深沢七郎 【ふかさわ・しちろう】

小説家。大正3年1月29日〜昭和62年8月18日。山梨県東八代郡石和町に生まれる。大正15年、日川中学に入学し、ギターに熱中する。卒業後、職を転々としていたが、昭和29年から日劇ミュージック・ホールにギタリストとして出演するようになる。昭和31年、42歳の時に中央公論新人賞に応募した「楢山節考」が当選。その前近代的な土俗世界は、選考委員の三島由紀夫をはじめ、文壇に大きな衝撃を与えた。続けて、戦国時代の甲州の農民を描いた「笛吹川」(昭和33)も話題作となる。しかし、昭和36年、皇族が処刑されるシーンを描いた「風流夢譚」が、右翼テロ(嶋中事件)を引き起こしてしまう。この事件を契機にしばらく筆を折るが、「脅迫者」(昭和38)など、事件を堂々とパロディ化した作品を発表し、精神の逞しさをみせた。昭和62年8月18日、心不全により死去。享年73歳。代表作は「楢山節考」「笛吹川」「風流夢譚」「庶民列伝」「みちのくの人形たち」など。

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深沢七郎@近現代日本文学史年表



著作目録

*制作未定*


回想録

嵐山 常に一切のことをお金に換算したでしょう。
赤瀬川 そうそう。
嵐山 あれはすごいね、本能的にね。
赤瀬川 そこが、ちょっと真似できないんだ。(中略)
嵐山 深沢七郎における金の計算というのは、二〇年前、僕が深沢さんを秋田のホテルへお連れしたことがあって、朝飯を食いながら、「嵐山、これいくらかね」「五百円です」そしたら、「卵が十八円だろう。……で、全部で七十五円だね」(笑)。また、タクシーに乗ってても「七十五円、八十円、いや七十六円かな」とかさ(笑)、すごく気にかけるんだよね。マジメに原価計算を常に考えている。あんな作家いないよね。
 でも深沢七郎って典型的な作家なんだよ。「百姓はいいよ」とか、「作家はついでにやっている」と言って、今川焼屋をやったり百姓したりしてるけど、全て創作のための体験なんだ。書く材料を探すために、作家でない体裁を装った。あれほど純粋に作家であった人いないよ。生活のすべてが創作への殉教ですよ。
 今の作家と言われる人は、机で、ひたすら物を書いているだけで、ふだんの生活がないじゃない。深沢さんにはそういうものとは違うものがあって、そしてそれが全部創作のためだった。ネギを植えること、引っこ抜くこと、来た編集者を蹴ること、人の悪口を言うこと……(笑)。
赤瀬川原平・嵐山光三郎・篠原勝之「至難の深沢流作法 皆伝」
昭和63年10月



編集部 では、当選に決つた「楢山節考」から。
三島 ぼくはまず題が非常にしやれていると思つたな。非常にやぼな、変なスタイルだと思つていたのだけれども、別なおもしろみもあつて、初めはどういう小説かまつたく見当がつかなかつた。変なユーモアの中にどすぐろいグロテスクなものがある。たとえばおばあさんが自分の歯を自分で欠くところなんかを出して、だんだんに暗い結末を予感させていくわけですね。ぼくは正直夜中の二時ごろ読んでいて、総身に水を浴びたような感じがした。最後の別れの宴会のところなんか非常にすごいシーンで、あそこを思い出すと一番こわくなる。そのこわさの性質は父祖伝来貧しい日本人の持つている非常に暗い、いやな記憶ですね。(中略)
伊藤 初め読んだとき、この人はこれ一つしか書けないのじやないかと思つたが、一つしか書けなくても、なかなかの作家ですよ。
三島 僕は当選に全然異論はないけれども、いやな小説だね(笑声)。好感が持てない。
武田 それはなかなかおもしろい意見だ。
三島 日本に生まれたことがいやになりますね。
武田 ギリシヤ的なものじやないね。
三島 ギリシヤ人も残酷だけれども、こういうようなものはない。
武田 どつかで美しい女にめぐりあうとか、太陽の光に一回ぐらいはあうということがありますね、ギリシヤには。
三島 やみの世界だね。母胎の暗い中に引き込まれるような小説だね。
伊藤整・武田泰淳・三島由紀夫「新人賞選後評」
昭和31年11月



 はじめてお目にかかった頃の磊落な調子が、心臓脚気やら狭心症の進展とともに、気むずかしくなってこられて、訪れる者はいずれもぴりぴりしていたらしい。
 ある若い編集者は、何かのことでお怒りに触れて、しばらく間をおいてから伺候した。
「ごぶさたをしてしまったので、また叱られに伺いました」
 と冗談めかしていったら、
「君、ぼくはなんでもなく、怒りやしないよ。へええ、そんなことを思ってたの」
 また大叱られに叱られたらしい。
 ここ数年は人に会うのもほとんど拒んでおられたとか。
色川武大「深沢さんと自然の理」
昭和62年10月



 ぼくは、深沢さんが、日劇ミュージック・ホールで、ギターを弾いていたころから、おつきあいさせていただきました。
 日劇時代からの友だちには、胸襟をひらく、というところが、深沢さんにはあって……。
 とくに、作家になってからの深沢さんは、人に対して、胸を開かない、ただの変クツの、ガンコなおじさんとしか映らない、ということが、しばしばありました。
 晩年は、ぼくが司会をするならという条件で、テレビに出演して下さったりしました。ほかの人ではイヤだといって……。
 それも、日劇時代からのおつきあいだからなんですね。
 日劇時代からつきあいのある人と、そうでない人とでは、全くつきあいかたがちがいましたね。
永六輔「忘れてあげるのが供養」
平成9年6月



 その深沢七郎に会う機会があって、それは一九六一年ごろの「ネオダダ」という前衛グループの展覧会場だったと思う。その仲間にたまたま深沢七郎と知り合ったのがいて、そこに深沢七郎は呼ばれて来たのだ。アノ「楢山節考」の作者だというので、そんな人がこんな画廊などに来るのだろうかと疑っていた。そうしたら乾物屋か古着屋のおじさんみたいな人が、たしかゴムゾーリをつっかけて、
「あ、だうも……」
 という物凄く軽薄な浮いた挨拶の言葉つきであらわれたので、驚いた。まさかと思うのだけど、それがどうしても深沢七郎なので、ぶったまげた。私はこっそりと顔が赤くなったような気がする。自分で勝手に作り上げていた重々しい深沢七郎像に恥じ入ったのだ。その深沢七郎像に、自分の中のステロタイプがのぞいて見えたのだろう。
 目の前にいるのはそういう私の中のステロタイプをガーンと蹴り倒して、カラカラと路上に蹴転がしているような人物なのである。
尾辻克彦「深沢七郎の透明日記」
昭和62年11月



 だいたい世間の噂によると創作はべつとして農場主(註、深沢七郎)はフーテンであるとか、ニセキチガイであるとか、男色の気配であるとか、いろいろな説がある。じっさいエッセイや放浪記などを読むと正常人ならどう逆立ちしても書けないような、ちょっと名状しがたい味、或る欠落からくる味、奇ッ怪なるユーモアがあって、ウソともマコトとも判決しかねるキチガイぶりなのである。かれこれ十年ほど以前に私はどこかの喫茶店で会って短い会話を農場主と試みたことがあるのだけれど、そのとき農場主はギターを持っていて、『巨人と玩具』というあまり出来のよくない私の小説をとりあげ、何とエロティックな題をつける人なんだろうと思いましたよというのであった。内容はべつとしてこの作品の題、どこから見たらエロティックに見えるのだろう。農場主はまじまじと眼を瞠り、ほんとに感に耐えないような声をだしてそういうのだった。奇敵あらわる。私はそれとなく用心することにしたが、どちらの方角に向って用心していいかわからないのでうろたえた。
開高健「手と足の貴種流離」
昭和43年3月



 葬式の前日に献花していただけますかと中央公論の方から連絡があって、今村監督とかけつけました。そのとき、以前に、自分で自分のお葬式の行進曲をつくったと先生からうかがったのを思い出しました。「友だちのためにも作ってあげて、僕のためにも用意しているけど、友だちがみんな先に死んじゃう。先に行ってしまった奴はうらやましい、僕もはやく行きたいな」ともいってらした。
 お葬式のあいだ中、その葬送行進曲が流れてました。好きな曲を並べてあってね。お葬式らしい悲しい曲は一曲も使っていなくて、クラシックからビートルズ、ロック、ブギなんでもかかった。静かな曲に、「南無妙法蓮華経」とかお経の好きなところを、もちろん生前の先生のシャガレ高音声でそこにかぶせてあるのね。だから「俺の作った葬送行進曲なんだ」って、おっしゃった意味が、それを聞いてはじめてわかったの。曲を聞きながら、先生はあこがれていた世界に行くことができたんだ、やっと達成なすったんだなあと思いました。
坂本スミ子「バラード・オブ・フカザワ」
昭和63年10月



 しかし、楽しい日々であった。スパニッシュギターの名手で、日劇ミュージック・ホールの専属ギターリストでもあった深沢さんは、文学よりも音楽を好んだ。「小説とか哲学の本を読むと頭の中が汚れる気がしてね」といつも言っていた。そのくせ、自分の小説だけは恐しい集中力で書いた。
「オレの小説は音楽なのよ。ハクサイさんも、物書きならば音楽から学ばなければいけません」と忠告してくれた。
 当時、深沢さんはパイオニアの最高級のステレオを購入し、ボリュウムを最大限にしてベンチャーズのエレキギター音楽を聞いていた。野中の一軒家であり、僕たちは、その音楽に合わせて畑の中で踊った。
佐藤健「“ハクサイさん”の弁」
平成9年7月



 一九七三年、僕はニューヨーク大学へ留学することになった。深沢さんは「姥捨て伝説」があるハンガリーヘ行きたがっており、もしハンガリーへ行ったら、僕もそれに合流する約束になっていた。しかし、深沢さんの心臓病は悪化し、その夢は果たせなかった。
 僕がニューヨークへ発つ前々日の朝、深沢さんがヤギさんを連れて僕の家へやってきた。僕の家は、団地の四階だから、心臓の悪い深沢さんにとってはつらい“登山”であったろう。
「これは餞別」と言い封筒を出した。その時はありがたく受けとったが、深沢さんが帰ったあと封筒をあけると「五十五万円」入っていた。当時の五十五万円は現在の三、四百万円にあたるだろうか。僕は菖蒲町へ返しに行った。
「あのねえハクサイさん。あなたにはすっかりお世話になった。あなたがニューヨークへ行っているうちにオレが死んだら、一生恩返しかできなくなる。そのまま死ぬのはイヤだから、せめてお金でと思い、うちの貯金を全部おろしてきたんだよ。せめてのお礼と思ってもらっておいてちょうだい」
 今度は僕が泣く番であった。
佐藤健、同上



「白石さん、友だちというのは季節、季節の花みたいなものだネ、一年の花もあれば一週間の花もある」この話を初めてきいた時は、なんて薄情なことをいう、と深沢さんのコトバの真意がわからず不満に思ったが、それから何年かたち、意味がわかってきた、というより、しみじみとそう思うようになった。それが深沢さんの思想だ。底辺にはニヒルな達感がある。生きてる人々も今、側にいる人たちも、小説の人物たちも彼の、生きて死んでいく途中の風景だ。その中で、ある風景だけを切りとって小説にしていく。眼の前に現れた風景の人物を、ムリヤリ薬などやってなが生きさせようとも、意志というもので人為的に動かそうとも変えようともしない、その意味では自然主義の人であった。が、やってくる風景を極度に厳しく選択した。気にいらぬ風景は、ただちに抹殺した。
白石かず子「解脱と色欲、音楽にのり」
昭和63年10月



 父(註、武田泰淳)の仮通夜には、だいぶ夜が更けてから来てくださった。二十一年前のことだ。ずーっとお目にかかっていなかったので、「花ちゃんは今どうしてるの? 結婚は?」と訊かれた。「花子は最近男と別れたばっかりなのよ」母が言うと、「それはめでたい。結婚なんてしない方がいいです。ずーっと一人の方がいい」と、ニコニコしながらおっしゃった。私の隣に坐っていたある作家のお嬢さんにも同じ事を訊かれ、やはり独身だと答えると、「それはいい。結婚なんて……」と、同じ事を繰り返された。しばらくしてから、「××(某男性作家の名前)のお○○こ(猥褻な言葉なので伏せ字)は、今日は来てるのか?」と、一際大きな深沢さんの声が聞こえてきたので、一瞬、部屋の中がしーんとなり、それから、あちこちでクスクスと笑い声が洩れた。××氏の奥さんがいらしていたかどうか忘れたが、いらしたとしても、とても恥ずかしくて「はい私です」なんて出てくることは出来なかっただろう。皆さんが帰られ、母とふたりっきりになってから、「奥さんのことをお○○こっていわれちゃあねえ、参っちゃうよねえ。ほんとにその通りなんだけどねえ」と、大笑いをした。
武田花「父母と深沢さんのこと」
平成9年6月



 ところで、ことしの多数の作品のうちで、最も私の心を捉えたものは、同じく新作家である深沢七郎の「楢山節考」である。石原(慎太郎)は四方八方から悪口を言われながら栄えているのだが、深沢のこの新作は、今のところ、誰にも褒められてばかりいるようである。はじめから褒められ過ぎるのもよしあしだ。石原はあれでいいだろうが、この作家は、作風から見ても、警戒すべきである。
 私は、この作者は、この一作だけで足れりとしていいとさえ思つている。私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじやない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである。私に取つて、この新作を読んだことはことしのうちの記憶すべき一事件である。
正宗白鳥「また一年」
昭和31年12月



 それからしばらくしてもう一度会うことがあった。それは詩人の白石かずこさんが、一緒にラブミー農場へぼくを誘ってくれたのである。
 その時はすっかり感動してしまった。
 農家の軒先から、いきなりプレスリーが聞こえてきて、そういう中で白石さんが黒人のペニスの話をし、ぼくはというと深沢さん特選のコシヒカリに冷たい水をかけて食べていた。これは考えてみると、かなり奇妙な光景だろう。だが、三人の個性が、ハッキリでた瞬間だともいえるかも知れない。
 深沢さんが、「アンタ歌手だったら一曲やりなさいヨ」と言う。白石さんが「カニの唄はとてもチャーミングだ」とかいってぼくはそれじゃ一曲やります、ということになった。「東京だよオッカさん」という曲をやると、深沢さんは泣いた。よくもあんなに人前で泣けるものだなと思うくらい、涙はふかなかった。涙は次から次へと出てきて、ホントにもう、どうしようもないくらいに泣くのだった。今、そのことを想い出すと、「絶対的幸福」のようなことを考える。
三上寛「深沢さんの想い出」
昭和63年10月



 ともかく、深沢さんは冗談が得意で、人をおどろかしたり、笑わせたりするのが好きだったので、そこが私はとても尊敬していた。
 何度目かの訪問の時、入口のインターホンか何かで、ゴメンクダサイとかコンニチワとか、アカセガワですとか、ミナミです、等言って来意を告げるのだが、ハーイといった深沢さんがなかなか現われない。
「あー、おーそくなっちゃってえ」
 とか言いながら出て来た、深沢さんを見て、我々はギョッとしてしまった。ズボンの前からキンタマがモロ出しになっていたからだ。
 しかたなく、我々はそのキンタマを見ていたのだった。深沢さんはそれに気がついて、
「アレマ!?」
 というと乱暴にそれをしまおうとした。
 その時だった。そのあんまり元気のないキンタマがなんと根本からポロリととれてしまったのだ。
 キンタマは温泉地かなんかで売ってるような素焼のお多福の人形だった。裏から見るとキンタマの形になっているのだ。こんなバカなことを、おじさんがしてるってのがとってもカッコイイ、と私はその時思ったのだった
南伸坊「素焼のキンタマ」
昭和63年10月



 嶋中事件が起こる少し前に話を戻そう。ぼくは、当時、内外タイムスの社会部記者であった。「風流夢譚」が発表され、あちこちで話題にされるや、深沢さんの身辺が極めて危険になった。右翼の脅迫は日増しに激しくなり、深沢さんに対するテロの噂さえ流れはじめた。そんなある日、深沢さんは、金杉橋にあった内外タイムスの編集局へ逃げて来た。
「えらいことになったよ。殺されるかも知れない」ひどくおびえて、社内へ入るなり机の下へ身を隠すほどであった。「俺はもう、どこか遠くへ行ってしまいたいね」という深沢さんとフジキという金杉橋角にあるコーヒー屋で話した。
 すでに、中央公論社は、お詫びの社告を出し、自ら非を認めてしまっていたので、深沢さんは完全に孤立していた。「言論の自由なんてものは、やっぱり日本にはないねえ」と言い、それでも「風流夢譚」の続篇を書くつもりだと、意外に元気な面も見せていた。
 しかし、嶋中事件が起きて、無関係な二人の女性が死傷し、深沢さんは涙をながしながら記者会見をした。「すべては私の責任。私の書き方が悪かったのです」と詫びた。とにかく、他人に迷惑をかけたことが、ひどくやりきれないふうであった。追い打ちをかけるように嶋中社長は「あんなくだらない小説を自分は載せる気持はなかった。編集長のミスだ」と宣言する。いかに右翼のテロが恐かったとはいえ、嶋中氏の姿勢は、言論人の恥さらしであった。
 深沢さんは姿を隠した。執筆活動もむろん中止した。甲州はかえって危険なので、とりあえず京都に潜んだ。もう二度と東京へは戻らない決心であった。北は北海道から、南は九州まで、深沢さんは安住の地を求めて、さまよっていたのかも知れない。ごく少数の友人とだけ、ひそかに連絡をとりあっていた。
矢崎泰久「深沢七郎・夢屋書店探訪記」
昭和54年12月



 深沢七郎さんには、およそ三十年の執筆期間があったが、最後の十年はほとんど病気と闘っていた。(中略)
 やはり悔やまれるのは、ここ四、五年というもの、ぼくがラブミー農場を訪ねなかったことだ。時々電話では、話をした。
「オレはね、薬漬けになっちゃってるでしょ、あちこちむくんじゃってね。それを治すのにまた別の薬飲むわけだから、どんどん薬が増えちゃうの。もう、メシの代わりに薬飲んでるみたいだね。今に一日中薬飲んでるようになっちゃうよ。生ける屍ってのは、オレのような人間のこと言うんだね。だから会いたくても人になんか、会えたもんじゃない。オレも嫌だし……」たいてい、こんな会話ばかりだった。疲れさせてもいけないと思い、顔を見に行くだけでもよいのに、ついつい月日がいたずらに流れてしまった。真、残念でならない。
矢崎泰久「深沢七郎さん、さようなら」
昭和62年11月



 いつだったか、そう、もうかれこれ二十五、六年ほども前のことになる。ぼくがひどい交通事故に遭って、休業宣言をしているときのこと、ある日、奇妙な手紙が舞い込んだ。私は今川焼屋の深沢ですと書いてあって、文面が何ともたどたどしく、誤字も多く、ひどい手紙だった。こんな下手くそな手紙をよこすのは、ちょっと頭のおかしい人が「深沢七郎」の名前を騙って、ばくの所にいたずらをしかけたのだろうと思って、女房に見せたら、女房曰く、ほんとうに立派な人はこういうへたな文章を書くものなのよ、と。何だか分かったような分からないようなことを言っている。ともあれ、今川焼の包装紙のデザインをしてもらえたら、嬉しくてザーメンがざーっと流れるということなので、深沢さんのお宅に伺わないわけにいかない。
 数日後、この手紙を持ってぼくは深沢さんのふる里の石和を訪ねた。深沢さんは、まるで『みちのくの人形たち』に出てくる「私」のような話し方、観察力、感性の持ち主で、ちょっとの間話すうちにたちまちぼくは深沢さんのファンになってしまった。
横尾忠則「南無阿弥陀仏」
平成9年3月

昭和31年12月 年代未詳 年代未詳


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