広津和郎 【ひろつ・かずお】
小説家、評論家。明治24年12月5日〜昭和43年9月21日。東京市牛込区矢来町に生まれる。父は硯友社の作家、広津柳浪。明治42年、早大文科予科に入学し、同人誌に翻訳や習作を発表しはじめる。大正6年、性格破産者を描いた小説「神経病時代」と、トルストイの神話化を批判した評論「怒れるトルストイ」を発表し、注目を浴びる。以後、特に評論において目覚ましい活躍をみせ、大正9年に刊行した「作者の感想」は、大正文学を代表する評論集となっている。戦時中は、庶民生活の現実を凝視し、みだりに悲観も楽観もせぬ〈散文精神〉を説き、ファッショ化した時代の空気に反撥した。戦後は、松川事件被告の救援運動に積極的に参加したり、自伝的回想録「年月のあしおと」(昭和36)などを発表した。昭和43年9月21日、死去。享年76歳。代表作は「神経病時代」、「作者の感想」、「風雨強かるべし」、「巷の歴史」、「年月のあしおと」など。
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広津和郎@近現代日本文学史年表
著作目録
*制作未定*
回想録
ある文学青年が酒に酔って、
「しょっちゅう麻雀ばっかりやってるくせに広津さんの松川事件なんて信用出来ない」
とからんだことがある。
先生は、
「麻雀と松川と別に関係無いだろ」
と苦が笑いをしていた。(中略)
私とはお眼にかかれば必ず麻雀が始るといった間柄で、あまりむつかしい話はしなかったかわり、へだてを忘れて人間的にしたしみを感ずることは多かった。
「えい、どうだ!」
と危い牌を捨て、それが通ったといって嬉しそうに、
「プップクプのプ」
と蛸おどりみたいな恰好をされる姿などが、今となっては胸にこたえる思いで眼にうかんで来る。
しかし好きな麻雀も、この一、二年は体力の衰えで長つづきがせず、したがって麻雀仲間の方でもお会いする機会が自然少なくなった。
「『ちかごろの若い者は』と言われると、自分のことかと思って不愉快になるね」などと言っておられる元気な人が、六年前にははま夫人を亡くされ、やがては自身も次第に体の衰えを感じるようになって、末年にはずいぶん孤独で淋しい毎日であったろうと思う。
阿川弘之「苦が笑いの別れ」
昭和43年11月
又、大変野球がお好きで、あれは何年前になるか、私が目白の女子大のアパートに居た戦後まもなくのことで、広津さんは、護国寺前のラヂオ屋の店さきで早慶戦の放送を聞いて夢中になつて居たあまり、パッと車道に飛出し(歩道が狭かつたから)、折柄来合せたバスに突当られて、顔などに打撲傷を受けて雑司ケ谷の大学病院分院に入院なさつていらつしたことがあつた。講談社がそばだつたので便宜を得られたやうである。その時の片頬の目の下のあざは最后まで少し残つて居たのではあるまいか。あの時、生命に別条なかつたことは本当によかつた。生きていらつしたからこそ、ペンの力で幾人もの人が無実で死刑になるのを救はれたのであるし、「年月のあしおと」のやうな、すぐれた大作を書かれたのだから……
網野菊「東府会」
昭和43年12月
失礼なことを書くやうだが、彼は甚だ寝像の悪い人で、随分苦しさうな寝方をしてゐることがある、足を片方だけ延ばしたり、屈めたり、腰を曲げたり、頭を抱へたり、まるでロダンの彫刻を見るやうな恰好をする。が、それが彫刻と違ふことは、時としては、何ともいへぬ苦しさうな呻り声や、寝言やをいふのである。無論、寝言のことであるから、言葉の意味は分らないものか、他愛のない断片語かに過ぎないが、私はその寝姿を見ながら、自分などと違うて、昼間は決して弱音を吐かない男ではあるが、どんなにかいろんな心配や、悩みやがあると見えると察したことが屡々ある。
宇野浩二「広津と私」
大正13年7月
広津の父親は明治時代に有名だった作家広津柳浪である。尾崎紅葉を中心にした硯友社の作家が甘い恋愛小説を書いたのとは反対に、喜んで社会の暗い面をかいたので、柳浪の作品は深刻小説と名付けられていた。晩年はほとんど筆をとらなかった。だから次男の和郎は子供のときからひどい貧乏の中で育った。
彼が子供のとき金魚を喰ったという話を宇野から聞いたわたしは、ある日、広津に「それは本当の話かい」ときいた。広津は「本当だとも」と答えた。「何しろ家の中に米がひと粒も無くなって、腹がへってへって耐らないんだ。その時、庭の手水鉢に金魚が二三匹泳いでいるのを見ると、耐らなくなって、みんな手づかみにして喰べたんだよ」「あんな物、なまで喰って生まぐさくなかったかい」というと、「何しろ子供の事だからね、みんな無我夢中で喰べたんだから生まぐさいなんてわからなかったなあ」と、笑っていた。
江口渙「若き日の広津和郎」
昭和48年12月
この氏との二度の出会いのたびに、ぼくは自分にとってもっとも肝要な当面の問題にふれた適切な言葉を、いかにもさりげなく氏からあたえられたと思う。それは広津和郎氏の頭脳が、実際的なコンピューター式に整理されていて、たとえばぼくのような若輩の作家に会っても、その場の思いつきではない一個の意見が、氏の言葉の内容として過不足なくきちんとはめこまれる、という印象であった。たとえば沖縄についてぼくが書いた文章を氏が読まれる。それはとくに入念に読まれるというのではなくて、軽くひろい読みされる程度のことかもしれない。おおいにそれはそうであるだろう。しかし、その時、氏のいだかれた感想は、カードに記録されて氏の頭脳のコンピューターにおくりこまれ、そして出版社のパーティの雑踏のなかで氏の前にぼくがあらわれた際に、ただちにコンピューターは、カードの内容を氏の意識の前面におくりだす。ぼくは広津和郎氏の頭脳のそのような特質を、一般に作家の頭脳のシステムをこえたものとして印象づけられている。
大江健三郎「知識人の死」
昭和42年11月
人はよく広津さんを日本のゾラにたとえる。私もお伴した九州一周の旅で宮崎駅での記者会見で、同じことをいわれて先生が「そういう言い方は困る。ゾラも迷惑だろうし、私も迷惑だ」ときびしい表情でつきはなされた。ドレフュス事件にそそいだゾラの努力と情熱はフランス人民の歴史の誇りであろう。彼が大統領に宛てた弾劾文は読む者をしてふるいたたせる激しい文章だ。広津さんは、いかりを小出しにしてながく持続することを訴え自らもその態度をとられた。松川弁護団のなかにはカッとなって大声をだしたいタイプも一、二に止まらなかったが、広津さんは検察側などの出方のひどい時でも「立腹はもっともだが、小出しに」とよく声をかけられた。後で知りえたことだが、戦時下の暗い侵略戦争謳歌の風潮のもとで、アンチ文化の跳梁に対し音をあげず、おそれず、冷静に耐えて、見るべきものは見つめてこらえてゆくことを公言していたこの文学者の言動は、戦後の松川裁判に対する批判活動という行動に直結して、戦前戦後、一貫していたといえるのではないか。
大塚一男「広津さんと松川裁判」
昭和48年10月
『御商売の方はどうです』
『まだ、商売にはなりませんが、仕事だけは運ばして居ります』
『あなたは金を目的でかういふ仕事をなさるのですか、それとも仕事が面白いのですか』
『気に入つた本を出版したいのでしようね』
『何故御自分の著書を出版されずに武者小路氏のを出版なさいますか』
『僕の本では売れません。それに一体僕といふものが総て向ふから来るものを解剖する性質の方の人間であるから、武者小路氏のやうに自分からクリヱートして行くといふ人を非常に珍らしく敬服するのです。武者小路氏が好きなのです』(中略)
『創作の方はどうです』
『前から寡作で、一冊の本を纏めるのにさうですね一二年間の書いたものだけでは纏まりません』(中略)
『あなたは創作では生活の自信はありませんか』
『この頃のやうに雑文を二三篇書けば一ト月食へるやうな時世であればその方を混ぜれば食へますが創作だけでは自信ありません』
岡本一平「芸術社にて」
大正13年7月
広津さんにはいくつかの口癖がある。座談をしていてもそれがひょいひょいでてくる。たとえば、《僕は七・五調はきらいだ。ロマン・ローランと大山郁夫はきらいだ》がその一つ。たとえば、《僕の小説はダメだよ。自分で読んでもちっとも面白くない》がその一つ。《僕は不精者なんだ。首をこっちへ向けたらそのままにしておきたいんだよ》もその一つ。《万年床にもぐりこんでとりとめもないことを考えてぼんやりしているのが大好きなんだよ》もその一つ。(中略)はじめのうち私は広津さんが謙遜しているのだと思った。あれだけの大業を完遂した人だと思うからである。そこで、広津さんの言葉をみんな逆に考えることにしたのである。ところが接触と観察がかさなるにつれて、どうもこれはほんとらしいと思いだした。ほんとに広津さんは不精者で、万年床が好きで、あまり本を読まず、小説を書くのがおっくうでならず、できるかぎりフトンのなかでウトウトしていたい人物らしいのである。惚れると弱いもので、そうと知ったら、これまた好きになってしまった。
開高健「行動する怠惰」
昭和38年8月
君が自分よりも弱い者、愚かな者、貧しい者に対して、無礼を働きかけたやうなことを、僕はこれまでに感じさせられたことが無い。情愛に脆い、いゝ意味の苦労人の、また利巧だからだと思ふ。
その代り、それと反対なやうな方面に向ふと、随分と思ひ切つたやうなこともやつて退けるやうだ。それで或る場合には、人を喰つた悪度胸者のやうに誤解されさうな気もするが、併しそれだけの性格の強味が無かつたなら、あれだけの重荷を背負つて今日の地位を切り拓いて来ることが出来なかつたゞらうと思ふ。
七八年前舟木君の宅で初めて君と会つた時、僕は狂熱と言ふか潜熱と言ふか、さう言つた閃めきを感じさせられた。その時分の君は、今よりももつと不健康さうな、青く窶れた顔してゐたが、併しさうした冷めたさうな青白い表情のうちに、僕は今言つた鋭い閃めくものを印象させられたのだ。そしてまたその時分から君は小説も書けたし、翻訳も出来た人だ。
葛西善蔵「好い意味の苦労人」
大正8年2月
彼はその頃書きかけた、処女作「転落する石」に就て話した。それが出来上つたら、急に気持が変つて、新に「神経病時代」を書いて、処女作として中央公論に発表した。
その中央公論が出た日に、広津氏は蒼い顔をして、私の所に来た。「活字になつたのを読んで見ると、実に詰らなくて、まるで、大きなガタ普請みたいだ。憂鬱だ」と云つた。彼もまた今より一層若い日の事である。(中略)
二人とも、その頃から不眠症の夜が多くて、夜ふけに永田町から山王様の方を散歩して、刑事に咎められた事もある。「君たち小説家が、淋しい夜ふけの町をさまよふ事は、知らんでもない」と刑事は「淋しい」と云ふ形容詞を特に強めて言つて、私たちの通行を許した。
そして毎夜、赤坂の花街にある。「あづまや」へ汁粉を食べに行くのが、私たちにはどんなに楽しかつたか。実際それはおいしい汁粉であつた。
片岡鉄兵「汁粉とチイズ」
大正13年7月
広津君といへば、僕の眼の前にすぐその笑顔が浮んで来る。眼元に一ぱい皺をよせ、あの長つぽい、白いといふよりも蒼白い顔の相恰を幾らか崩して、低いかすれたやうな声でくツくツと一種独得の調子で笑つて居る様子が非常に愛くるしくて魅力的だ。僕は広津君の笑顔をよく見るが、まだその悲しんで居る顔を見たことがない。見たかも知れないが、一寸思ひ出せないし、想像も出来ない。君程始終つまらないとか不愉快だとか面白くないとか言つて居ながら笑つて居る男は少い。何だか始終笑つてゐるやうな気がする。何か癪に触ることがあつて頻りに憤慨してゐる時でも笑ふ。怪しからん/\と怒りつゝ笑つて居る。
だが勿論面白くて愉快で笑ふのでないことは明かだ。君の笑は何となく傷々(いた/\)しい。無理なところがあるやうな気がする。そしてその声も調子も決して陽気な明るいものではない。
加能作次郎「断片」
大正13年7月
このことで思いだすのは、二度目の最高裁判決で全員無罪が確定したあと、『中央公論』で行なった「松川事件十四年の日々」という座談会のときのことだ。岡林弁護人が「無罪になったからそれでよいというのではいけない。警察のあり方、検察のあり方を正さねばならない。広津先生もホッとしておられるにちがいないが、私らとしてはそこまで追及しないと、かえって無責任になると思うんです」といったのに、先生は「しかしぼくの考えていることをはっきり言うと、このへんで、またもとの、のらくら者にかえりたい」と笑われたことだ。
歴史的ともいえる松川裁判の幕切れで全体に興奮がうずまき、さらに権力犯罪を追及しようという声が高かったときに、その興奮した空気にのらず、こういい切って静かに退けたのはやはり先生なればこそで、いま考えてみれば平凡なことのようだが、そこに先生の偉大さがあったのではないかとさえ思われる。
佐藤一「広津先生を想う」
昭和43年11月
相馬泰三と云ふ名前が「意固地」の代名詞になつて居る様に、広津和郎と云ふ名前は私達の仲で「ずぼら」の代名詞になつて居る。其れ程広津はずぼらである。凡て時間に関係した仕事――何日何時に催される会の幹事とか、世話人とか云ふ役目を決して広津に任せてはならない、強ひて頼むととんだ目に会ふ。広津を汽車の機関手にしたら急行列車をやたらに停車させたり普通列車を終着駅迄とめずに走らせたりするだらう。いつだつたか相馬泰三が私の処へやつて来て、「今日君の家で広津と落合ふ約束になつて居る。」と云つて昼少し過ぎから晩の九時頃迄待つて居たが、到頭広津は来なかつた。あとで聞くと広津は途中で或る友人の下宿へ寄つて、トランプをして晩迄遊んでしまつたのださうである。而かも其の友人の下宿にも、当時私が住んで居た家にも、電話があつたので、ちよいと電話を掛けてくれれば相馬が待ちぼけを食はないで済んだのであるが、そんな場合に電話を掛けるだけの心づかひをするにも、広津は余りにずぼらなのである。
だが彼のずぼらは其の怠惰性(幾分生理的の)から出るので、決して不正直な為めではない事は、どんなに彼のずぼらに困らせられる人でも十分認めて居る。世間には自分の都合の好い仕事だけを熱心に勤めて、不利益な事はわざとずぼらにしてしまふ人が居る。だが広津はそんな点で毫も誤解されないだけの無邪気と正直とを持つて居る。
谷崎精二「ずぼらで然し正直」
大正8年2月
私も広津も都会人であつた為め、服装などは他の、田舎出の学生に比べて劣ては居なかつたが、恐らくクラスの中で一番貧乏だつた方らしい。広津の弁当のお菜は大概うづら豆だつた。あんな甘つたるいお菜でよく御飯が食べられると私は訝かしく思つて居た。其の又私は、学費を得る為めに毎晩或る処へ勤めて居たので、昼も晩も冷たい弁当飯を食べてあき/\して居た。而して同じクラスの某、某君等がお昼になると近所のミルクホールへ温かいライスカレを食べに行くのを見て羨望に堪へなかつた。(中略)
私も広津も其の頃はかなり熱心な少女讃美者であつた。毎日往復の電車で、見知り越しの可憐な女学生と顔を見合せると、胸をどき/\させたりした。(だが其等の少女が何処の何者だかは無論私達にわかつて居なかつた。彼の女等の住所を探つたり、手紙を送つたりする様な不良少年的勇気は私達は持つて居なかつた。)
谷崎精二、同上
柳浪先生は、広津さんの孝養も空しく永眠された。そして、そのお通夜の日――というより、その翌朝の白々と明けそめてきたころである。私たち四、五人の青年は柩のある室から離れて別間でうずくまって半睡していた。そこへ広津さんが突然入ってきて、一枚の絵を掲げるようにして皆に見せた。
柳浪先生の死顔が、洋画用のスケッチ板に、素描されていた。瞬間、私はあっと驚いた。ほとんどホワイトとネズミ色だけを使ってであったが、頬骨の出た、やや寸詰りの鼻のさきの尖りが、生き生きとしていた。といって、鋭かった目は閉じられ、もはや遠く他界へ去った人のつまり死相がはっきり写しだされていた不思議な感じの絵だった。
私はだいたい、世の中にある死顔絵、デスマスクを好まない。これまでに、偉人、芸術家のそれを幾つ見ただろうか。一度だって故人を偲ぶよすがを感じたことはない。これは嘘だという反撥を覚えることの方が多い。
しかるにこの絵はどうだ!
広津さんは、ずっと後年のことだが「ボクは父母、子、妻、愛する人、親しい人全部をあの世に送ってから最後に死にたい」と言ったことがある。それは広津さんのある意味での強さと人に対する深い愛情を裏がきするものであるが、この絵にはその広津さんの「父さん」との永遠の別れを惜しむ慟哭があった。枕頭に凝っと悲しみに耐えながら絵筆をとった作家の強さがあった。
永瀬三吾「父柳浪を描いた名画」
昭和49年2月
私が、矢来三番地の広津柳浪氏のお宅に寄寓して居たのは、明治三十三四年頃で、和郎君はまだ七つ八つの年頃であつた。当時柳浪氏は「雨戸を閉めなければ書けない。」と云つて、夜を徹し乍ら「紫被布」を書いてゐた。和郎君は、此お父さんに似て神経質な、敏感な少年であつた。夜などお父さんが留守になる事があると、それを気遣つて、夜中に起き上つて、能く淋しさうに泣いたりした。(中略)同じ兄弟とは云ひ乍ら、兄さんの方は写真で見るお母さんに似てをり、和郎君の方はお父さんその儘で、お父さんの血統を引いた子供といふやうな感じがする。そして、お母さんのなかつたといふ事が、年よりは老(ま)せた、感じの鋭い、一面から云へば大人らしい心持なり、行動なりをもたせた一つの原因であつたと思はれる。
それからずつと後に、柳浪氏が「和郎は文学者志願で、小説家になり度いといふ事を洩らしたが、何うしたものだらう?」と、心配さうに私に相談された事が一度ならずあつた。併しそれに対して私は、善いとも悪いともはつきりしたお答はしなかつた。兎に角相当に学問をして素養さへ出来たなら、それで一安心だ、その上は天分の問題だからといふやうに自分では考へてゐた。しかし、近来はめき/\と売り出して、新進作家の中でも目星い一人になつてゐられるので、柳浪氏も大いに喜ばれてゐる事であらうと思ふ。
中村吉蔵「神経質な少年時代」
大正8年2月
今更、かくす必要もないことであるが、父と私とは別々の家を持っていた。父母の別居以来、母の家で育った兄と私は、父と母の二つの家を行ったり、来たりするのが、長い間の習慣であった。(中略)
昔、未だ女学生になりたての頃、私は不意に思いついて、その頃父が仕事場にしていた本郷の菊富士ホテルを訪れたことがあった。一人でそこへ行くのは初めてであり、引込思案な私にしては、全く珍しいことであった。訪れを知って、玄関正面の巾の広い階段を足早に下りてきた父は、私をみると、どうしてよいかわからぬと言いたげな、一種はにかみに似た表情をみせて、微笑し、
「ああ」
と言った。
父は座談のうまい人と言われているが、それは自分の興味のあることを、面白いと感じながら話すうちに、段々と味が出てくるのであって、相手の心を意識して、その心をほぐす為に、器用なもの言いをするなどという手管の出来る人ではなかった。
不意に訪れてきた女学生姿の娘に、どういう言葉をかけて愛情を表現してよいかわからぬ不器用な父親と、これも甘え方のわからぬ引込思案な娘とは、黙ったまま連れ立って、本郷の通りを歩いた。
並木の色づく頃で、父は細かい飛白の和服を着ていたが、四十代であったその頃の父は、水際だって、すっきりしているように思われた。私はこの美しい父と一緒であることが、内心誇らしく、誰か友人に逢えばよいがと、しきりに願いながら、然し、だまったまま、父の側を歩いていたのだった。
広津桃子「波の音」
昭和43年12月
昭和四十二年六月、早大憲法懇話会の依頼を受けたわたしの取り次ぎで、広津君は早稲田大学で松川事件について講演してくれることになったが、その日はとつぜんやってきた豪雨のために、講演がすんでもすぐに帰ることができず、わたしは広津君と大隈会館で豪雨がやむまで話し合った。そのとき広津君は、松川裁判の論告や判決文を調べるのはたいへんなことであったろうとよくひとから言われるが、決してそんなことはない、と言って、こう語った。「検事も判事もむずかしい法律書を首っ引きにして書類を書きあげるので、ぎごちない文章がじつに多い。そこをついていくと、論告や判決のごまかしや誤謬がすぐに見つかるのだ。これは小説を書くよりもらくで、ぼくにはこんな仕事のほうがおもしろいのだよ」と。
舟木重信「広津和郎君のこと」
昭和48年12月
差戻し前の最高裁長官田中耕太郎氏が「裁判官は法廷外の雑音に惑わされるな」と警告したのは、あきらかに広津氏の裁判批判を指したもので、それゆえに国民の関心がこの裁判に昂まったのだが、田中発言は、広津氏の鋭い論理に対する裁判官の動揺を防ぐためだった。それだけ氏の綿密な批判はおそれられていた。
この批判活動を通じて、氏の賢明さは、決して政党とは手を握らなかったことである。周知のように被告団の多くは日共党員であった。日本共産党も社会党も被告団を支援していたから、当然に氏は政党活動の中にまきこまれる機会があった。しかし、氏はそれを断った。氏の中にあるのは飽くまでも「松川裁判」のみである。もし、これに政党色を導入せんか、第三者に対する印象としてその客観性は失われ、説得力は弱まる。それで氏は政党を拒絶した。それは容易にみえて、実はむつかしいことである。氏が松川裁判を「政治裁判とは思わない」と云ったのは、その周到な用意からである。
そのために氏の発表する裁判批判にどれだけ国民が耳を傾けたか分らない。そして、それまでは「裁判」とは全く裁判官・検事・被告・弁護人の四者だけによる神聖な密室と思われたものが、これをひろく国民の視聴の前に開放したのは広津氏の大きな功績と思う。
松本清張「広津氏と松川裁判」
昭和43年11月
僕の親類に浅草で料理屋をやつて生活を粋化せんとしてゐる男に長谷川虎太郎といふ人がある。この男がある日一ぱい機嫌かなにかで公園うらをあるいてゐると、真昼間の春の日なのにひとりの大男が、軒を並べた玉ころがしの一軒の軒先に突立つて、一生懸命懸賞つきの玉をころがしてゐたさうだ。はて、世の中には閑な男もあるものだと近づいて見ると、それが広津だつたといふ――
「広津つて男は妙な人間だな。よつぱらつてでもゐることかシラフで、友だちでもゐることかたつた一人なんだよ。それが真昼間、玉ころがしを――」と虎太郎が言つた。
面倒臭いから僕は――
「ウン、あれも妙な人間さ。あれは玉ころがしが大好きな性分なんだ。」と答へて置いたが、ひとりになつてからこの話を思ひ出して、何となく広津の晴れた淋しさとでもいふやうなものをヒシヒシと感じて、ウレシイ男だなと呟やいたのである。
三上於莵吉「蔭口をかく」
大正13年7月
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