葉山嘉樹 【はやま・よしき】

小説家。明治27年3月12日〜昭和20年10月18日。福岡県京都郡豊津村に生まれる。青年時には水夫、学校の庶務課、セメント会社、新聞社、ダム工事など職を転々とするが、その間、何度か労働運動に加わり、投獄される。大正14年にプロレタリア小説「淫売婦」を発表すると、たちまち才能ある有力新人の登場として注目をひく。既存のプロレタリア文学が観念的、図式的性格を持っていたのに対し、葉山の作品は人間的な自然な感情をのびのびと描き、芸術的完成度も高かった。特に「海に生くる人々」(大正15)はスケールの大きな叙事詩的作品で、日本プロレタリア文学の記念碑的傑作とされる。昭和19年、満州の開拓村に移住するも健康を損ね、昭和20年10月18日、帰国途中の列車で脳溢血をおこし、死去。享年51歳。代表作は「淫売婦」「セメント樽の中の手紙」「海に生くる人々」、「労働者のゐない船」、「山谿に生くる人々」など。

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著作目録

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回想録

 これらの短篇群は、一見無雑作に書かれたやうな印象を与へる。しかしこんど読みかへして、さらにその感をふかくしたのだが、葉山は、人間としては無雑作な、底抜けのやうな一面があり、そこに或る面白さもあつたのだが、制作となると、決して無雑作ではない。むしう神経質すぎる位である。どのやうな短篇の場合でも、一定の構想の下に、こまかい計算をつけないと安心しない。その気持の安定を求めて、焦燥してゐる葉山の姿が、行間にひらめいてゐる。かういふ点、めづらしい作家だといへる。
 このことで、葉山が私の家で制作してゐたころのことが思ひ出される。葉山が朝つから、机にかぢりついて、何かたくさん線をひいて、それをいろいろに組合したりしてゐるので、君は柄にもなく家でも建てようといふのかと、私が冗談をいふと、いやあ! といつて頭を掻いた。じつはそれが、ほんの五六枚程度の短篇の構想だつたのである。私は、感心するよりも、呆れたのを憶えてゐる。
青野季吉「解題」
昭和23年6月



 ゴールキーは自分の咽喉に向けて短銃を打った。然しそれが打ち外れたときから、彼は全く生き変った。――葉山が云うのだ。――俺は、ところが、そのゴールキーを読んで、自殺することから立ち上った。それまでの俺は手のつけられないゴロだった。
 そして僕は、更にその葉山の小説に初めて襟首をつかまれたのだ、と云っていゝ。それは全く「逞しい腕」だった。葉山は日本の文学が今迄決して持たなかった「逞しい文学」をひっさげて登場してきた。その最初の作家だった。
 それは日本のあらゆる「僕等」を振りまわし、こづきまわした。――葉山の「海に生くる人々」一巻は僕にとって、剣を擬した「コーラン」だった。
 で、「それまでの俺は手のつけられないゴロだった。」――葉山はそう云う。然し「それからの」葉山は、では「ゴロ」でなくなったろうか。「手のつけられない」ゴロではなくなったろう。だが、そのゴロは、葉山の身体の何処にもまだゴロ/\しているのだ。――僕は小樽で、「海に生くる人々」の西沢の家で葉山と一度会ったことがある。その時そのゴロは、葉山の場合、不思議な彼の一つの魅力であることを知った。例えて云えば、それは争われず、鉄の「スターリン」に会うのではなくて、時々無邪気に脱線して、レエニンにやっつけられた若い日の「ゴールキー」に会うような気楽さを僕はもてた。
小林多喜二「葉山嘉樹」
昭和5年1月



 回顧的になることを許して貰へれば、大正十四年十一月、日本のプロレタリア文芸は突如大いなる祝福をうけた。
 まことに文芸戦線で発表された『淫売婦』はセンセイショナルであつた。かなり反動的潮流の強かつた当時、そしてダダが表面的に眼立つてゐた時に当つて正面からきりむすんでくる、真面目なプロレタリア芸術作品の出現は僕たちにつよいショックを与へた。
 物語の奇異による興味性は正しい社会認識から生じてくる作者の批判と結び付いて「被搾取階級の一切の運命を象徴してゐるやうな」淫売婦の姿を凄絶な迫真力をもつて彫り上げてゐた。
 今にして思へば、大正十四年は二つの「我等の」画時代的作品を持つてゐた。一はこの『淫売婦』であり、一は萩原恭次郎氏の詩集『死刑宣告』である。そしてこのモニュメンタールな二つは相結んで適確に大正十四年のプロレタリアートの芸術に於ける自らの表現の序幕と終幕とを示してゐる。(中略)
『淫売婦』は、次の段階に迄成長し来つたプロレタリアートが昨日のどんづまりを打ち開いて、新しいスタートを切る為に持つた所の芸術表現である。『死刑宣告』の昨日性に反して、大正十四年に於ける、正に「今日」の「我等の文学」を築いたのが『淫売婦』だつた。だから、それは当時のプロレタリアートによつて熱狂的に迎へられ、それに強い力と悦びとを与へたのだ。
高見順「葉山嘉樹論」
昭和3年8月



 小豆の食事が悪かつたのか、父はまたアメーバ赤痢になる。休むことができないので薬をのみながら働く。前に来た時は慰問団や奉仕隊として来たので、あまり重労働はしなくてもよかつたが、今度は団員として来たので、一人前の労働を要求される。父は「自分でできるだけの事を、一生懸命やれはいいのだよ」と言うが、今まで本式に農業をやつたことがないので、肩身のせまい思いをする。
 満州の自然は全然変わつてはいなかつたが、そこにいた団の人達は人手不足の重労働の重荷に皆殺気立つており、不安を感じさせられる。父の話してくれた夢を持つゆとりも、なくなつてしまつた。
 非国民だの、スパイだのと、故郷の村で言われた言葉が団の人の口にものぼるようになり、いづらくなる。そうかといつて帰ることはできないし、父と二人なぐさめ合つている。班長に人手が足りないから、二人で草を刈つてくるようにと言われ、今まで馬を使つたこともなく車をつけることも知らないのにと、意地悪を悲しく思い、見様見真似で、馬に大車をつけて綱をにぎり、「ハイツ、ハイツ」と言うと、馬は歩き出した。父は大車の上で、カラカラと笑い、「百枝うまいのう」とほめている。
財部百枝「父・葉山嘉樹のこと」
昭和41年10月



 葉山は論文といったものをほとんどかいていない。このことは特徴的で、彼の哲学的なもの、政治的抗議といったものは、すべて作品におりこまれている。プロレタリア文学の基礎工事時代に、このことがないのは、彼が作家として“実際的”であると同時に、ある“弱さ”でもあったと思う。
 葉山の才能は、プロレタリア文学内部のみでなく「敵ブルジョワ文学」もひろくみとめたところであった。横光利一が「プロレタリア文学で怖いのは葉山一人だ」と語ったという話を、横光に私淑していた橋本英吉が、私に語ったところである。じっさい私なども葉山の作品集をなにかとひろいよみしていると、自分も書けそうな気がしてくるのであった。そういう作家はザラにあるものではない。しかしこんな一めんもあるようだ。たとえば小林多喜二とくらべると、彼は「敵ブルジョワ文学」を小林ほどには突っつかない。もちろん葉山にはあゆなどみぢんもない。単純なくらい潔癖で、その作風も主題も、多様とか新奇とかではない。けっして古くはないが、新説をとなえたり、論文で突っつくといったことをあまりしなかった。だから、たとえば前記の小学館『嘉樹全集』第二巻付録にかいている宇野浩二のようなうけとり方もあった。「葉山は私の知るかぎり、ほかのプロレタリヤ作家から、いくらかはなれて作品を書き、生活をしてゐたやうにおもわれる。」「ほかのプロレタリヤ作家たちと、さきにいつたやうに、あまり交際をしなかつたらしいことと、やはり、葉山の文学の修業のために、あまたのすぐれた作品をのこしたのである。」この宇野の言葉を、私は全部的にはうけとれないが、ある側面は語ってるように思う。
徳永直「葉山嘉樹の位置」
昭和28年6月



彼はときおり長野(伊那だったと思う)からでてきたが、ゴリキイが亡くなって、その追悼号をだすとき、彼にその文章をたのんだことなどあった。ゴリキイの死に対する彼の悲しみは、おどろくほどいたましかったのをおぼえている。しかし一ばん印象ぶかかったのは、一九四三年の早春か、四二年のくれだったと思うが、彼が開拓移民として渡満するちょっとまえ、丸ノ内の方の街路であったときであった。有馬頼寧の主催した農民文学懇話会に出席するためぐうぜんぶっつかったのである。この会は戦局がはげしくなると、軍部からもあまり快よく思われなかったようで、だんだん尻細りになり、たしかそのときも流会になったように思うが、いま一人、間宮茂輔と三人で、銀座裏の方へ歩いた。青野の『解題』によると、このころ彼は報導班にくわわりたい意志をもっていたことになるが、私はあまり話もせず、知らなかった。間宮と二人で私のまえを歩いていく。そのゲートルまいた長いすねの細いこと、どっか手足や唇などもアル中らしく小刻みにふるえている。銀座裏も戸をとざしているのが多く、小さい汚ない店でやっとコーヒー一杯ずつのんだが、間宮と二人で低声で、しきりと話しこんでいた姿、いたましいほど消沈していて、影がうすかった。
徳永直、同上



 彼は短篇「淫売婦」で勢よく飛びだした。無名の新人の作で、最近これほど問題になつたものはない。殊にそれがプロレタリア作家で、掲載誌が「文芸戦線」ときてゐる。潮時がよかつたとは云へ、文壇もまだそんなに腐つてゐないのかも知れない。誰が書かうといゝ作はいゝ作でどんどん評判になるやうな文壇なら、こんなに結構なことはない。
 さすがに偏侠な文壇も「淫売婦」には一たまりがなかつたのかも知れない。これは、有名連にも無名連にもいゝみせしめだ。(中略)
 彼は、又、うまい。うますぎるといふ評判さへある。恐らくプロレタリア作家としては珍らしいのだらう。
「セメント樽」などは実際どこも非のうちどころがない程、うまい。殊に結びの五六行など、従来の作家にはとても書けないところだ。この悲劇的な手紙をよんだあとの労働者の気持――たいていの作家なら、この手紙だけで打ち切つて余韻を残さうとするか、又は驚愕や悲愁の小主観をつけたりにしたりするか、どちらかだ。ところが、この作者は、その手紙とは縁もゆかりもない言葉を知らん顔で吐かせてゐる。ソツポを向いて図太く投げ出してゐる。それが怖ろしい効果を現はしてゐるんだ。なんたる手際よさだ。作者は土俵際で事もなげにうツちやりながら、読者の魂を身動きもならないほどムズと掴んだ。
橋爪健「新人の横顔―葉山嘉樹君―」
大正15年11月



 かつて葉山も、わたしと同じ印度航路に乗っていたので、ことに話があうのであった。上海、シンガポール、カルカッタ、そこでの女、酒、賭博、次から次へと話はつきることはなかった。
「君酒を飲みたまい。洒は僕の恩人だよ。酒によって僕はすくわれたよ。君、酒を飲まないと自殺するよ」そして、
「酒も飲むべし、女も買うべし、そうしてほんとうに船乗りの苦労を知りたかったら、君、社外船に乗って見るんだな」
「これ以上苦労するのはもうこりごりですよ」とわたしはいった。
「俺はいわばごろつきだよ。ほら、今日も土方時代の友人が、殺人をやってぶち込まれたって手紙が来てるよ」
 そういって封書を見せるのだった。
 文学の話などひと口も出なかった。時々人なつこい瞳が、きらりとするどく輝くのをわたしは見のがさなかった。
 わたしはその日の日記に――少しも文学者臭いところがない。しかしあの快活でらい落な風貌から、わたしは、あの怒号と気はくと闘争心に燃えた作風を連想した――と書いている。
広野八郎「葉山嘉樹・私史」
昭和55年6月



 葉山嘉樹という男は、その処女作集『淫売婦』の出版記念会から、私達の仲間に加わった。たしか青野季吉の紹介だったとおぼえている。見たところ、背丈のすらりとした、色のあさぐろい、ロイド眼鏡をかけた青年で、一定の角度を保ってかぶった鳥打にも、多少の工夫はこらしてあった。
 そのころ、私達のあいだには、自分が労働者出であることを、必要以上にひけらかす風習があって、葉山の自己紹介にも、ごたぶんにもれず、どの社外船を印度のどこでずらかったとか、なんの飯場で帳つけを何年やったとかいうルンペン的な閲歴が加わった。それだけではなく、かれの場合には、その作品の前書きにまで、これは某の刑務所に何年刑期をつとめたときの作であるというような文句まで書き添えてあった。
 かれが私に接近した理由の主なるものは、お互の弱点であるところの酒であった。(中略)葉山も、なかなか私に敗けていないほどの痛飲家であった。しかし、元来が私ほどの労働体験もない、きやしやなかれの体質は、むりをすると、とかく酒にたたられて、宿酔にどんよりしていることは珍らしくなかった。癇癖のつよい男で、酒が頭にのぼるといっては、そのわりに小さな、さき尖りの頭を、いつもゴリゴリの五分刈に刈りつめていたものだ。
前田河広一郎「葉山嘉樹について」
昭和29年11月



 収入もすくなくはあったが、葉山という男は、決して自分の金は他人に公開しないという信念を堅持するかに見えた。かれはどれほど仲間の酒を飲んでも、その仲間に飲ませるということはなかった。
『あいつは狡い。』
 よくこういう非難も葉山についておこり、その都度私などは、
『まあ、いいさ。そんなこと云ったって、今にこの酒もろくに飲めない時代が来るよ。』
 と云って、否定の否定をするだけだった。
 その時代は、私などの予言したよりも早く来た。宿命的に戦争に突入すべく定められていた日本の帝国主義的資本主義は、一も二もなくわれわれの運動にものしかかって来た。機関雑誌は四つに裂け、五つに裂けて、同志というものもちりぢりばらばらになった。私達はどうにかこうにか食って行くための努力で精一杯となった。仲間のあるものは文学をやめた。また、あるものは支那蕎麦を売った。葉山は、そのころ木曽の山奥の細君の郷里へ逃避した。たまにドテラ姿で東京へ原稿を売りに来たが、もうそうなると、毎日来ていた私のところへなどはふっつり寄りつかなくなった。それからしばらくすると、葉山と友人関係のあいだに絶交問題というものがもちあがった。例によって貸借関係がもとで、うら枯れた消費生活につきもののすったもんだである。そのうちに、葉山は満州に開拓団をひきいていったということだった。そして噂によれば、休戦で満州から引揚げる途上、栄養失調でハルピンでのたれ死したということだ。
前田河広一郎、同上



 いつものように、カーキ色の作業服を着、背籠を背にした長身の葉山さんが、私の家へ訪れて来た。それは、私の日記によれば、昭和十七年三月二十五日のことであった。
「午后葉山氏来、夜、飲み、氏は宿泊」とある。翌二十六日には、「昨夜、葉山氏と共に、民樹君淡島商船学校入学を喜んでのみ、銘酎。今朝、弥栄橋まで送り、帰りて、古い手紙を読んで、感傷、さびしいなり」などと書いてある。(中略)
 葉山さんは、「ちよっと町へ出ませんか」と私を誘った。これは、いつもの如くである。私もいつものように、その葉山さんのあとに従って町に出たのであった。(中略)
 町へ出た葉山さんは、郵便局まで私を伴っていった。そして、「子供が商船学校に入学した。お金を拝借したい」という内容の電報を、岸田国士と金子洋文と、あと知人二人へあてて打電してくれるよう、局員に依頼したのであった。
 電文を局員に渡し、料金をきくと、葉山さんは、「持ち合せがあったら立替えといてくれませんか」と云った。私の持ち合せが、電報料に足りたので、私たちは郵便局を出た。
松井恭平「葉山嘉樹の晩年―『海に行く』の周辺―」
昭和44年9月



 この葉山の「淫売婦」がでた直後、この年の忘年会をかねた同人会議が、新宿二丁目の赤天狗こと朝日屋でひらかれた。そのときはまだ同人ではなかったが、ちょうど木曽から青野のところへやってきていた葉山嘉樹も、これに招いた。
 忘年会でもあり、『文芸戦線』もいきおいづいてきたやさきだったから、同人の意気はあがって、酒は議論をよび、議論は酒のメートルをあげて、たいへんな賑やかさだった――それが、葉山の癪にふれた。
「ベラボウめ!」
 葉山が、グイグイのみほしながら、たんかをきった。
「きいちゃいられないよ、口さきばかり達者だって、プロ文士に何ができるかってえだ。のむなら、しおらしくのめや」
 こいつ、あまのじゃくめ! と、わたしは癇にさわったが、こらえていた。ところが、青野や前田河やがなだめるのにあまえて、このわたしにとって初見の「淫売婦」の作者は、インテリ無用論からプロレタリア文学の否定論まで、まくしたてるのだった。(中略)
「いわしておけば、いい気になりやがって――」
 わたしは、葉山にいった。
「それほどわれわれをけいべつするなら、手前が小説をかいたり、こんなところへやってきたりしなけりゃいいじゃないか」
 というなり、わたしは、葉山の横面を力まかせにくらわした。ピシャリと音がした。いい気持だった――が、次の瞬間わたしは、わたしの一倍半は大きい葉山のためになげとばされて、もんどりをうっていた。
「気に入った――」起き上ってまた飛びかかろうとするわたしに葉山はいった。「プロ文士には、お前みたいな奴もいるんだ。見なおしたよ。山田、ちょっと待ってろ、兄弟分の盃をしよう」
 そういって葉山は、階下へおりて行って、塩をひとにぎりと、美濃半紙をもってきたかと思うと、美濃半紙を幾つかに折った上に塩をおき、その塩を盃にいれて、彼とわたしは、向いあって三杯ずつのみほした。
 満座急霰の拍手だった。
山田清三郎「プロレタリア文学風土記」
昭和29年12月



 戦旗と対立してプロレタリア文芸陣営大半の勢力を占めてゐる文芸戦線(労農芸術家聯盟)の内部的抗争は最近非常に激化し、先に黒島伝治一派の中堅が脱退して文戦劇場は遂に解散した結果になつたが二十四日午後十一時市外中野町中野五二二黒島伝治方へいはゆる幹部派の岩藤雪夫、井上憲次、長野兼一郎、里村欣二の四名が訪れ、里村が屋内に入つて黒島を呼びだし黒島が出てきたところを四名で押へて待たしてあつた自動車に引ずり込み杉並町高円寺三二の岩藤方へ連行するや直に座敷へ引きずりあげその場に待合せてゐた葉山嘉樹、前田河広一郎を中心に岩藤は三尺余りの日本刀を畳の上にヅブリと突き刺して
 貴様の脱退理由声明書は怪しからん、この場で直ぐ声明書の取消文を書け
と脅しつけ、前田河、葉山等は焼ゴテなどをふり回して脅迫したので黒島はその場でペンを取つて取消文を書きあげた。
 一方黒島の妻女雪江は夫の急を知らすべく黒島と同時に脱退せる市外淀橋町柏木九八伊藤貞助方に走りかくと告げたので伊藤は同志の長谷川進、今埜大力、今村恒雄等と共に高円寺の岩藤宅に駆けつけると岩藤方の表門は堅く閉されてあつたが葉山、前田河、岩藤等が黒島をののしる声が屋外にまで聞えてくる有様に駆けつけた今埜大力は黒島の身に万一のことがあつてはと表門をたゝきながら
『黒島を迎へにきた』と告げるや岩藤の妻女が現はれ裏口から今埜一人を通した。そこで今埜が台所口から上りかゝると葉山等一同は矢庭に同人の頭髪をつかみ引きずりあげよくやつてきたと一同でこん棒で乱打した上前田河は焼ゴテをもつて今埜の右耳後に当てた。
 この騒ぎに内外に待つてゐた長谷川等は表門から進入せんと身構へてゐるところへ内から日本刀を振りかざした岩藤を先頭に一味はそれ/″\こん棒ステッキを携へて現はれ、ここに大乱闘が始まり長谷川は遂に岩藤のために前額部および両手を斬りつけられたが危くその場から逃だし付近の医院で手当を受けたが全治二十日間の重傷を負うた。
 この乱闘騒ぎに杉並署では総動員して現場に駆けつけ居合せた十三名を検挙し引続き取調中である。
 尚黒島は右手に全治二週間の打撲傷、今埜は右耳後下に全治三週間の火傷を負つた。
「東京朝日新聞」記事
昭和5年11月

大正12年頃 昭和7年1月 昭和15年


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