◆第59回芥川賞選評−昭和43年上半期−
大庭みな子「三匹の蟹」 初出「群像」(昭和43・6)
丸谷才一「年の残り」 初出「文学界」(昭和43・3)
◆受賞作・冒頭(大庭みな子「三匹の蟹」)
海は乳色の霧の中でまだ静かな寝息を立てていた。藺草のような丈の高い水草の間では、それでももう水鳥が目を醒ましていて、羽ばたいたり、きいきいとガラスをこするような啼声を立てていた。灰色の汚れた雪のような鴎はオレンジ色のビイ玉のような眼をじっとこちらに向けて横柄に脚で砂を掻いてはぷい、と横を向いた。
歩いていると、霧が流れてくるようであった。由梨は破れたストッキングの間でざらざらする砂を、たわめたあしのうらで脇に寄せるようにしながら歩いた。海は黒味を帯びた藤色であった。バスの停留所の黄色い標識のところには鳥打帽を被ったズックのボストンバッグを持った若い男が一人待っていた。
「霧があがれば、いい天気になりそうだなあ」
男は由梨に言うとも、独り言ともとれるようなうなずき方で言った。
由梨は霧の流れていく、濃い乳色の壺の奥でかすかに光っている海に目をとめたままの姿勢で、あしのうらの砂をたわめた小指の先でしきりに脇に寄せた。暫くして、目を落すと、蟹が二匹連れ立って由梨の爪先からほんの二三十糎のところを這っていた。蟹の甲羅は甲羅であって、顔ではないのだが、どういうわけだか、由梨はいつでもそのいびつな蟹の甲羅が顔に思えて仕方がないのである。
◆受賞作・冒頭(丸谷才一「年の残り」)
かぞふれば年の残りもなかりけり
老いぬるばかりかなしきはなし
和泉式部
1
小さな花をつけた二本の草。すらりと伸びた、細くて強い茎。右側の、心持かしいでいる長いほうには花が一輪、左側のまっすぐな短いほうには二輪。
しかし大事なのは花でも茎でもなく、やわらかに横へ伸びている数多くの葉であった。それは鳥の羽根に似た細長い複葉で、羽根の羽毛に当る二十対以上もの小葉は、さきへゆくにつれてすこしずつ小さくなりながら、整然と並んでいる。その秩序は、何か図案めいた可憐な感じを与えた。二本の草は画面いっぱいに、丁寧に描いてあった。殊におびただしい数の小葉が、鉛筆の線でいちいち入念に辿られているのは恐しいくらいである。筆づかいも細心で、線からはみ出ている箇所など一つもない。花は黄いろ。茎は淡い茶いろ。そして葉は明るいみどり。もっとも、塗ってあるのは手前の草だけで、もう一本の丈の高いほうはデッサンのままほうってある。
水彩画を見ている少年に、老人は説明した。
「カワラケツメイだね。夏の花だ」
少年は顔をあげて言った。
「片方しか色をつけてないのがしゃれてますね」
たしかにその投げやりな態度は、克明な写実がもたらしがちな古くさくて退屈な感じを救っている。
◆候補作
山田稔「幸福へのパスポート」
後藤明生「S温泉からの報告」
斎藤昌三「拘禁」
加賀乙彦「くさびら譚」
山田智彦「予言者」
杉田瑞子「北の港」
◆選評(抜粋)
三島由紀夫
最後までのこった二作「年の残り」と「三匹の蟹」で、委員たちの票は二つに割れた。私は「年の残り」のほうを買った。前作にもよく出ている、ペダンティックなところはあり、いかにも花のない作家であるが、今度の作で何かを確実に把握したという感じがある。人生、老、病、死の不可知を扱って、それを不可知のままで詠嘆に流しているのではなく、作家としての一つの苦い観点を確保したと思われる。
石川達三
候補作品八篇を通読して、技術的にはいろいろ優れた作品もあるけれども、作品の大きさ、量感という点ではいずれも落第だとしか思われなかった。私は、(これは私の癖であるが……)小器用にまとめた小さな小説というものは、いくら書いても仕様がないと思っている。つまり心に残るような感動がないのだ。「北の港」は通俗だという理由で簡単に斥けられたが、その事とは別に、一種の量感があり、面白くもあった。
井上靖
「三匹の蟹」は発表当時余りにも世評が高かったので、銓衡委員会では自然にきびしい採点になったように思う。併し、この作品に見る文学的資質は相当なものであり、はっきりと設定した主題に向って、細部にわたって一つ一つ効果を計算しながら書いて行くところはみごとであると思う。第一作が好評だったので、これからの仕事の仕方が難しいが、失敗作を書くことを怖れぬ方がいい。
石川淳
丸谷才一君は前回に提出された二作をもってしてもすでによく銓衡の場に堪えた。今回の「年の残り」に至っては、むしろ賞のほうが遅れて出たともいえるだろう。しかし、遅れた代りに、「年の残り」は前二作には見られなかった老年の世界を組みあげて、趣向もだいぶ手がこんで来ている。(中略)まだ規模は大きくはないにしても、丸谷君の力量は一応ここにさだまったものと見える。
川端康成
「三匹の蟹」では、あのように暮し、あのように会話し、あのように性をするのは、今日の一つの流れのうたかたに浮いて、まあ時代思潮の一端に軽くでも触れていると言っていい。このような小説が現在世界の方々にあることは誰も知っているが、これはど形に現わした小説は、まだ日本であまり見ないようだ。それだけでも芥川賞に価する。才能もある。自重して進めば、おもしろい作家になる。
丹羽文雄
八篇の中で好きだったのは、後藤明生君の「S温泉からの報告」であった。井伏君に似たところがあると思ったが、そのユーモアなところは作者の本質的なものであることが判った。才能のある人であり、今後がたのしみである。
舟橋聖一
私は丸谷を推した。前回及び前々回の二作も、授賞スレスレまで行っていたが、今回の「年の残り」はそれを見事に突破した。殊に多比良が自殺したとき、その夫人が入って来て、別に慌てる風情もなかったのに、その傍らで犬が殺されているのを見た瞬間、卒倒するところが、いかにも鮮やかに書けている。横光さんの初期の作品を思わせるような文体の綾も捨て難い。
滝井孝作
大庭みな子さんの「三匹の蟹」は、私は初めて読んだが、海外居住者の退屈、無聊、孤独、死にたいほどの寂寥が、私にはよくわかって、この作に感心した。(中略)退屈、無聊、孤独、寂寥の言葉は、一語も書いてないが、この無内容な時間を何とか過ごさねばならない、やりきれなさが、読みながら実に感じられる小説だ。
大岡昇平
「年の残り」は老人の心理がよく描けており、人間の生について、根源的な問いを発している。丸谷氏は外国文学の技法に通じており、その作品はとかくリブレスクと評されることがあるが、この作品のテーマの捉え方は、明らかに氏の作家としての個性的な核に根ざしている。これまでの候補作にもそれは認められたが、「年の残り」では、それが明瞭に出ている。
永井龍男
「三匹の蟹」は、群像新人賞当時の評判が高かったので、おのずと身構えて読む形になったが、読後の印象は今回の候補作中もっとも純粋であった。男と思うと女の言葉であったり、母と思うと娘の発言であったり、会話が拙劣だという評が出たが、これは英文小説式の「彼は云った」「彼女は云った」の小うるさい記述が、前後の混乱を呼んだので、会話そのものの拙さではなかろう。
中村光夫
八篇のなかで大庭みな子氏の「三匹の蟹」がやはり一番すぐれています。作中人物がみな利口ぶって爪立ちしているのに、作者が半分しか気付いていないのが欠点ですが、女主人公のぎすぎすした不安に現代生活の虚しさが自ずからでています。巧んだ小説でいながら、どこか本物を感じさせます。
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