54年10月
おもえば父はいつも遠いところにいた。ぼくが生れて間もなく、父は結核でサナトリウムに籠ってしまったし、長い療養の後、父がそこを出た時にはぼくは他家に入って、そこで育つことが決っていた。その後、幼いあいだに一、二度は会ったことがあるはずだけれど、父だとは紹介されなかったのだろうか、ぼくの記憶にはそのような出会いのことは何一つ残っていない。やがて、ぼくは少年時代の終りころの一時期、父に比較的しばしば会った。共に生活したことがほとんど無いのだから、あるいは不器用な親子だったかもしれない。遺伝形質の類似を喜ぶような、はたから見れば馬鹿げた一面がぼくたちにあったのもそのためだったろうか。親戚の者が電話に出たぼくを父とまちがえた時には笑ったし、だいぶ後の話だがぼくが自分にも心臓神経症の気があるのを発見した時には、父はそれこそ身を乗り出して詳細にこの病気とも言えない病気について説明してくれた。父が養っていたさまざまな病気の中でもこれは一番たちの良い奴だった。ぼくはそれだけを受けついでほかのは断ることにした。
池澤夏樹、同上
福永ほど芸術家らしい芸術家は、僕の周囲には珍しい。例へば福永が銀行員や医者や巡査や税務署員であることは想像し難いのである。字を書いたり、絵を描いたりするほど気に入つた仕事はないらしい。道楽と云へば、探偵小説に読みふけるといふこの《罰すべからざる罪悪》があるばかりである。戦争中から福永が構想してゐた、たしか《独身者》といふキェルケゴール風の標題を持つた、大河小説がある。福永はその五分の一約一千枚を書いたが、気に入らなくてこれを破毀した。破毀しただけならば誰にも身に覚えがあらうが、一夜再びこの構想に興をとり戻して、早速数日にしてこの一千枚を想ひ出して書き直した。これは中村真一郎の保証するところである。もつともこのやうに純粋な芸術派であることは必ずしも小説家としてはプラスばかりではないと云はれるかも知れない。僕は福永が画家を志さなかつたことを惜しむものである。福永はゴーギャンを最も好むやうだが、彼の作品はむしろミロオやクレエのあるものを想はせる。彼のパステルがある美術雑誌に載つたとき、彼はいかなる文学作品の発表よりも悦んだ。
「君、あの雑誌は金を出して買つて呉れたまへ。」
窪田啓作「福永武彦」
昭和30年11月
福永武彦はまた、なかなかの趣味人であって、凝り屋であった。とくに本作りに凝る癖があって、わたしなど、はた目にはいささか趣味に淫するのではないかと思われる点もあったが、いまから考えると、彼は戦後の文学者には珍らしい、文人趣味の持主だったように思われる。文学などに志す連中は、多かれ少なかれ一種の文人趣味を心の片隅にもっているけれども、そのような趣味を表面におし立てて、趣味に淫すると思われるほどに強くそれを貫くことは、なかなかでき難い時代になっている。その意味では、ひょっとして福永武彦は最後の文人だったのかもしれない、という気がふっとした。
福永武彦が堀辰雄さんを知ったのは比較的遅くて、昭和十六年か十七年頃だったようである。昭和十七年の夏、わたしが追分の油屋に泊って、軽井沢の別荘に滞在中の羽仁五郎氏の原稿催促に行っていた頃、ひょいと福永武彦が油屋へ訪ねてきたことがある。その頃彼はもう日伊協会をやめて、別の職場に移っていたが、軽井沢の堀さんを訪問した帰りであるらしかった。しかし、比較的遅く堀さんと知り合った福永武彦が、福永たちの仲間のうちでは、もっとも堀辰雄に近い文学的な、あるいは文人的な生き方を貫いた、と云えるのではなかろうか。はた目にはちょっとキザと思われるほど、徹底して自分の趣味に生き、自分の方法を貫いた文学者として。
佐々木基一「好ましい印象」
昭和54年10月
堀辰雄さんもそうだったが、福永武彦も七年間清瀬の療養所暮らしをしたいわば病気のベテランであったから、病気を飼い馴らすすべをよく心得ているものとわたしは思っていた。こういう病人はしょっちゅう体の不調を訴えながら、また時には危険な状態に陥ってまわりの人々を周章狼狽させながら、意外に強靭な生命力を持続させるものであることを知っていたから、福永武彦も病気を支として、あるいは病気を防壁として、まだまだいのち長らえるものと思っていた。
しかし、やはり肉体には限度があったのだろう。追分でのお通夜の晩、義弟に当る原卓也君からこんどの胃潰瘍の悪化から、手術、思いがけない脳出血の死にいたるまでの経過報告をきいて、やはり、福永武彦は精神の力だけでこれまで六十年のいのちを持ちこたえてきたのか、といまさらながら感慨を新たにさせられた。それにしても、四十台で亡くなった堀辰雄さんにくらべると、福永武彦はよくも六十台までいのち長らえられたものだと思わないわけにいかなかった。
佐々木基一「生一本な人」
昭和54年10月
福永さんは、本当に正直な人だった。ごくごく身近な中村真一郎さんにも打明けないような内緒事があったらしいが、口にするかぎりは、いつも掛け値のない本当のことをしゃべる人だった。まぎれもない前衛文学者で、その名にふさわしい立派な仕事を成し遂げた作家だったが、ハッタリ気というものは、まったくない人だった。
サミュエル・ベケットの長篇小説が評判になりだした頃、われわれは、まあ、ずいぶんと我慢して「エディシオン・ド・ミニュイ」版の、ザラ紙に印刷された活字と睨みっこしたものだが、福永さんの意見は、いたって簡便、明快だった。「あれは、全部読み通せるもんじゃない。半ぺージぐらいのパサージュだけを読むと、実にきれいで、いいもんだね。ベケットを読むには、これにかぎるよ」。無茶なことをいうひとだと思ったけれども、辞引片手に、ああでもない、こうでもないといって、いつ果てるとも知れぬ行みたいに、ベケットと取組むよりは、福永さんの方が上手をいってるのかなと、うらやましい思いがしたものである。
篠田一士「律儀な福永さん」
昭和54年10月
この頃、福永さんは、井上靖氏の小説を、実によく読んでいた。よくというのは、手当りに、井上氏の小説をつぎつぎと読み漁るというのではなく、たとえば『天平の甍』とか『氷壁』とかといった、特定のかぎられた作品を、じっくり読むということである。まあ、分析的といってもいいが、その分析は、作品そのものに関わる事柄ではなくて、むしろ、作者が、どんな風に読者を意識したうえで、筋立てを工夫し、人物配置を行い、あるいは、事件の場所の設定を考えたりして、読者を飽かせないようにしているかという苦心のほどを、あれこれ臆測し、推測するといった考察に終始するのである。そして、その結論として、「やはり、井上靖さんにはかなわないよ」という、断定とも、讃辞ともつかぬ言葉が、くりかえされるのであった。
篠田一士、同上
福永さんと初めて会ったのは昭和三十一年四月、目白の学習院大学の仏文研究室である。その年私は仏文の非常勤講師にして貰い、何とか文学の道に細々とつながっていた。福永さんはすでにマチネ・ポエティックの詩人・小説家として眩しい存在であり、研究室でも談論風発、颯爽とした風貌であった。
黄いろいシャツとか、藤色がかった背広とか、ふつうの人の着ないしゃれた服装をしていて、いかにもボードレリアンといった感じだった。眼鏡の似合う、鼻の高い、細面の、知的な容貌は『草の花』や『風土』の作者にふさわしいと思った。私は福永さんと知り合ったことを幸福に感じた。
辻邦生「福永さんの想い出から」
昭和54年10月
むしろ私が福永さんに学びたいと思ったのは、自らも「最後の文士」と言っていたように、生活の万般について美的意識を保とうとしたことである。福永さんは実に好奇心の旺盛な人で、昆虫採集、植物の写生、和紙蒐集、カメラ、豪華本、画集、レコード蒐集など多様な趣味を持っていたが、それは、何度かの死を前にした大患によって鋭くなった生の意欲に浸透されていた。(中略)
福永さんは堀辰雄と同じようにセピアや緑や水いろのインクで色分けして書くのを好んだ。その筆跡は美しかった。そういう字で書かれたものを見ると、福永さんの美的意識が生活の細部まで滲みとおっているのを感じた。
辻邦生、同上
何しろ当時、三十代から四十代にかけての私たちは、あちこちで無暗と顔が合い、合えば深夜まで酒を飲んでお喋りし、お互いの情報には欠けるところがなかった。又、芥川(比呂志)、堀田(善衛)、矢内原(伊作)などは、丑満時の訪問を得意としたものだった。
又、福永のその頃の「座談に興じ」るその有様は、手ぶりを交えて尽きるところを知らず、堀田をして、「おれたちの集りでは、いつも福永がひとりで喋ってるじゃないか」と、嘆ぜしめた態のものだった。(福永にも、そのような元気な時期があったのである)。その時、私はすかさず堀田に向って、「そうだよな、君が喋ってない時は、いつも福永が喋っている」と、へらず口をたたいて、彼からこの野郎という顔で睨まれたのを覚えている。
福永がバッカスの力を籍りて、堂々の陣を張りはじめると無敵であったことは、かつて酒席の雄として恐れられていた石川淳氏をして、「福永君にはかなわないね」と云わしめたほどであった。
中村真一郎「福永の思い出」
昭和54年10月
最初に病気を自覚したのは福永の方で、それは約束の場所に向けて家を出発しながら、目的地につかないうちに、気が変って引き返してしまう、というような現れ方をして、これは福永の気まぐれという評判を友人たちの間に行き渡らせた。
ところがある時、福永は原田義人と電車に乗っていて、突然、途中下車して原田を驚かせた。その時の原田の観測によると、たしかに気まぐれなどというものではなく、何か福永の内部に不思議な苦痛が盛りあがって来て、耐えられなくなって、座席を立ったのだと云うことだった。(中略)
しかし、こうした病状は、経験のないものには甚だわかりにくく、しかも世間では、ちょっとした神経疲労と本物の病気を混同して、いずれもノイローゼだなどと、素人判断をしているものだから、本当の病気に対しても、何か気の弱りの類いと考えて、軽蔑する向きもある。性格的欠点であるかの如く誤解し、中には倫理的非難を加えるものもいる。
福永もそうした誤解に苦しんでいた。
中村真一郎「福永とノイローゼ」
昭和54年10月
あたりのものすべてを吹き飛ばす轟々たるジェット・エンジンふうに無限廻転していた荒正人のすぐあと、静謐な僧院の奥に端正に籠り坐っている瞑想詩人のような福永武彦の訃報を、まさに戦後の一つの終焉のごとくに、私達はひきつづいて聞かねばならなかった。いってみれば、それは戦後示された私達の文学のまことに大きな幅をもった両端が薄暗い歴史の奥へ封印され終ってしまった端的な象徴のごとくである。
荒正人は、母親の胎内にいたときから手足をやたらにつっぱりつづけていたごとく、そのはじめから終りまで他と衝突しつづけたが、福永武彦は自身の孤独のなかに穏やかに端坐しつづけて誰とも争わなかった。これを換言すれば、荒正人の前には多彩な「社会」があり、福永武彦の前にはただ芸術のみがあってひたすら「内界」の静謐な住者として彼は一貫しつづけたといえるだろう。
埴谷雄高「「使者」と「近代文学」」
昭和54年10月
福永 病歴をここに書いてきました。これは必要があって書いたのですが、税理士さんに見せたら、病歴を誇張しすぎるって言うのですよ。いいえ誇張なんてひとつもない、事実なのよって言ったらびっくりしてましたけれど。
加賀 これは大変な病歴ですね。
福永 福永の義理の妹になる人が、履歴書よりもりっぱな病歴だなんて言って笑いました。
加賀 いや、ほんとですねえ。これ資料として公表させていただけると興味深いと思いますが……。
福永 そうでしょうか。そんなつもりで書いたのではないのですが……。
加賀 今までどこにも発表されてませんね。それを載せていただければ、読者にはとてもよろしいのじゃないですかね。でも大変ですね、これだけの闘病生活とは……。
福永 しまいに病気慣れしてしまいましてね、あまり病気だからって、暗くじめじめしてなかったですね。新聞で音楽会の予告見て――半年ぐらい先の広告ですが、それを細く切り抜いて、それで切符買うんですの。何回無駄にしたかしれないんです。無駄になることわかってても買いましたね。非常にファイトがあって……。
加賀 この病歴を拝見すると、病気でいらっしゃらないときのほうが短いみたい。
福永貞子(註、武彦の妻)・加賀乙彦・源高根「座談会 福永武彦・死と信仰」
昭和55年7月
加賀 亡くなられる前に何か言い残されたことって……。
福永 手術の二時間前に、これ以上待っててもとても手術にいいコンディションは望めそうもないので、目いっぱいの体力だけども、これから二時間後に手術しますってお医者に宣告されました。
手術室にゆく仕度をしていると、「貞子、きみにもずいぶん世話になったな」って言い出したものですから、あ、これは別れの言葉を言ってるんだなと思って、私もう何にも言葉が出てこないんですね。それで黙ってました。そしたら「きみのお蔭で僕の人生は好き放題の人生だったよ」って言ってくれました。ちょっと苦しそうでしたが。
しばらく息を整えてから、「きみのお蔭で井出先生に洗礼をしていただいて、これで天国に行かれる。貞子、ほんとうによかったよ。井出先生に感謝しているよ」と申しまして、そして「『詩篇』読んでくれ」というので『詩篇』の百三十篇を読みまして、「讃美歌を歌ってくれ」って言うんですね。(中略)その歌が好きなんですね。その讃美歌の百三十二番を歌いました。そしたらもう自分は声が出ませんでしょ。ベッドの上で蒲団の上に手を出して、私が歌うのに片手でリズムをとりながら讃美をしまして、もう私はちょっと声が震えちゃって、しっかり歌わなきゃいけないと思えば思うほど声が震えましたけど。
福永貞子・加賀乙彦・源高根、同上
貞子夫人が福永さんの昼の病院食をおにぎりにしてあるからそれを一しょに食べて行ってくれないかと言われた。私はこの大雨の中を何処かで夕食をすませて帰らねばならないと思っていたので、遠慮なく夫人の言葉に従うことにした。福永さんはお腹が空いていたらしく、早々にベッドの上に起き上り、目の前のお盆に並んでいる夫人の造られた幾つかの料理や比目魚の刺身を眺めながら嬉しそうだった。夫人が座につくと福永さんは突然祈り始めた。私もキリスト教徒の端くれなので、あわて、取り上げようとした箸を置いて頭を垂れた。それは短い食前の感謝の祈祷であった。突然のことで瞬間驚いたが、別段奇異に感じたりはしなかった。そしてそのことに就いて何も問わなかった。帰途の電車の中で福永さんは何時からああして祈られるようになったのだろうと思い、父上がキリスト教徒だったことなどを思い出していた。
堀多恵子「野の草花を愛した福永さん」
昭和54年10月
私が入った南七療はいちばん東の外れだが、病室の向こうは楢、櫟などの雑木林で、その林の中の小径を、亡くなった患者の遺体が毎日のように霊安室へ運ばれていった。病室は六人部屋だが、足を向け合うようにベッドが三台ずつ並び、私の隣室に石田波郷さん、さらに一室置いた八番室の廊下側に福永さんがおられた。福永さんは三十一歳、波郷さんが三十六歳、私はまだ二十二歳だった。すでに福永さんは入所後一年余を経て、二回にわたる胸郭成形手術も無事に終えていた。この手術は病巣の活躍を抑えるだけで根治させるものではなく、今から思えばかなり乱暴な手術だが、ろくに薬もなかったし、手術が可能なだけでも幸運なほうだったのである。(中略)
私はぶらっと福永さんの部屋へ遊びにゆく。安静時間(午後一時から三時まで)のあとか夕食後である。体の調子さえよければ、福永さんはリンゴ箱で作ったような机をベッドに置いて何か書いていることが多かった。患者仲間と碁を打ったり、イヤホーンで鉱石ラジオを聞いていることもあったが、「息子だよ」と言って夏樹さんの写真を見せてもらったのも、そんなふうにお邪魔したときだった。まだ三歳か四歳くらいの写真で、顔立ちがそっくりなのでそう言ったところ、福永さん独特のはにかむような笑いを浮かべていた。
結城昌治「療養所時代の福永さん」
昭和54年10月
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