◆第55回芥川賞受賞作−昭和41年上半期−

該当作品なし



◆候補作

阿部昭「月の光」
西村光代「紫茉莉」
山崎柳子「眼なき魚」
萩原葉子「天上の花−三好達治抄−」
なだいなだ「しおれし花飾りのごとく」
大野正重「アルカ小屋」
野島勝彦「胎(たい)」
長谷川修「哲学者の商法」




◆選評(抜粋)

石川達三
 私は当選作はあったと思う。「眼なき魚」は前回当選の「北の河」や前々回当選の「玩具」にくらべて劣るものではない。私は自信をもってこの作品を推した。この作者は既に文学を自分のものにしている。自分の小説作法をちゃんと持っている。そしてこの作品には芸術的な『美』がきちんと表現されている。

大岡昇平
「胎」は他の委員にまったく不評だったが、私は一番むずかしい主題を追求していて、作者の態度に好意が持てた。ただこの主題はすでに女流作家が何度も書いている。世代の異る女性の「胎」を網羅しているのが、滑稽な印象を与えて損をした。終りの聖書の引用句については、勘違いしているようである。

滝井孝作
 新潮の三月号に「天上の花−三好達治抄−」が出た時、すぐ読んだら、これは、単音でない、管楽・弦楽・打楽などの交響音で、これはうまくなったと思った。一気に終いまで読んだ。(中略)大体に、此頃雑誌の小説は低い感じのものが多いが、とにかくこの高いリズムのある作品は、推称に価すると思った。今回の候補作品の中では、「天上の花」が図抜けて佳かった。

丹羽文雄
 山崎柳子氏の「眼なき魚」は、今回の候補作品の中ではいちばん秀れていると思った。よくこれだけ抑えて書いていると感心した。省略が心にくいほどである。が、最後に自動車にぶつかり自殺するのは早すぎた。遺書のために殺したのであろうが、自殺でなく単なる事故死か、いっそ殺さない方がよかったのではないか。が、このひとには期待がもてる。次作が大きなたのしみである。

三島由紀夫
 候補作全体を通じて、人間が生動して、その息吹、その慟哭がきこえるように感じられたのは、ただ一篇、萩原葉子さんの「天上の花」における三好達治氏の人間像だけであった。しかし、わざわざ、「天上の花」の三好達治氏像と断わらなければならないのが悲しい。(中略)「私」と現実との距離測定の不正確さ、各人物に対する「目」の均質でないこと、……そういうことが、私をしてこの作品を強く推させなかった理由である。

石川淳
 今回は該当作品なしとするのが妥当のようである。提出された八篇をざっと見わたしたところ、読むにも堪えないようなものが二三篇、その他についてもとくに推そうとおもうほどのものはなかった。こういう文学状況がつづくのは、こまったことである。

中村光夫
 萩原葉子氏の「天上の花」は、読んで面白いことでは今回の候補作のなかでは抜群ですが、小説といえるかどうかに疑いがあり、芥川賞の性質々これを小説として読もうとすると、いくたの無理がでてきます。つまりそれは僕等の持っている小説の概念を拡張するだけの魅力がこの作品にないということで、特に後半の叙述が単純な恩師物語、文壇出世物語めいてくるのが不満でした。

永井龍男
「眼なき魚」は、黒い混血児を扱って、ことの問題性をことごとく伏せ、肌で描いた処が魅力になっている。全篇を包んだ抒情は同性愛に発しているが、この作者の神経はかなり行届いたもので、時には省略に過ぎて立体性を失うような個所すらある。そんな処が、この作品の欠点になったようだが、なお私はこの作者の神経を買う。次作に期待したい。

井上靖
「天上の花」は三好達治を描いた作品で、これが創作であるかどうかということにも問題があり、三好達治について知るところなき私などには、どこまで事実を違えず書いてあるか、判定を下し得ぬところにも問題があった。(中略)小説としてはかなり欠点の指摘できる作品だが、それでもなお読後感にはこちらを揺すぶって来る強いものがあった。

川端康成
「天上の花」はその印象、あるいは感銘の強さにおいても、候補作品のなかで、一つ別もののようであった。例えは他の有力候補作、「眼なき魚」の黒人との混血少女と、「天上の花」の三好達治とをくらべると、読んで受け取るものに、ずいぶんと差がある。それが頭から抜けないので、どうしても私は、「天上の花」を落して「眼なき魚」を取るとか、二つをならべて入れるとかは出来なかった。

舟橋聖一
 萩原葉子「天上の花」を、私は授賞作にしたかった。ある詩人の愛慾図絵は、とにかく迫力をもってよく書けている。表現力だけについて云っても、他の候補作にくらべて抜群だ。この作者が、犀星と朔太郎の出会いを、「世紀の対決」というセンセイショナルな修辞で書いたのを、三好が腹を立てて憤るところは、表面センセイショナリズムのきらいだった三好の様子が、彷彿として偲ばれた。




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