遠藤周作 【えんどう・しゅうさく】

小説家。大正12年3月27日〜平成8年9月29日。東京市巣鴨区に生まれる。12歳の時に、母とともにカトリックの洗礼を受ける。昭和20年、慶大仏文科に入学し、昭和25年にフランス留学。昭和28年に帰国後、小説執筆を開始し、昭和30年に発表した「白い人」で新進作家としての地歩を確立。「黄色い人」(昭和30)や「海と毒薬」(昭和32)など、日本の汎神論的精神風土と、西洋的一神論に貫かれたキリスト教の対比相克をテーマとした。やがて「沈黙」(昭和41)や「死海のほとり」(昭和48)などに結実する独自のキリスト教観は、海外からも注目を集めた。また、実存的な重いテーマを追求する一方、狐狸庵山人と称して、洒脱なユーモア作品も多く発表している。晩年には、遠藤文学の集大成ともいうべき「深い河」(平成5)を完成させた。平成8年9月29日、肺炎により死去。享年73歳。代表作は「白い人」「海と毒薬」「沈黙」「侍」「深い河」など。

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遠藤周作@近現代日本文学史年表



著作目録

*制作未定*



回想録

 遠藤周作さんは幼少の頃から逸話の多い人です。彼の母上、故遠藤郁夫人から伺った数多い幼少時代の逸話のなかでも最も周ちゃんらしいのを一つ御彼露しましょう。
 七、八歳の頃だったと記憶していますが、或日突然、今日は友達を十人夕食に連れて来るというので、母上が用意して持っていると、六時頃捨犬、捨猫合計十匹連れて帰って来たというのです。
 私は早速彼がそれ等の犬猫を発見した当時の光景を想像してみました。場所は町角か野原か川辺りか推察しかねますが、周ちゃんはそこにしゃがみこむと段々憐憫の情にかられ、困惑し、次第に悲壮な表情になり、思案にくれた揚句、十匹の動物を従え、何処へか移動する、その姿を客観的に見れば、喜劇的だったに違いありません。新婚当時松原の新居を訪問した時も、縁の下に捨犬や捨猫がいるのを見て、「周ちゃんは本当にやさしいんだな」と思ったのでした。
有島暁子「少年周ちゃん」
昭和50年4月



 子供を見ていると、さまざまの型がある。秀才型、ガキ大将型、いじめっ子、告げ口型、いじめられっ子型など。その型がそのまま大人に持ち越されるとは思わないが、遠藤周作君とつき合い始めた時、彼はよくウソをつくし、かげではホラを吹くし、いたずらはするし、体格も良くないし、彼はてっきりいじめられっ子型で、そのまま成長したに違いないと、私は思っていた。
 ところがそうではなかったのである。彼ほど強靭で、冒険心に富む人はめずらしいということが、私には判って来た。たとえば、彼は最近退院する予定だが、生死にかかわる大手術を三度もやる気になるなんて、なまなかな神経の強靭さがなくてはできるものでない。
 かつて『火山』という作品をつくるに当って、桜島火口をヘリコプターか何かで降下視察した後、彼は言った。
「硫黄の煙にむせて、危うく一命を落すところでしたよ」
 私ならとてもそんな危険な火口に、入って行く勇気はない。いくら作品のためとは言っても。
梅崎春生「冒険心に富む人」
昭和37年9月



 父にいわせると、息子である私が、彼をけむたがっていて、なかなかつきあわない、ということであるが、実際はそうではない。酒の席でする話といえば、女の子の話から父の小説に関する話等々、たわいもない。その何でもない話をしていても、私は何とはなしに話しづらいというか、他のどの人と話すよりも言葉づかいに神経を働かせている自分に気がつくのである。父は、普段でも、何かしら皮肉っぽい人ではあるけれども、最近では多少酒が弱くなったせいか、少しでもアルコールが入ると、かなり攻撃的なゾッとしない性格になってしまうからかもしれない。
 例えば、父と、某夫人と私との三人で、夜の食事をしていた時――。
 某夫人「龍ちゃん、最近素敵になったわねえ。私も、二十年早く生まれたらほっとかないんだけどな」
 私「お世辞にしても、光栄です」
 父「おい、龍之介! 何だ、いまのいい方は。それでも、オレの息子か。そんな平凡なうけこたえなら、鈴木君でも田中君でもだれでもできるんだ、馬鹿野郎!」
 この調子である。彼のいわんと欲するところは私にもわかっているのだけれど、たまたま、その間の二、三秒の頭の回転スピードが悪いと、こういうふうになってしまう。
遠藤龍之介「父を語る」
昭和51年12月



 遠藤君に初めて会った時は詰襟の学生服をきちんと着た糞真面目でつき合いにくそうな評論家志望の学生だったが、最初のその印象は大間違いだった。頭の回転が速く、その場その場で東京弁と関西弁を巧みに使い分け、当意即妙の嘘をつき、嘘つき遠藤と言われた。後年、嘘つきでは人格を傷つけるとでも思ったのか、ホラ吹き遠藤と言うようになったが、ホラ吹きには知性が感じられず、文学者に対して失礼だ。彼の嘘はサーヴイス精神から出た無害な一種の悪戯だから、騙されても、やられたと笑ってしまい、腹を立てる者などいなかった。当時「三田文学」で先輩に一番可愛がられていたのは彼で、飲みに行く時はいつも連れて行かれ、遠藤は一銭の金も持たずに毎晩飲み食いしていると言われていた。
 皆から好かれるのは、嘘つきとは矛盾するが、正直だったからだ。文学青年の大方は有名作家になりたいと思っていても、文壇での栄達など眼中にないような顔して小難しいことを言っているが、遠藤君は「早く有名になりたいなあ」とか「電車に乗ると乗客が、あ、遠藤周作だ、と囁きあい、じろじろ見られるようになりたいなあ」とよく言っていた。そんな素直で正直なところが多くの読者を持った所以だと思う。
大久保房男「遠藤周作と原民喜」
平成8年12月



 私がカトリックに受洗したとき、遠藤さんは代父をしてくれた。面倒な役目なのに黙々として責任のある行為を果してくれた。受洗後のパーティーに、遠藤さんを中心とする作家たちが集ってくれた。そういう大層な宴になるとは思っていなかった私は、びっくりして感謝した。遠藤さんのスピーチはふるっていた。
「きょうは、ぼくにたぶらかされた連中に動員をかけて集めた。加賀君もついにぼくにたぶらかされた。へっへっへ、ざまを見ろと言うところかな。おめでとう」
 ぺンクラブの会長を、居心地悪そうに勤めていたように、カトリック作家としての態度も、どこか恥ずかしげであり、わざと自分をくさすような所があった。
「ぼくがカトリックでいる効用は、ぼくみたいな駄目な男でも信仰者になれるんだから、誰でも気楽に洗礼を受けようという気になることさ」という。駄目な男などとんでもない、キリスト教文学者として余人の追随を許さない境地を開いていると私は思うのだが、そういうことを抜け抜けと言えるだけの、自信と実力が備わっていたから、聞いた人はユーモアとして気持ちよく笑えるのだった。
加賀乙彦「遠藤周作さんと私」
平成8年12月



 今年、まずいことが起った。私は安岡章太郎氏にある世話を受けたので、お礼にライン・ワイン二本を送った。すると安岡氏はそれを随筆に書いたが、単にだしぬけに私がワインを送ってきたかのごとく記述した。
 これを読んだ遠藤氏は立腹した。
「安岡にライン・ワインをやって、おれのところはしなびたキュウリ三本だ。人の家にやってきて飲んだり食ったりして、キュウリ三本とは北杜夫はなんというケチな男だ。」
 もっとも、遠藤氏は神に近い人物であるから立腹しつつも今年、私が軽井沢へきたらぜひ寄るように言ってくれた。(中略)
 遠藤氏は傍らの賢妻に怒鳴るように言った。
「おおい、ケチな北の野郎がフランスの葡萄酒なんか持ってきおったぞ。こちらも負けてはならぬ、戸棚をあけろ。あそこにはジョニイ・ウオーカーでもナポレオンでも数十本ごろごろしているだろ。どうもあり余ってしまって始末に困る。北の奴が帰るとき、五、六本包んで持たせてやってくれ。」
北杜夫「金貨ジャラジャラ」
昭和49年12月



「ボクはネ、本当は、弥次さん喜多さんみたいに暮らしたかったんだ」と、あるとき遠藤周作さんが言った。弥次さんと喜多さんはむろん『東海道中膝栗毛』の主人公で、滑稽な失敗を繰り返しながら、呑気に日々を送る連中だ。「それがカトリック作家になんかなっちゃって」とは言われなかったが、そうつけ加えても不思議でない顔つきだった。狐狸庵と遠藤周作、ピエロと求道者、といった遠藤さんの二面性は、よく指摘されるところだ。マジメな遠藤さんとフマジメな遠藤さん、正直に本音を語る遠藤さんと、嘘デタラメで相手を煙にまく遠藤さん。二人の遠藤さんがくるくると交替するので、応接に難渋することもしばしばだった。(中略)
 虚実とりまぜて、遠藤さんの話はいつ聞いても楽しかった。言葉の背後になにかしら暖かいものが流れていた。でたらめを言っているようでいて、言葉のはしはしに、人生を見る厳しい目や、小説家の知恵が隠されていた。遠藤さんはじつに不思議な人だった――そしてじつに素晴らしい人だったと、長逝されて三年、今、あらためて思うのである。
高山鉄男「虚実」
平成11年11月



 十年前といえば、私が直木賞を受賞してすぐの頃である。が、当時ちんぴらエッセイストの印象がまだ強かった私を、どうして先生が対談相手に指名してくださったのかわからない。
 後になって先生は
「僕はキワモノが好きなんだ。前にデヴィ夫人とか、おかしな占い師とか、そういうものだけを集めた対談をしたことがある」
 とおっしゃっていたから、私の場合も持ち前の強い好奇心によるものであったろう。(中略)対談の店を出た後、先生はそこまで一緒に帰ろうと誘ってくださった。そして歩いている最中、先生は不意に真面目な顔でこうおっしゃった。
「君、僕と腕を組まないかい」
 私たちは恋人同士のように公園通りを歩いた。案外知られていないことであるが、先生は長身で外国の紳士のように姿勢がよかった。傍の私も女としては背が高い方だ。かなり目立ったはずであるが、すれ違う若者たちはこちらを一瞥だにしない。
「けしからんじゃないか」
 先生は半ば本気で怒っていた。
「僕と林真理子が腕を組んで、渋谷を歩いとるのに誰も見ないとは……」
林真理子「揺れ動く輪郭」
平成8年12月



 翌年、遠藤氏がアメリカのジャパン・ソサエティの「国際インテリ交流」とかいうプログラムに招かれて、私の住んでいたニューヨークにやってきた。ちょうど氏の『火山』が英訳で刊行された時だったので、ニューヨークの有力新聞の文芸欄記者が会見を申し込んできた。私は『火山』の英訳をしたわけでもないのだが、遠藤氏の依頼で、お世話になっている日本の作家を見知らぬ土地で見捨てるわけにはいかないと、その会見の通訳を引き受けた。その日、新聞社の方へ一緒に歩きながら、遠藤氏が、
「君、『火山』のテーマは何かと聞かれたら、オレ困るんだよ」
「どうしてですか」
「だって、あれは二十年も前に書いた作品で、もう全然覚えてないぞ、だからそのような変な質問がでたら、君うまく答えておいてくれんかい」
 案の定、記者の部屋に入って挨拶を交わしてから、まず一番に出た質問が『火山』のテーマに関するものだった。遠藤氏が一瞬微笑みながら私の反応を上目づかいに確認してから、すごく流暢にその小説の文学的意義を説明しはじめた。だが、「やられた」という気持ちが全くない代りに、作家と評論家、作家と読者の相互作用はこういうものだと気づき、文学も楽しめるものだと私は感じ取った。神さまも世界や人間を創造された時、苦しい顔をなさったのではなく、このようないたずらっぽい微笑を浮かべたのではないだろうかとも思った。
ヴァン・C・ゲッセル「人間の孤独からの救い」
平成3年8月



 若い者を集めて芝居をはじめた。劇団樹座という。キザと発音する。ロミオとジュリエットのロミオをするつもりだったが、あたえられる役はいつも金貸しの老人、といった役ばかりなのでひがんでしまった。
 ボーリングをはじめた。早く上達しようと思って、阿川弘之と一緒にやった。ピン一本につき、百円の割でかけることにした。
 レーンの真中で、
「四百円よこせ。さあ、よこせ。」
「バカ、今のは練習という約束だった。」
 と頭の禿げかけた男と半白の男がののしりあうので、人々のヒンシュクを買った。おまけに一年たっても、アベレージで八十とか九十という情ない成績で、隣りのレーンでやっている若者に嘲笑されてやめた。
 将棋をはじめた。負けるとくやしいもので当時、小学生だった令息の龍之介君を相手にやった。面白いように勝つ。
「そりゃな、親子だもの、息子に勝たせたいよ。しかし、負けよう、負けようとしても、負けられないんだ。ホラ、つんだ。」
 半年ほどで、形勢逆転した。龍之介君の方が断然、強くなった。
三浦朱門「雲谷斎狐狸庵山人の生いたち」
昭和49年8月



 遠藤が帰国したのは、昭和二十八年である。ぼくが彼と知りあったのはそれから間もなくだが、彼は三年ぶりに吸う日本の空気になかなかなじめないらしく、浮かぬ顔をしていた。朝鮮戦争と対米構和条約の締結とをあいだにはさむ数年間は、おそらくは平時の何十年にも相当する。遠藤はちょっとした浦島太郎であって、おれはアフリカへでも行ってしまいたい、と呟いていた。遠藤の人生でも、もっとも鬱屈していた時期だったと思う。
 当時遠藤はまだ結婚まえで、よく飲んだしよく泊りにもきた。(許嫁だった現遠藤夫人は、パリに遊学中だった)夜中に玄関の戸を叩いて、「おーい、税務署だ。お宅は税金を払っていないだろう」
 真夜中に税務署が来るわけがないから、これは遠藤にきまっているのである。この時代に、のちに八ヶ岳で自殺した服部達と遠藤とぼくの三人で、「メタフィジック批評」と副題をつけた評論を、雑誌に連載した。副題は、遠藤の創案だった。
 遠藤は評論のほか小説を少しずつ書き、また匿名で通俗小説まで書いていた。フランスで出会った娼婦が、じつは往年の美人女優、コリーヌ・リシェールだったという物語が、『オール読物』に出たことがある。作者名はべつの名になっていたが、遠藤の作である。彼がこういう仕事をしていたのは、小遣いかせぎのためだけではなく、小説の筆ならし、という意味もあったようである。「白い人」は雑誌『近代文学』に発表され、昭和三十年上半期の芥川賞をうけた。遠藤の名は、一躍有名になり、彼は作家としての生活にはいるのである。
村松剛「解説」
昭和44年



 遠藤さんに初めてお会いしたのは昭和五十年の春。想像以上に長身でダンディな風貌に目をみはり、緊張で身を固くしている私を見下ろした遠藤さんは、慎みぶかい低い声で、
「折角お会いしたのに残念ですが、明日アフリカへ参ります。もしカバに食われるようなことがありましたら、そのカバのウンコを貴女にお送りするよう手配しておきます。形見だと思って大事にして下さい」
 十数年来の愛読者であった私の心の中には、純文学も狐狸庵物も程よく共存していたのだが、いかにもカトリック作家然とした紳士の口から、いきなり飛びだした狐狸庵風言語にすっかり動転してしまい、慌てて答えた声は裏返っていた。
「出来れば、お腹をこわしていないカバで、お願いします」
 遠藤さんは、嬉しそうに指をならすと高らかに宣言された。
「わかりました。よく吟味して、腹をこわしてない奴を選んで食われましょう」
山崎陽子「腹っぱで遊んだ日」



 宗教をはなれた話題になると、彼の話術の軽妙さは驚嘆に価した。
 私がやたらに笑っていると、
「おれは妙齢の美女と散歩をしていてな、その女が笑いすぎてそのままオルガスムになったことがあるぞ」
 と、言ったことがある。
 遠藤にその実績があるかどうか、たぶんホラ話だろうが、女性についてそのことが可能であるのは、ここで私が保証しておく。
 昭和三十三年だったか、遠藤の『海と毒薬』という長篇がある文学賞を受賞した。
 そのころのある日、朝刊を開いてみるとその著書の広告が大きく出て、遠藤のまじめくさった写真も載っていた。
 さっそく電話をかけて、
「おい、世界の苦悩を一人で背負っているようなシャシンが出ていたな」
 というと、大そうテレていた。
吉行淳之介「ユーモアと話術」
昭和49年7月



 遠藤さんが亡くなる一年前、御病状が小康を得られているという合間を捕えて、雑誌の対談をお願いした。ぜひとも逢っておきたい切迫した気持からだった。
 この日の遠藤さんは、顔面が凍りついたように表情がなく、昔のように笑わせてもくれなければ、笑ってもくれなかった。辛くて切なくて、私は疲れはてた。
 対談が終っても遠藤さんはなかなか立ち上ろうとしなかった。私は遠藤さんの別荘の前に、雨の日、幽霊が出るという噂だと面白おかしく話した。遠藤さんはやっと少し明るい声を取りもどし、
「あれなあ、女房のいとこに美人のお茶の先生がいてなあ、時々あの茶室使ってもらってるんだよ。閉めっぱなしだと家が傷むだろ。その人が和服で紫の蛇の目を半開きにして立つと、嫋々としてるんで、幽霊に見えるんだな」
 私はことさらに高い笑い声を立てた。
 大きな編集者の肩にすがって、長い廊下を去っていく蹌踉とした遠藤さんの長身のおそらく見収めになるだろう背姿に向って、私は涙をこらえながら人に分らないように合掌していた。
瀬戸内寂聴「孤離庵のこと」
平成8年12月

昭和18年 昭和43年10月 平成3年3月


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